第19話 王都を救う費用は、王家へ請求します
第19話 王都を救う費用は、王家へ請求します
公開監査裁判が中断されると、議会裁判所は人工魔力炉を停止させるための臨時指令所へ変わった。傍聴人用の長椅子は壁際へ寄せられ、法廷の床には王都全域の魔力回路図が広げられた。書記官が慌てて運んだインク壺の一つは蓋が緩く、白い図面の端へ青い染みを作っていた。
アルテミシアは黒い総裁服の袖を肘まで折り、回路図の中央へ膝をついた。昼食として用意されていた固い梨が卓上に残り、その隣では豆のスープが冷えて薄い膜を張っている。窓の外では夕暮れの風が白い山茶花を揺らし、花びらが一枚ずつ霜の解けた土へ落ちていた。
「人工魔力炉の現在出力は、通常の二百四十パーセントです」
魔導技師長は焦げた制御板を回路図の脇へ置いた。王都各地区から集められた魔力が巨大結晶へ流れ込み、行き場を失って内部で膨張している。炉だけを切り離せば、蓄積された魔力は細い配電回線へ一度に逆流するという。
「逆流が起きた場合、どこから焼き切れますか」
「回線の古い西区と南区です。貧民街、工房街、公立治療院が集中しています」
「北区の貴族街は」
「王宮を含め、独立型の保護装置があります。西区と南区を切り離せば、北区の供給は維持できます」
技師長が答えると、裁判所に残っていた王宮財務官たちが頷いた。貴族街の魔導灯と暖房を守り、回線の弱い地区を犠牲にする。それが最も早く、王国中枢への被害も少ない方法だと、彼らは当然のように考えていた。
「西区を切り離せば、人工魔力炉も止められるのですね」
「はい。南区も同時に切れば、成功率は八十パーセントを超えます」
「治療院の生命維持装置はどうなりますか」
「停止します。ただし、王都全体を救うためには仕方がありません」
「仕方がないという言葉を、治療中の患者へ説明できますか」
王宮財務官は口を閉じ、袖口から出た金色の糸を指で引きちぎった。アルテミシアは地区別の供給量、回線の耐久値、停止可能時間を一枚ずつ並べた。北区の邸宅一軒が一晩に使う魔力は、西区の一般家庭三十軒分に相当していた。
「北区を先に停止すれば、ほかの地区への負担を減らせます」
「王宮の暖房まで止めるおつもりですか」
「暖房の停止を避けるために、治療院を止めるおつもりですか」
「王家には安全を確保する義務があります」
「国民の安全を、です。王族の室温を守る義務ではありません」
アルテミシアはすべての地区へ同じ割合の制限を課す案を書き始めた。王宮も貧民街も商業区も、六時間にわたり生活用魔力の供給を停止する。ただし治療院、消防施設、給水所、乳児院には、移動式結晶から最低限の魔力を供給する計画だった。
技師長は制御環の冷却に必要な人員を計算し、ノエラは各地区の停止順序を組み直した。ルシアンは商会と工房へ連絡し、蝋燭、薪、手押しポンプ、毛布を集める。アルテミシアは三人の仕事へ口を挟みかけるたび、羽根ペンを指の間で一度回し、担当者の報告を最後まで待った。
「総裁閣下、西区の停止は北区より三分早くしてください」
「理由は何ですか」
「洗濯工房の大型乾燥機が多いからです。北区と同時に切ると、回線へ残る魔力が予測値を超えます」
「計算は確認しましたか」
「計算官三名と、洗濯職人組合の親方が確認しました」
「承認します」
ノエラは目を丸くし、持っていた羽根ペンを落とした。以前のアルテミシアなら、自分でもう一度すべてを計算し直すまで承認しなかった。ノエラが拾おうとすると、長すぎる制服の袖がインク壺へ入り、紺色の布へ黒い染みが広がった。
「申し訳ありません!」
「その制服は大きすぎますね」
「昇格した日に、袖を汚してしまいました」
「洗えば落ちます。あなたのご実家なら、きれいにできるでしょう」
「料金はきちんと請求します」
