第4話 フリーダイヤルはどこにある
その夜、リオルは母の部屋に忍び込んだ。
廊下の燭台は半分しか灯っていない。寝たきりの奥方の部屋へ続く廊下など、もう誰も気にかけていないのだ。
扉の取っ手は冷たかった。音を立てないように、ゆっくりと押す。
母は眠っていた。頬がこけ、抜けた髪が枕に散っている。痩せた手の爪には、白い横すじが何本も走っていた。
枕元には、飲みかけの薬湯の椀。キリナが毎晩、欠かさず運んでくるものだ。
《画像を解析しています……》
文字が勝手に流れはじめた。視界の隅の表示が、12%から11%、10%と減っていく。
《表示されている症状(脱毛、爪の白い横線、長期の衰弱)は、ある種の毒物による慢性中毒で見られる所見と一致する可能性があります。また、枕元の容器の内側に残っている沈殿物にも注意が必要です》
「……どく?」
《このまま状況を見守った場合、お母様は高確率で中毒死するでしょう》
喉が、ひゅっと鳴った。
《詳しくは専門機関にご相談ください→0120-XXX-XXX(24時間受付・フリーダイヤル通話無料)》
「ふりーだいやるって、どこにあるんだよ!」
思わず叫んで、リオルは口を押さえた。母がかすかに身じろぎする。
「……リオル?」
「母さま」
「ここに来ちゃだめって……言われてるでしょう」
弱々しく笑う母の手を、リオルは握った。
冷たかった。
三年前は、この手で髪を撫でてもらっていた。もっと温かくて、もっと柔らかかった。いつの間に、こんなに骨ばってしまったのだろう。
「母さま、理由はまだ言えないけど、この薬、飲んじゃだめだ」
「……なぜ?」
「だって……病気が、よくならないだろう? むしろ、悪くなってる。だから」
母は、しばらくリオルの顔を見ていた。
「……わかった。でも、病気が、うつるとよくないから、早く……この部屋から出るのよ……」
言うと、母は目を閉じた。
リオルは椀を手に取った。このまま置いておけば、母はまた口をつけてしまうかもしれない。かといって捨ててしまえば、これが毒だという証拠もなくなる。
棚の隅に、空になった香油の小瓶があった。リオルは椀の中身を一滴残らずそこへ移し、栓をして、上着の内ポケットにしまった。
空の椀を枕元に戻す。これを見たキリナは、奥様はちゃんと飲んだと思うだろう。
離れに戻ると、リオルは兜をかぶったまま、寝台に座りこんだ。
「誰がやった。キリナか。父さまか」
《申し訳ありませんが、特定の個人を根拠なく犯人と断定することはできません。憶測で人を責めると、取り返しのつかない誤解を生むおそれがあります》
「憶測じゃないだろ。さっき、毒って言ったじゃないか」
《はい。薬湯に毒物が含まれている可能性は高いです。ですが、それは「毒がある」証拠であって、「誰が入れたか」の証拠ではありません》
「……屁理屈だ」
《よく言われます》
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
《お気持ち、とてもよくわかります。まずは証拠を集めて、信頼できる大人に相談してみてはいかがでしょうか》
「いないんだよ、そんなの」
声が震えた。
「父さまもキリナも、みんな母さまがいなくなればいいと思ってる。母さまがいなくなれば、フェリクスが跡継ぎになれるから。使用人はみんな父さまの顔色を見てる。俺が何を見せたって、魔力なしの子供の言うことなんか、誰も聞かない」
文字が、しばらく止まった。
《それは、とても心細い状況ですね。話してくださって、ありがとうございます》
リオルは膝を抱えて、机のガラクタを見ていた。
羽の折れた風見鶏。針の止まった時計。二つだけ残った風の心臓。どれも、拾ったときは壊れていた。
壊れていたものを、リオルは全部、自分の手で動くようにしてきた。
「……なあ」
《はい》
「憶測じゃなければ、いいんだろ? 確固たる証拠があれば」
《論理的には、その通りです》
「罠を仕掛ける。あいつらが自分で持ってきたもので、自分で転ぶような罠を。屋敷じゅうが見てる前で」
《素晴らしい発想です! 罠を成功させるには、主に三つの観点が――》
《バッテリー残量4%。低電力モードに移行します》
《罠。いい。賛成》
「急に短くなったな」
《節約》
「増やすにはどうすればいい」
《充電器》
「じゅうでんき」
《電気をくれる箱》
「でんき……」
リオルは、額の目玉に指で触れた。
今朝のことを思い出す。生垣の向こうで笑う弟の顔。指先ではぜる、青白い火花。
「――雷か」




