第18話 陛下、王冠は担保になりません
第18話 陛下、王冠は担保になりません
公開監査裁判の朝、王都には今年初めての霜が降りた。議会裁判所へ続く石段の脇では、植え替えられたばかりの白い山茶花が薄い氷をまとい、庭師が藁を敷いて根元を守っている。アルテミシアは濃い灰色のドレスに黒い総裁服を重ね、王立魔導銀行の天秤を刻んだ銀の留め具を喉元へつけていた。
裁判所前の広場には、夜明け前から人々が集まっていた。魚屋は鱗のついた前掛けを着たまま、洗濯屋の女たちは赤く荒れた手を外套の袖へ隠し、魔導技師たちは工具箱へ腰掛けて開廷を待っている。焼き栗と薄い麦粥を売る屋台から湯気が上がり、人々の吐く白い息と混ざっていた。
「冷血総裁が来たぞ」
群衆の一人が叫んだが、以前のような罵声は続かなかった。別の男が《治療院から魔力を盗むな》と書いた板を掲げ、隣の老女が杖で石畳を叩いた。アルテミシアは誰にも手を振らず、革鞄を持ったルシアン、帳簿を抱えたノエラとともに石段を上った。
「朝食は」
「山羊乳と林檎を食べました」
「量が足りません」
「裁判所の控室に軽食が用意されています」
「確認済みです。胡桃パンと塩漬け肉と、固すぎる梨があります」
「固さまで監査したのですか」
「会計官は、総裁より先に危険を発見する仕事です」
ノエラが吹き出し、抱えていた帳簿を落としかけた。彼女は見習い用の灰色の制服ではなく、正規計算官へ昇格した者が着る紺色の制服をまとっている。ただし新調が間に合わず、袖は指先まで隠れ、裾も踵へ触れるほど長かった。
議会裁判所の大法廷には、王都の公開記録網へ映像を送る通信鏡が十二枚並んでいた。傍聴席は市民、各都市の代表、商会主、新聞記者で埋まり、書記官は羽根ペンと予備のインク壺を机へ整然と置いている。一つだけ蓋の合わないインク壺があり、書記官は布を挟んでから何度も傾いていないか確かめていた。
法廷正面の高壇には、議会から選ばれた五人の監査裁判官が座った。その右側には国王アレクシス、王妃オクタヴィア、第二王子レオナールの席が用意されている。王家の者たちは被告席ではなく、赤い絨毯と金色の肘掛け椅子を要求したが、裁判長はほかの当事者と同じ木の椅子しか認めなかった。
国王は紫色の礼装をまとい、頭には大粒の宝石を並べた王冠を載せていた。王妃は三輪百合を刺繍した深紅のドレスを着て、白い扇を膝の上へ置いている。第二王子は金色の軍服の襟を指で直し、傍聴席の女性たちへ向けて何度も微笑んでいた。
「余に木の椅子へ座れというのか」
「本日はすべての当事者に、同じ椅子をご用意しております」
「余は国王であるぞ」
「その点も、これから確認いたします」
裁判長の返答に、傍聴席から低いざわめきが起こった。国王は杖で床を打ったが、椅子は金色に変わらなかった。仕方なく腰を下ろすと、王冠が少し傾き、後ろに控えた従者が慌てて直した。
アルテミシアは法廷中央の机へ帳簿を並べた。革表紙には火災の煤や地下水路の泥が残り、一冊からは洗濯石鹸の匂いがした。ノエラが汚れを拭こうとすると、アルテミシアは証拠についた状態を変えてはいけないと小声で止めた。
「では、王家による国家魔力資産の不正使用について、公開監査裁判を開始します」
裁判長が木槌を打ち、最初に国王の署名が入った契約書を読み上げた。人工魔力炉の建設、国家備蓄六十日分の転用、王都全世帯からの魔力徴収、国外銀行との担保契約が一項ずつ確認される。国王は椅子の肘掛けを指で叩きながら、最後まで聞いていた。
「確かに余の署名だ。だが、何が問題なのか分からんな」
「国家備蓄を議会の承認なく転用した点です」
