第20話 この国の帳簿には、すべての人を記載します
第20話 この国の帳簿には、すべての人を記載します
人工魔力炉が停止してから三か月後、王都には遅い春が訪れていた。議会裁判所へ続く石段の脇では白い木蓮が厚い花びらを広げ、冬のあいだ藁に守られていた山茶花には新しい緑の葉が出ている。アルテミシアは黒い総裁服の下に淡い若草色のドレスを着て、最終判決を聞くため大法廷へ入った。
傍聴席には、西第七区公立治療院の医師や患者、人工魔力炉を停止させた職人、各地の商会主が集まっていた。ノエラの母マルタも一番後ろに座り、退屈したリュカへ蜂蜜飴を渡して静かにさせている。甘い匂いを嗅ぎつけた隣の子どもがじっと見ていたため、リュカは残りの一個を半分に割ろうとして、床へ落としてしまった。
「五秒なら食べられる」
「裁判所の床に落ちたものは駄目だよ」
「昨日、母さんは洗濯場へ落としたパンを食べたじゃないか」
「昨日と今日は床が違うんだよ」
マルタは小声で叱りながら、布に包んだ別の飴を子どもたちへ分けた。近くの人々が笑い、張り詰めていた法廷の空気がわずかに緩んだ。アルテミシアは前方の席からその様子を見て、ルシアンが差し出した審理記録へ視線を戻した。
法廷の右側には、国王アレクシス、王妃オクタヴィア、第二王子レオナールが並んでいた。王冠と礼装の着用は認められず、三人とも装飾のない灰色の服を着ている。国王は朝食に出された豆粥が冷たかったと看守へ文句を言い続け、王妃は指輪のなくなった指を何度も撫でていた。
セオドールも、少し離れた席へ座っていた。ヴァレニウス公爵家の当主印はすでに議会へ返還され、銀糸の礼装ではなく、濃い茶色の上着を着ている。袖口には相変わらず白い猫の毛が一本ついていたが、今日は自分で見つけ、指でつまんで懐へしまった。
「被告アレクシスは、国家公共資産の不正転用、国外金融機関との違法契約、証拠隠滅への関与を認定する」
裁判長の声が、十二枚の通信鏡を通して王国中へ送られた。国王は椅子から立ち上がり、自分の許可なく判決を出すことは反逆だと叫んだ。裁判長は木槌を一度打ち、王位は犯罪を免除する所有権ではないと告げた。
アレクシスは国王を退位し、終身にわたり公職へ就く資格を失った。王妃オクタヴィアと第二王子レオナールは王族籍、爵位、領地、私有財産を剥奪される。三人には被害総額に応じた返還義務が課され、定められた施設で労働しながら債務を支払うことになった。
「余から王冠を奪うつもりか!」
「王冠は国家儀礼資産です。すでに王室財産庫へ返還されています」
「ならば、誰が次の王になる!」
「第一王子殿下が議会の承認を受け、即位なさいます。ただし今後、国家予算の決定には議会の承認と国民監査官の署名が必要です」
「王が帳簿に従うというのか!」
「これまでも、従わなければならなかったのです」
国王はなおも声を上げたが、退廷を命じられ、看守に付き添われて法廷を出た。王妃は立ち上がる前に、アルテミシアへ顔を向けた。以前の茶会で漂わせていた薔薇の香油はなく、灰色の服からは乾いた石鹸の匂いがした。
「あなたは、この国から威厳を奪ったのよ」
「競売にかけられる宝石や馬車が、王国の威厳だったのですか」
「王家が質素に暮らせば、他国から侮られます」
「国民の治療費を奪って飾った宮殿のほうが、侮られます」
「いつか、あなたにも分かります。人は正しさだけでは従わないと」
「存じております。ですから、誰か一人へ従わなくても動く制度を作ります」
王妃はそれ以上答えず、第二王子とともに退廷した。レオナールはアルテミシアの前を通るとき、まだ婚姻契約を受ければ救えると囁いた。しかし彼の私有財産はすでにすべて凍結され、未払い債務だけが本人の名義で残っていた。