「正規の料金なら支払います」
ルシアンが通信鏡を使い、主要商会の代表者を呼び出した。食料商会には保存用魔導具が止まる六時間、肉と乳製品を地下倉庫へ移すよう依頼した。運送商会には馬車と荷車の提供を求め、薬問屋には手動で使える器具と薬品を治療院へ運ばせた。
「協力にかかる費用は、王立銀行が保証します」
「銀行が支払うのですか」
「一時的に立て替えます。最終的には、人工魔力炉を建設した王家へ請求します」
「王家が支払いを拒んだら?」
「離宮、宝石、馬車、競走馬があります。換金できる資産は十分です」
「王宮の食器も売れますかね」
「所有区分を確認します。国賓用は公共資産ですが、王妃殿下が個人的に購入したものは対象です」
通信鏡の向こうで商人たちが笑い、必要な荷車の台数を数え始めた。王妃の食器が競売へ出されると聞き、宝石商まで協力を申し出た。アルテミシアは申し出の動機までは問わず、提供される物資と価格を契約書へ記載した。
西第七区公立治療院の院長は、六時間の停電では手術を延期しなければならないと報告した。けれど緊急患者が出る可能性があるため、外科用魔導具だけは動かす必要がある。アルテミシアが予備結晶を何個送るべきか考えていると、院長は自分で必要量を提示した。
「十個送る案でしたが、七個で足ります。照明は油ランプ、暖房は薪の炉へ切り替えます」
「本当に七個で足りますか」
「治療師たちと三度計算しました。足りなくなれば、隣の私立治療院と融通する約束も結びました」
「では、七個を送ります。運搬の責任者は?」
「薬問屋の娘が引き受けました。馬車より自転車のほうが、混雑した道を早く進めるそうです」
「承認します」
法廷の隅では、裁判所の料理係が冷えた豆のスープを温め直していた。底へこびりつかないよう大鍋を木匙で混ぜ、残っていた梨を小さく刻んで加える。ノエラが昼に試した食べ方を聞き、食料を無駄にしないため真似したのだという。
一同は立ったまま、梨入りの豆スープと胡桃パンを食べた。温められた梨はわずかに甘く、豆の塩気とは妙な組み合わせだった。ルシアンは眉間へ皺を寄せながらも二杯食べ、空になった器をアルテミシアへ見せた。
「総裁も、全部お召し上がりください」
「食べています」
「三口ごとに計画書を読んでいます」
「食事を止めてはいません」
「匙を持ったまま五分経過しました」
ノエラと技師たちが一斉にアルテミシアを見た。彼女は計画書を裏返し、残っていたスープを飲み干した。少し煮崩れた梨が舌へ触れ、遠くで父と食べた焼き林檎の味を思い出したが、今は匙を止めなかった。
夜十時、王都の各広場に停電計画が掲示された。魔導通信を持たない家庭にも知らせるため、鐘を使い、地区の役人が一軒ずつ戸を叩いた。人々は浴槽へ水をため、蝋燭を用意し、冷え込みに備えて古い毛布を押し入れから引っ張り出した。
王宮からは、北区だけでも供給を維持するよう最後の要求が届いた。国王の寝室には薪の暖炉がなく、王妃は暗闇では眠れず、第二王子は翌朝の身支度に魔導湯沸かし器が必要だという。アルテミシアは要求書の余白へ、王宮倉庫にある蝋燭二千本と薪五百束の在庫数を書き添えて返送した。
「寒ければ、王宮大広間の薪暖炉をお使いください。国王陛下、王妃殿下、第二王子殿下が同じ部屋で過ごせば、使用する薪も減ります」
「そんな返答を送って大丈夫ですか」
「在庫に基づいた提案です」
「三人が同じ部屋で六時間ですか」
「薪より先に会話が尽きそうですね」
深夜零時、北区の魔導灯が消えた。続いて商業区、東区、南区、西区の順に光が途絶え、王都は月明かりと蝋燭だけになった。人工魔力炉の出力を示す観測器の針が大きく揺れ、最初の制御環が停止する。
アルテミシアたちは離宮跡の地下施設へ入った。黒紫色の巨大結晶は前日より膨らみ、内部で稲妻のような光が走っている。熱気が頬を刺し、焦げた金属と機械油の臭いが喉へ張りついた。