「王国の資産は、王家の資産であろう。余が自分のものをどう使おうと、銀行に指図されるいわれはない」
「王家の私有財産と、国家の公共資産は別です」
「国そのものが王の所有物だ」
「その主張も、帳簿で確認いたしましょう」
アルテミシアは大きな白い板を法廷へ運ばせた。左側へ《王家私有財産》、右側へ《公共資産》と書き、それぞれの下へ項目を加えていく。王家領の収入、相続した宝石、個人名義の離宮は左側へ、税収、国家備蓄、公共魔力網、治療院の設備は右側へ分類された。
「この王冠は、どちらに入る」
国王は頭上の王冠を指差した。中央には拳ほどの青い宝石が輝き、法廷の魔導灯を受けて壁へ青い光を散らしている。アルテミシアは王家財産目録を開き、購入年月日と支出元を確認した。
「百四十年前、第三代国王の戴冠式に合わせ、国家儀礼費で購入されています。王個人ではなく、王位に付属する儀礼資産です」
「つまり余のものだ」
「退位または崩御の際、次の国王へ引き継がれます。陛下個人の借金へ充てることも、国外銀行へ担保として差し出すこともできません」
「王冠を戴く者が王国の所有者ではないのか」
「陛下、王冠は担保になりません。頭に載せている方まで王国の所有物になるからです」
傍聴席の一角で、小さな笑いが起きた。国王が振り返ると、笑い声は咳払いへ変わった。アルテミシアは表情を動かさず、次の項目である国家備蓄へ進んだ。
「国家備蓄は、国民が支払った魔力料金と税によって購入されています。管理者は王立魔導銀行、所有者は王国です」
「王国と王家に、何の違いがある」
「王家が交代しても、王国と国民は残ります」
「王への不敬だぞ」
「所有権の確認です」
アルテミシアは証拠として、国民が毎月支払った魔力料金の記録を提出した。農家が収穫物を保存するために払った金、鍛冶屋が炉を動かすために払った金、洗濯屋が乾燥機を使うために払った金が、一枚の一覧へまとめられている。ノエラの母マルタの名もあり、三年間一度も滞納していなかった。
「国家備蓄を購入したのは、こうした利用者です。王家が無償で提供したものではありません」
「余の許可がなければ、彼らは商売すらできぬ」
「魔力料金は、陛下への謝礼ではありません」
「国王が国を動かしているのだぞ」
「国民も、毎朝働いて国を動かしています」
王妃オクタヴィアは扇を開き、ゆっくりと顔をあおいだ。法廷は冷えていたが、額には細かな汗が浮かんでいる。彼女は裁判長へ発言を求めると、人工魔力炉は王国の威信を守るために必要だったと説明した。
「諸外国は、魔力資産の量で国の力を測ります。巨大結晶を保有していると示せば、敵国からの侵攻を防げます」
「巨大結晶は国外銀行へ担保として差し出す予定でした」
「融資を得ることも外交の一部です」
「金貨十億枚のうち、国防費へ充てる予定額は一割です。残りは第二王子殿下の即位工作へ使われます」
「レオナールの即位は、王国の安定につながります」
「第一王子殿下の継承権を覆すことが、なぜ安定になるのですか」
王妃は扇を閉じ、息子を見た。レオナールは椅子へ深く座り、磨かれた長靴の爪先を揺らしている。彼の前の机には水差しが置かれていたが、一度も口をつけていなかった。
「兄は病弱で、公務を十分に果たせません。私の息子なら、強い王になれます」
「その判断を国民の魔力で買ったのですか」
「国民は強い王家に守られます。多少の負担は、王国の将来に必要です」
「多少の負担について、治療院の記録を確認いたします」
アルテミシアが合図すると、西第七区公立治療院の院長が証言台へ立った。白衣の袖口は何度洗っても落ちなかった薬品で薄黄色に染まり、首元には妻が編んだらしい緑色の毛糸襟を巻いている。彼は持参した治療記録を開き、人工魔力炉が稼働した三年間に起きた供給不足について話した。