王家の判決に続き、セオドールへの判決が読み上げられた。架空納品によって得た不正利益は全額返還され、ヴァレニウス公爵家の鉱山会社は公共管理へ移される。セオドールは当主を退き、五年間、契約監督下で公立施設の再建事業に従事することとなった。
「被告は、不正契約へ承認印を押した責任を免れない。ただし、原本帳簿を提出し、関係者の捜査へ協力した事実を量刑上考慮する」
「異議はありません」
セオドールは立ったまま、判決書を受け取った。手袋を外した指には、長年つけていた当主の指輪の跡が白く残っている。彼は娘を見たが、近づくことも、許しを求めることもしなかった。
閉廷後、裁判所の中庭には薄い春の日差しが差していた。木蓮の下には長机が置かれ、人工魔力炉を止めた職人たちへ温かい豆スープと黒パンが配られている。アルテミシアが紙の器を受け取ると、ルシアンは中身をのぞき、豆が少なすぎると言って自分の器から二匙移した。
「量を測らずに移しましたね」
「スープに入っている豆を数える総裁にはなりたくありません」
「目測で二割増えました」
「でしたら、午後の仕事も二割増やせますね」
「返してください」
「一度渡した豆は、返還契約を結ばなければ戻りません」
二人が匙を挟んで話していると、作業服へ着替えたセオドールが近づいてきた。初日から公共労働が始まり、午後には西第七区治療院の暖房設備を修理するという。茶色の作業着は肩幅が合わず、腰の道具袋には新品の金槌と折尺が入っていた。
「その服は似合いませんね」
「ハロルドにも同じことを言われた」
「オスカーはどうしていますか」
「ハロルドの部屋へ移った。私よりよい食事を出されている」
「猫の食費を公爵家の必要経費に入れてはいけません」
「私の労働賃金から払う。最初の給金で、干し魚を買う約束をした」
セオドールはそう言ってから、娘の持つ豆スープを見た。二人で同じ朝食を囲んだ日から、まだ一年も経っていない。けれど彼の背中は以前より小さくなり、爪の間には作業場でついた黒い汚れが残っていた。
「領民のためだったと、もう一度言うつもりはない」
「はい」
「必要な金なら、誰から奪ってもよいと考えた。お前の教育費にも使ったと知れば、お前は監査を止めると思った」
「止めませんでした」
「知っている。止めなくてよかった」
呼び出しの鐘が鳴り、公共労働者たちが列を作り始めた。セオドールは空になった器を返却籠へ入れ、娘へ背を向けた。けれど数歩進んだところで立ち止まり、肩越しに振り返った。
「今度、オスカーへ会いに来るか」
「公爵家の資産調査が完了したあとであれば」
「そうか。干し魚を半分残しておく」
父は作業員の列へ戻り、自分の順番を待った。アルテミシアはその背中が中庭の門を出るまで見送り、冷めかけた豆スープを最後まで食べた。木蓮の花びらが器の縁へ落ちたため、指でつまんで近くの植え込みへ置いた。
王家の私有財産は、その月のうちに競売へかけられた。王妃が愛用した真珠の髪飾り、第二王子の競走馬、王家の別荘、金箔を施した十二台の馬車が、一点ずつ目録へ記載された。葡萄酒を温めるためだけに作られた魔導炉や、季節外れの薔薇を咲かせる庭園設備にも買い手がついた。
競売代金は、まず人工魔力炉の撤去費用へ充てられた。次に、供給不足によって被害を受けた治療院、工房、商店、一般家庭へ補償金が支払われる。腹部手術の後遺症で荷車を引けなくなった男性には生活補償と職業訓練費が、暖房停止で治療を受け続ける乳児には医療費が支給された。
アルテミシアは補償額を金額だけで決めなかった。失われた収入、介護に必要な時間、家族が仕事を休んだ日数まで聞き取り、帳簿へ加えた。数字を書けない者には職員が話を聞き、文字を読めない者には記録を声に出して確認した。
「これまでなら、治療費だけを記載していました」