「第一制御環、停止しました!」
「冷却水を入れます!」
「西区の残留魔力、予測値以内です!」
技師たちは声を掛け合い、手動の弁を回した。魔導具が止まっているため、巨大な歯車も人の力で動かさなければならない。鍛冶職人、給水作業員、地下水路の保守員が縄を引き、金属環を一つずつ固定した。
地上では、治療院の廊下に油ランプが並べられた。緑色の毛糸襟を巻いた院長は、手動の聴診器で患者を診察している。看護師たちは薪暖炉で湯を沸かし、冷えた患者の足元へ陶器の湯たんぽを入れた。
西第七区の洗濯場では、マルタが大鍋で生姜入りの湯を作っていた。近所の子どもたちは乾いたシーツにくるまり、一つの部屋へ集まっている。リュカは蝋燭の火で壁へ犬の影を映し、幼い子どもを笑わせていた。
商業区では、パン屋が薪窯へ残った熱を使い、夜中にもかかわらず小さなパンを焼いた。停電を知らせて歩く役人や荷物を運ぶ職人へ、無料で一つずつ配る。焼きたての小麦の匂いが、冷えた夜道へ流れた。
「第二制御環、固定できません!」
地下施設で技師の声が上がった。膨張した金属が歪み、固定具が溝へ入らなくなっている。このままでは一時間以内に制御環が外れ、魔力が西区の回線へ逆流する。
アルテミシアは図面へ手を伸ばしたが、鍛冶職人の親方が先に固定具を調べた。彼は革手袋の表面を焦がしながら、金属の歪みへ指を当てる。弟子たちは水と金槌を運び、親方の指示を待った。
「固定具の端を二寸削れば入る。ただし、元の形には戻せんぞ」
「人工魔力炉は停止後に解体します。再使用の必要はありません」
「なら、遠慮なく壊せる」
「お願いします」
親方が金槌を振り下ろすと、甲高い音が施設内へ響いた。アルテミシアは自分で固定具の寸法を測らず、親方の判断を記録した。十二回目の打撃で金属環が溝へ収まり、第二制御環の光が消えた。
停止開始から四時間後、巨大結晶の出力は半分まで下がった。しかし冷却水を送り込む手押しポンプの一台が壊れ、水量が不足した。給水作業員が修理を始める間、ノエラは地区別の停止時間を組み替え、南区に残っている水圧を地下施設へ回す案を出した。
「南区の家庭用給水が、予定より二十分長く止まります」
「住民への連絡は間に合いますか」
「地区長が走っています。共同井戸を開放するそうです」
「治療院への影響は?」
「院長が手持ちの水で二時間は維持できると報告しています」
「承認します」
アルテミシアは返答したあと、もう一度計算したい衝動を抑えた。ノエラの表には三名の計算官、地区長、治療院長の確認印がある。彼女はその印を信じ、南区の水圧を地下施設へ切り替えた。
残り一時間となったころ、王立銀行の観測室から通信が届いた。王都の魔力回線温度は限界の九割まで上昇している。巨大結晶の出力を最後に一度だけ下げられなければ、計画停電を続けても回線が焼ける可能性があった。
「最終弁を同時に閉じる必要があります」
「何人必要ですか」
「地下施設に十二人、各地区の配電所に四人ずつです。合図が一秒でもずれれば、魔力が偏ります」
「通信は使えません」
「教会の鐘を使いましょう」
ノエラが言うと、ルシアンは各地区の教会へ伝令を走らせた。時計塔の鐘を合図に、三回目の音で弁へ手を掛け、六回目の音で閉じる。魔導通信ではなく、人の耳と腕を使う計画だった。
「成功率は?」
技師長が尋ねると、アルテミシアは自分の計算書を見た。自分一人で作った最初の案には、技師の装置知識も、職人の経験も、ノエラの地区別計算も含まれていない。彼女は全員の報告書を重ね、最後の数値を読み上げた。
「私一人なら四十六パーセント。皆の計算を合わせれば、九十八パーセントです」
「残り二パーセントは?」
