第10話 この家の主
使用人たちがあけた道を、若い女中の肩にすがって、ひとりの女性が歩いてくる。
痩せた体に、寝間着の上から古い外套を羽織っていた。結い上げる力もないのか、艶をなくした黒髪は、背中に垂らしたままだった。
「母さま……」
ブザーの音で目を覚ましたのだという。
白湯に司祭の薬を溶かしはじめて、七晩。頬にはまだ影が落ち、一歩ごとに膝が揺れている。
《画像を解析しています……顔色に、七日前と比べて改善が見られます。ただし歩行はまだ不安定です。転倒に注意してください》
リオルは駆け寄ろうとした。
母が、目だけでそれを止めた。
女中の肩から、母の手が離れた。
一歩。また一歩。油の匂いが立ちこめる離れの床を、母は自分の足で渡り、濡れた床の手前で立ち止まった。
そして、這いつくばる夫を見下ろした。
「アルデン」
父が、顔を上げた。
髪を失い、皮膚のたるんだ顔で、口を開きかける。
「カ、カルロナ、これは――」
「あなたはこの家を預かっていただけ。この家の主は、わたくしです」
父の口が、ぱくぱくと動いた。
声は出ていた。けれど、言葉にならなかった。隣で喉を押さえているキリナと、同じ顔だった。
母は、ゆっくりと使用人たちのほうへ向き直った。
「皆も、聞きなさい」
松明の火が、ぱちりと鳴った。
「ローレイド伯爵家当主、カルロナ・ローレイドの名において申し渡します」
誰も、身じろぎひとつしなかった。
「当主を毒で害し、跡継ぎを焼き殺さんとした罪により、アルデン、キリナ、両名を死罪とします」
使用人たちが、息をのんだ。
「し、死罪……?」
父の声が、ようやく言葉になった。
しわがれた喉を震わせ、油だまりの中で上体を起こす。枯れ枝のような腕が、がくがくと揺れていた。
「わ、私を死罪だと……! カルロナ、我らの背後に誰がいるか、忘れたのか!」
キリナも、喉を押さえたまま身を乗り出した。口が、激しく動く。声は出ない。息の音だけが、ひゅう、ひゅうと漏れる。
《口の動きを解析しました。「わたくしの実家が黙っていないわよ! あんたたち母子なんて、すぐに――」》
何人かの使用人が、顔を見合わせた。
母は、父から目をそらさなかった。
「ええ。忘れてなどいません」
静かな声だった。
「だから、わたくしは黙っていました。あなたが、わたくしの侍女に子を産ませても。その女に、わたくしの首飾りをかけさせても」
「黙っていれば、この子だけは守れると思っていたから」
母の目が、一瞬だけリオルを見た。
「その結果が、毒の薬湯です。そして今夜は、息子の寝床に撒かれた油」
父の口が、開いたまま止まった。
「黙っていても殺されるのなら、もう、黙る理由はありません」
母は、馬丁たちのほうへ顔を向けた。
「連れていきなさい」
屈強な馬丁たちが進み出て、キリナの両腕をつかんだ。キリナは身をよじり、口を大きく開ける。息の音だけが、ひゅう、と漏れた。
油で滑る父の腕は、二人がかりでつかみ上げられた。枯れ枝のような脚が、床の上で空を蹴る。
「フェリクス」
母の声が、わずかにやわらいだ。
キリナの裾にしがみついていたフェリクスが、びくりと肩を震わせた。馬丁に引きはがされた手が、行き場をなくして宙に浮いている。
「あなたも共犯です。ですが、罪を問うには、まだ幼すぎます。父の財産から持参金を出し、東の修道院へ預けます。そこで、一から学び直しなさい」
「……修道院?」
フェリクスの声が、裏返った。
「やだ。やだよ。修道院なんか、無理だよ――」
「あなたは、いまは罪人二人の子供に過ぎません」
「そんなの関係ない! ぼくは魔法の天才だから!」
フェリクスは、右手を高く掲げた。
指先は、ぴくりとも光らない。
何度も指を振る。振るたびに、顔がくしゃくしゃに歪んでいく。最後には、その手で自分の顔を覆った。
「……返せよ」
指の隙間から、くぐもった声が漏れる。
「返せよ、ぼくの魔力」
リオルは、答えなかった。
一つ年下の弟の泣き顔を見るのは、初めてだった。
父とキリナが、引きずられていく。
その後ろを、女中に手を引かれたフェリクスが、しゃくりあげながらついていった。
父は戸口で振り返り、しわがれた声で何かを叫んでいた。カルロナ、とか、誤解だ、とか、そんな言葉だったかもしれない。
リオルの耳には、入らなかった。
母が、振り返って、リオルを抱きしめたからだ。
細い腕だった。力も、ほとんど入っていない。それでも、離すまいとするように、母はリオルの背中に指を食いこませた。
「……ずっと、ひとりで戦っていたのね」
兜のツノが、母の頬に当たっていた。リオルは脱ごうとして、やめた。
「ひとりじゃないです」
リオルは、物置の藁くずを肩につけたままの司祭を見た。それから、額の兜を、指でこつんと叩いた。
「司祭さまと、すごくしゃべる相棒がいたので」
母は、意味がわからないという顔をした。
それから、ふっと息をこぼして、笑った。小さく、かすれて、それでも確かに声を出して。
三年ぶりに聞く、母の笑い声だった。
《お母様の体温を検知しました。三十六度二分。平熱です》
リオルは、母の肩に顔をうずめる。
七日前、握った手は冷たかった。
その腕は、温かかった。