ノエラは西第七区の共同洗濯場で、マルタから休業日数を聞き取っていた。窓辺には黄色い水仙が古い牛乳瓶へ挿され、天井からは洗い立てのシーツが下がっている。マルタは濡れた手を前掛けで拭き、暖房が止まった日に乾かせなかった洗濯物の枚数を指で数えた。
「洗濯物が乾かなければ、次の仕事も受けられません」
「でも、その日に食べたパン代まで補償しろとは言わないよ」
「暖房の代わりに薪を買っています。その費用は対象です」
「薪の領収書なんて取ってないよ」
「購入した店と、おおよその量を覚えていますか」
「角の薪屋から二束だ。店主が一束おまけしてくれた」
ノエラは薪屋にも確認し、二束分を補償額へ加えた。以前なら帳簿の欄外へ落ちていた少額だったが、その二束がなければ、子どもたちは冷えた洗濯場で一夜を過ごしていた。アルテミシアは報告書を読み、補償を承認する印を押した。
半年後、公共魔力保障法が施行された。各家庭には、照明、暖房、湯沸かし、最低限の調理に必要な基礎魔力が、所得に関係なく保証される。治療院、乳児院、給水所、消防施設には、一般回線とは別の緊急供給路が設けられた。
一方、舞踏会場の巨大照明、真冬に夏の花を咲かせる庭園、個人用転移門、温水を流し続ける噴水には高い利用料が課された。貴族たちは生活への増税だと抗議したが、アルテミシアは王都平均の一般家庭が使う魔力量を示した。ある侯爵家の舞踏会一晩分だけで、西第七区の五百世帯が一か月暮らせることも公開した。
「わが家の大広間を暗くしろというのか」
「基礎照明は保証されます」
「燭台百二十基をともさなければ、格式が保てん」
「百十九基分の追加料金をお支払いください」
「招待客のために使うのだぞ」
「でしたら、招待客から入場料を取ってはいかがですか」
侯爵は顔を赤くしたが、最終的には燭台を四十基に減らした。舞踏会では以前より顔の皺が見えにくいと夫人たちから評判になり、翌月には別の貴族家も照明を減らした。結果として舞踏会の開催数は変わらず、集まった追加料金は地方治療院の魔力備蓄へ回された。
王立魔導銀行の組織も変わった。監査、融資、資産保管、契約承認は別部門となり、四名の署名がなければ巨額の魔力を動かせない。平民出身の職員も国家帳簿を閲覧でき、ノエラは見習いではなく、公共魔力監査官として西区を担当することになった。
制度施行初日の夕方、王立銀行の時計が五時を告げた。総裁室の窓から差し込む西日が秋海棠の新しい葉を透かし、机の上へ淡い影を落としている。アルテミシアは残っていた書類を引き寄せたが、ルシアンがその上へ厚い布をかぶせた。
「何をするのですか」
「本日の業務は終了しました」
「確認していない報告書が三枚あります」
「監査部で三名が確認済みです。緊急性もありません」
「明日の朝では遅いかもしれません」
「明日の朝でよいものを、一般に明日の仕事と呼びます」
アルテミシアは布の下から報告書を抜こうとしたが、ルシアンが銀の盆を机へ置いた。焼きたての林檎パイが乗り、格子状の生地の間から蜂蜜色の果肉が見えている。温かなバターとシナモンの匂いが広がると、彼女の手は報告書ではなく、小皿へ伸びた。
「公爵邸の料理人が作ったものとは違いますね」
「市場の角にある、小さな店で買いました。形の悪い林檎を使うため、少し安いそうです」
「形が悪くても、味は変わりません」
「総裁がそうおっしゃると思った、と店主が笑っていました」
ルシアンが切り分けると、薄い皮の中から湯気が上がった。アルテミシアは帳簿を閉じてから一切れを取り、端の焦げた部分まで食べた。煮えた林檎は柔らかく、シナモンのあとからわずかな酸味が舌へ残った。
食べ終わったころ、ルシアンは書棚の一番下から古い帳簿を取り出した。葡萄酒の染み、地下水路の泥、火災の煤が残った革表紙には、前総裁時代の契約記録と書かれている。頁を開けば、エヴァンズ伯爵家、王妃オクタヴィア、第二王子レオナール、ヴァレニウス公爵家の名が順に現れた。