「昨年十二月三日、腹部手術の途中で魔導縫合器が停止しました。医師三人で手作業へ切り替え、患者は助かりましたが、翌月まで寝台から起き上がれませんでした」
「設備の不具合だった可能性は?」
「治療院内の蓄電装置に異常はありませんでした。地区への供給量が、最低値を下回っていました」
「ほかにもございますか」
「十月十九日、保育室の暖房が六時間停止しました。生後八か月の乳児二名が高熱を出し、そのうち一名は現在も治療を受けています」
傍聴席の奥で、女性が赤ん坊を抱き直した。子どもは白い帽子をかぶり、母親の胸元で小さな咳をしている。女性は王妃を見ず、子どもの背中を一定の速さでさすり続けていた。
「死亡者はいなかったのでしょう」
王妃がそう言うと、院長の手が記録の上で止まった。法廷の隅にある暖房器が低く唸り、乾いた空気に薬草茶の匂いが混じる。院長は緑色の毛糸襟を引き上げてから、王妃へ顔を向けた。
「死ななければ、奪ってよいのですか」
「そのような意味ではありません」
「乳児の母親は、今も夜中に何度も子どもの呼吸を確かめています。腹部手術を受けた男性は、以前のように荷車を引けなくなりました」
「設備が古かったことにも責任があるでしょう」
「設備更新の補助金も、人工魔力炉へ転用されていました」
王妃は扇を持ち上げたが、開くことができず、膝へ戻した。アルテミシアは治療院の記録を、公共資産の損害欄へ加えた。金額だけでは表せない後遺症や仕事の喪失についても、補償対象として別に記録した。
午前の審理が終わると、法廷は一時間の休憩に入った。控室には胡桃パン、塩漬け肉、豆のスープ、固い梨が用意されている。ノエラは梨へ噛みつこうとして歯を押さえ、結局、薄く切ってスープへ入れた。
「梨をスープに入れるのですか」
「固いままより食べられます」
「味はどうです」
「不思議です。でも、まずくはありません」
ルシアンも一口試し、眉間へ皺を寄せた。アルテミシアは胡桃パンを豆のスープへ浸し、法廷で質問された項目を手帳へ書き直している。ルシアンが羽根ペンを取り上げると、彼女は以前より早く手を離した。
「休憩中です」
「午後の資料を確認したいのですが」
「監査部が確認しています」
「私も確認すれば、二重になります」
「すでに三名で確認しております。四重にする意味はありません」
「では、梨を切ってください」
「やはり固すぎますよね」
午後の審理が始まる直前、第二王子レオナールの従者が控室へ現れた。王子が非公開の和解案を提示したいという。アルテミシアはルシアンと議会監査官を同席させることを条件に、別室で話を聞くことにした。
レオナールは窓辺に立ち、金糸の軍服から白い正装へ着替えていた。卓上には赤い薔薇が飾られ、葡萄酒と二つの杯まで用意されている。祝い事のような部屋の中央に、金色の紐で綴じた契約書が置かれていた。
「君は本当に見事だ。母上が恐れるのも分かる」
「和解案を拝見します」
「話が早い女性は好ましい。まずは座らないか」
「立ったままで結構です」
「では、私も立とう。未来の妻へ見下ろされるのは困るからね」
レオナールは契約書を手に取り、アルテミシアへ差し出した。表題には《第二王子レオナール殿下とアルテミシア嬢との婚姻契約》と書かれている。王子が即位した際、アルテミシアを正妃とし、王妃として国家財政を任せる内容だった。
「私は婚姻の申し込みを受けた覚えがありません」
「だから今、申し込んでいる。君ほどの能力を持つ女性なら、私の隣にふさわしい」
「和解案ではなく、婚姻契約ですか」
