第13話 報告書の宛先
巡察使の一行は、翌朝発つことになった。
荷を積んでいるところへ、王都からの早馬が着いた。
馬から降りた使いは、まっすぐシメオン司祭のところへ行った。司祭は封を切って、二度読んだ。
それから、こちらを見た。
「聖印が、出ました」
わたしは、荷馬車の脇に立っていた。
「大聖堂の、落とし物の卓にあったそうでございます」
「落とし物の」
「断罪の日、床を掃いた者が拾って、決まりどおり置いたと。三月経てば売り払う決まりでございますので、あと三日ばかり遅ければ、銀屋の炉の中でございました」
わたしは、何も言えなかった。
誰も悪くない。掃除の者は決まりどおりにした。侍女は聖印を運ぶ役目を教わっていなかった。宝物庫の係は、来ないものを待たなかった。
誰も悪くないまま、あと三日で、聖印は溶けていた。
「どなたが、見つけてくださったのですか」
「大聖堂の下働きの者が申し出たと、ここには」
司祭は書状を畳んだ。
「名は書かれておりません」
わたしは、腰の曲がった老爺の姿を思い出した。
三年間、朝いちばんに顔を合わせるのは、あの人だった。砂の袋を担いでくれた。有難うございます、これで半年もちます、と、わたしは毎回同じことを言った。
ヨナス。
言えば、掃除の若い者が罰を受ける。それが分かっていて、言ったのだ。
「では、その件は落着でございます」
シメオン司祭は、そう言った。
「わたくしの用の、半分が済みました」
謝罪は無かった。
この方は、間違っていたと思っていない。順序に従って、最後に触れた者から順に探した。それだけのことだ。
「もう半分は」
わたしは聞いた。
「報告いたします」
「どちらへ」
司祭は答えなかった。
代わりに、書記が荷を積んだ。革の箱に、帳面と、別紙の束。束ねた紐の上に、宛名の紙が挟んである。
わたしは、そこを見た。
——ドミニク・ヴァレ猊下
知らない名だった。
シメオン司祭が、わたしの視線に気づいた。気づいたが、隠さなかった。隠す必要がないと思っている顔だった。
「よろしいのですか。見えておりますが」
「かまいません」
彼は箱の蓋を閉じた。
「わたくしは、手続きを重んじますので。報告は、報告すべきところへ参ります」
馬に乗る前に、シメオン司祭はもう一度こちらへ戻ってきた。
書記も、剣を提げた者も連れずに、一人で。
「一つ、伺ってもよろしいか」
「はい」
「あの布は、何度洗えば、また使えます」
わたしは、司祭の顔を見た。
まばたきは、やはり少なかった。
「三度でございます。洗って、日に干して、乾かしてから張ります。三度で落ちない汚れは、もう落ちません。そのときは、捨てます」
「捨てる」
「はい。惜しんで使うと、下の砂が早く死にます」
司祭は、頷いた。
それだけだった。礼も言わず、含みのある言葉も残さず、彼は馬のほうへ戻っていった。
わたしは、その背中を見ていた。
この方は、昨日の記録を破った。破って袖に入れて、無かったことにした。
けれど今、布の洗い方を聞いていった。
無かったことにしたものを、この人は、自分の頭の中には残していく。
それが何になるのかは、わたしには分からない。
一行が坂を上りはじめてから、わたしは館へ戻った。
広間に、修道院の院長が来ておられた。夕餉の一件以来、この方はよく坂を下りてくる。今日は、見送りの礼のために来たのだと言った。
「ドミニク・ヴァレという名を、ご存じですか」
院長の顔から、笑いが消えた。
消えたことに、ご自分で気づかれたようだった。慌てて笑い直したが、遅かった。
「……枢機卿でいらっしゃいます」
「どういう」
「聖水の頒布を、差配しておられる方でございます」
「頒布」
「王都で汲まれた聖水を、諸領へ配る。その差配を」