「この帳簿は、どうしますか」
「永久記録庫へ移します」
「すべて終了した契約です。不要な項目ではなかったのですか」
「不要な契約は切ります。しかし、失敗の記録まで消せば、同じ請求書が次の世代へ届きます」
アルテミシアは新しい証拠布で帳簿を包み、赤い封蝋を垂らした。以前なら自分一人の総裁印だけで封じたが、今はルシアンとノエラにも署名を求める。最後に三人で公共記録院の天秤印を押し、保存期限を《無期限》と記載した。
永久記録庫には、長い棚と、背の高さが合わない木の机があった。若い記録官は椅子へ座るたびに足が床へ届かず、古い電話帳を三冊重ねて足台にしている。机の隅には母親が作ったらしい茸入りのパンがあり、紙包みから胡椒の匂いが漏れていた。
「お預かりします」
「閲覧を禁止してはいけません。個人の医療情報を除き、誰でも申請できるようにしてください」
「王家の不正もですか」
「王家だからこそです」
「エヴァンズ伯爵家の記録も残すのですか」
「はい。信用を一人へ依存させた家が、どのように崩れたかを伝える資料になります」
記録官は受領簿へ三人の署名を求め、帳簿を棚の中央へ収めた。アルテミシアは空いた腕を見下ろした。長いあいだ抱えていた重さは消えたが、そこへ別の誰かの人生を背負い直す必要はなかった。
銀行の外へ出ると、夕方の空に薄い雲が広がっていた。花壇には橙色の金盞花、白い山茶花、薄紅色の秋海棠が季節を越えて植えられ、その間から春の水仙が顔を出している。庭師は花の並びに統一感がないとこぼしながらも、どの株も抜かずに水をやっていた。
時計塔が六時を告げると、王都の魔導灯が一斉にともった。王宮のある北区だけではなく、市場、工房街、西第七区の洗濯場、路地裏の小さな家まで、同じ時刻に柔らかな光が届く。ノエラの家ではリュカが魔導灯の下で宿題を広げ、マルタは乾いたシーツを一枚ずつ畳んでいた。
公立治療院では、白い帽子をかぶった子どもが母親の指を握り、供給の安定した治療器具のそばで眠っている。共同給水所では老女が湯を汲み、帰りに八百屋から細い春大根を二本買った。どの暮らしも帳簿の欄では小さな数字だったが、その数字を削れば、誰かの暖炉や鍋や治療器具が止まる。
アルテミシアは銀行の正面階段に立ち、すべての地区へともる光を見渡した。以前の彼女は、数字を整えるために不要な項目を省き、自分一人が不足を埋めればよいと考えていた。今は、帳簿の外へ追いやられていた人々の生活まで記録し、必要な負担を多くの手へ分けようとしていた。
「帰りましょうか」
ルシアンが空になった林檎パイの箱を持ち上げた。アルテミシアはいつものように、もう一度だけ総裁室を確認したいと言いかけた。しかし窓越しに見える職員たちは、それぞれの帳簿を閉じ、明日の担当者へ正しく引き継いでいる。
「はい。今日は定刻に帰ります」
「もう一時間過ぎていますが、初回としては合格です」
「明日は五時に帰ります」
「その言葉も、記録しておきましょう」
二人は並んで階段を下りた。王立銀行の扉は閉じられても、王都の魔導灯は消えず、夜間担当の職員が供給量を見守っている。一人の署名がなくても、誰か一人が倒れても、国民の生活を支える仕組みは動き続ける。
アルテミシアは立ち止まり、灯りの下で新制度の最初の決算日を手帳へ記した。王国の帳簿には、王族の名だけでなく、洗濯屋、職人、医師、患者、子ども、そして名前を持たない一軒の家が使う暖房の魔力まで載っている。彼女は手帳を閉じ、隣にいるルシアンと、銀行で働く多くの職員へ聞こえる声で告げた。
「では始めましょう。誰か一人を燃料にしなくても動く国の、最初の決算です」