「何が起きても、対応する人間が残ります」
時計塔の鐘が鳴った。最初の音が王都の屋根を越え、地下施設の石壁まで震わせる。三回目の音で全員が弁へ手を掛け、六回目の音に合わせて力を込めた。
アルテミシアも技師たちと縄を握った。革手袋の中で掌が擦れ、腕には熱い痛みが走る。ルシアン、ノエラ、鍛冶職人、給水作業員が声を上げ、固い弁を最後まで回した。
巨大結晶の内部で白い光が膨らんだ。耳を塞ぎたくなるほど高い音が響き、施設の床が大きく揺れる。天井から石の欠片が降り、アルテミシアの頬をかすめた。
「弁を離さないでください!」
「第三回路、停止!」
「東区の逆流なし!」
「巨大結晶の出力、低下しています!」
黒紫色だった結晶が、外側から灰色へ変わっていった。幾重にも回転していた金属環が速度を落とし、最後には軋んだ音を立てて停止する。低い唸りも消え、地下施設には荒い息と、冷却水が床へ流れる音だけが残った。
「人工魔力炉、完全停止しました」
技師長の声を聞いても、すぐに歓声は上がらなかった。全員が弁や縄を握ったまま、観測器の針が再び動かないか見つめていた。針が零を示したまま十分経つと、鍛冶職人が床へ座り込み、ようやく大きな笑い声を上げた。
アルテミシアも壁へ背を預けた。黒い総裁服は水と油で汚れ、手袋には穴が開いている。ルシアンが頬の傷を確かめようとすると、彼女は先に地下施設内の損害目録を求めた。
「今は休んでください」
「停止費用を計算します」
「明日にしてください」
「職人の日当、物資代、治療院の予備結晶、停電で生じた営業損失があります」
「すべて王家へ請求するのでしょう」
「はい。一件も忘れないうちに記録します」
ノエラが笑い、濡れた帳面を開いた。鍛冶職人は壊した金槌一本分も書けと言い、給水作業員は途中で裂けた長靴を指差した。パン屋が配った小さなパンも、洗濯場で使った薪も、計画停電を知らせた役人の靴代も、すべて費用として記録された。
夜明けが近づくと、一行は地上へ戻った。雨は完全に上がり、東の空が薄い桃色に変わっている。白い秋明菊には細かな霜がつき、朝日を受けて透明な雫となった。
最初に公立治療院の魔導灯がともった。続いて共同給水所、消防施設、工房街、商業区の順に光が戻る。最後には王宮の尖塔も照らされ、王都中から拍手と歓声が上がった。
アルテミシアは離宮跡の石段へ座り、ルシアンから渡された焼きたての小さなパンを受け取った。表面には少し焦げた胡桃が埋まり、中から温かな湯気が出ている。彼女が一口食べたところで、議会裁判所からの使者が白い息を吐きながら駆けてきた。
「監査裁判所より、緊急命令が出ました!」
「人工魔力炉の件ですか」
「はい。証拠隠滅、公共資産の不正使用、王都全域を危険にさらした責任により、王家の財産を保全します」
使者が広げた命令書には、王家所有の離宮、宝石、馬車、競走馬、個人口座を即時凍結すると記されていた。国王の王冠だけは国家儀礼資産として差し押さえの対象から外されている。アルテミシアはパンを食べ終えてから命令書を受け取り、署名と五人の裁判官の印を確認した。
同じころ、王宮の朝食室では、国王が銀の蓋を開けようとしていた。ところが給仕長は、卓上に温かな料理を並べず、封をされた一通の書類を差し出した。王妃の蜂蜜入り薔薇茶も、第二王子の半熟卵も運ばれてこなかった。
「朝食はどうした」
「食材倉庫を含む王家の私有資産が、ただいま差し押さえられました」
「余の朝食まで奪うのか!」
「厨房に残っている固いパンと豆のスープは、配給を受けられます」
王妃が命令書を取り上げると、三輪百合の指輪が紙の上で震えた。窓の外では、王宮の魔導灯が何事もなかったように輝いている。命令書の末尾には、人工魔力炉を止めるためにかかった全費用を、王家の私有財産から支払うよう記されていた。