辺境伯が、卓から顔を上げた。
「配るのか。あれは」
「配ります。年に四度。値がついております」
広間が、静かになった。
わたしは、王都の地下を思い出した。
樽が六つ。太いのが四つ、細いのが二つ。細いほうは、わたしが濾すためのものだ。太いほうは、汲み置きの樽。あの太い樽の水が、どこへ行っていたのか、わたしは考えたことがなかった。
毎朝、わたしが濾していた。
濾した水が、値のついたものとして、この国じゅうへ配られていた。
「おいくらでございますか」
「小瓶一つで、三フロリンと聞いております」
三フロリン。
水番の給金が、年に十二フロリン。
わたしは卓に手をついた。
「リゼット殿」
「……失礼いたしました」
わたしは息を整えた。
腹が立っているのではない。腹が立つ前に、腑に落ちてしまった。だから、余計に息が詰まった。
わたしが手を隠して、白い手袋をはめさせられていた理由が、いま分かった。
荒れた手をした者が濾した水では、三フロリンにならない。
その日の昼過ぎ、広場に音が戻ってきた。
最初は、桶の音だった。
誰かが栓を捻って、水を汲んだ。次の人が並んだ。その次の人が並んだ。三日ぶりに、列ができた。
わたしは台の上で、上の樽の砂を掻いていた。
列の途中から、鍛冶屋の親父が籠を担いで上がってきた。
籠には、黒くて軽い炭が山ほど入っていた。
「焼いた」
「あの、これは」
「消し炭だ。屑だと言っただろう。屑なら、俺が焼く」
親父は籠を台の脇に下ろした。
「十日に一度、六袋だったな」
「……はい」
「多いか」
「ちょうどでございます」
「そうか」
親父はそれだけ言って、下りようとした。
わたしは呼び止めた。
「親方」
「なんだ」
「焼き方を、どちらで」
親父は、耳の後ろを掻いた。
「あんたが、最初の日に言っただろうが。おこして、赤くして、土で伏せると」
一月半前だ。
わたしはあの日、七人に話して、七人に断られた。鍛冶屋の親父は、炭のところだけ聞いて、「消し炭ならいくらでもやる」と言った。それきり、覚えるつもりはないのだと思っていた。
「覚えて、おられたのですか」
「覚えちゃいねえよ」
親父は籠を担ぎ直した。
「昨日、あんたが布を持ち上げたときに、思い出した」
夕方、わたしは川原へ砂を洗いに行った。
ノラが先に来ていた。桶に手を入れて、砂を掬っている。
「見て」
ノラが言った。
「濁ってる」
「洗えば澄みます」
「そうじゃなくて」
ノラは、川のほうを指した。
わたしは顔を上げた。
サルド川の水が、白い。
いつもの濁りではない。泥の茶色でも、鉄の赤でもない。乳を薄めたような、白っぽい濁りだ。それが、川の真ん中を帯になって流れている。
わたしは川に入って、掬った。
匂いは無い。指でこすると、ざらつく。舐めると、舌の上に苦みが残った。
「なんの色」
「分かりません」
わたしは板を出した。炭で、川の線をなぞる。
上流から来ている。当たり前だ。水は上から下へしか流れない。
けれど、季節が違う。
雪解けの濁りは春だ。雨の濁りは夏の終わりだ。今は、どちらでもない。
この時期に、川が濁る理由を、わたしは知らない。
板の上の、まだ白いままの場所を見た。
トゥールの丘。
人がいなくなった村、オーヴ。
わたしは砂の桶を担いで、立ち上がった。
「ノラ」
「なに」
「明日、上流へ参ります」
【今日の水】セドラ広場の水汲み場、三日ぶりの列。飲めます。/サルド川、白く濁り。理由は不明です。
お読みいただきありがとうございます。
人が手順を覚えるのは、教わったときではなく、必要になったときなのだと思います。鍛冶屋の親父は一月半前に聞き流して、昨日、思い出しました。
次話——上流へ上がります。川が白い理由は、上でしか分かりません。