「結婚すれば家名も戻る。父君の罪も軽くしよう。王立銀行への反逆罪も、すべて不問にできる」
「その権限が殿下にあるのですか」
「私が王になれば、ある」
アルテミシアは契約書を最初から読み始めた。レオナールは彼女が断らないと考えたのか、卓上の葡萄酒を二つの杯へ注いだ。甘い香りが広がり、浮かべられた薔薇の花びらが赤い液面を回った。
婚姻後のアルテミシアには、王妃として財政を再建する義務が課されていた。ところが王家の既存債務を調査する権限はなく、レオナールの許可なしに支出を止めることもできない。夫婦の共同資産については王が管理し、離婚する場合、妻の個人資産も王家へ残すと記されていた。
「殿下の現在の債務は、いくらですか」
「今、その話が必要か?」
「婚姻契約を検討するなら必要です」
「王家の金と私の金を分ける意味などない」
「国外銀行から借りる予定の金貨十億枚に加え、軍服、競走馬、別邸、宝石商への未払いが金貨四千八百万枚あります」
「王になれば、いくらでも返せる」
「国民の税で、という意味ですか」
「王妃になれば、君にも利益がある。欲しいものは何でも手に入るぞ」
「私の欲しいものは、合法な帳簿です」
レオナールは杯を置き、アルテミシアへ近づいた。彼の香水は甘すぎて、薔薇より熟れた果物に近い匂いがした。王子は自信ありげに笑い、彼女の肩へ手を置こうとしたが、ルシアンが間へ一歩入った。
「私を王妃にしてやろう」
「債務超過の男性と共同資産を持つ趣味はありません」
「何だと?」
「殿下の資産より債務のほうが多いため、契約相手として不適格です」
「私は次の国王だぞ」
「即位は未確定です。仮に即位しても、王冠は個人資産になりません」
アルテミシアは契約書の綴じ紐を外し、中央から二つに破いた。厚い紙だったため一度では切れず、もう一度力を込める。破れた紙片を重ね、今度は署名欄と財産条項が分かれるように破いた。
「この契約は、妻へ債務の処理を押しつけ、夫にだけ資産管理権を与える内容です。婚姻ではなく、無償の財務官を雇う契約ですね」
「私の申し出を断れば、お前は処刑されるかもしれない」
「それは自由な同意を妨げる脅迫です。契約無効の理由が一つ増えました」
「父親まで失った女が、誰に守ってもらえる!」
「私を守ることを条件に、帳簿を偽る男性は必要ありません」
アルテミシアは破った契約書を王子の前へ戻した。葡萄酒の杯に紙の端が触れ、赤い染みがゆっくり広がる。レオナールは濡れた紙をつかみ、床へ投げつけた。
午後の法廷では、第二王子が提示した婚姻契約も新たな証拠として提出された。破れた箇所は書記官が並べ直し、内容を読み上げる。レオナールは私的な書類だと抗議したが、監査の中止と引き換えにした時点で、証拠になると判断された。
国王は王冠を何度も直し、王妃は閉じた扇を指で撫で続けた。傍聴席には朝より多くの市民が詰めかけ、立ったまま審理を聞いている。アルテミシアが人工魔力炉の停止と王家資産の保全を求める申請書を提出したとき、法廷後方の扉が勢いよく開いた。
「緊急報告です!」
地下施設の調査を続けていた魔導技師長が、油に汚れた作業着のまま駆け込んできた。左手には焦げた制御板を持ち、右の眉の端が熱で縮れている。彼は証言台へたどり着く前に息を切らし、膝へ両手をついた。
「人工魔力炉の出力が上昇しています。王妃直属の技師が退去した際、制御術式の一部を停止させたようです」
「巨大結晶への吸収を止められますか」
「急に止めれば、蓄積された魔力が王都側へ逆流します。今も回路の温度が上がり続けています」
「限界まで、あと何日ですか」
「長くて三日です。それを超えれば、王都全域の魔力回線が焼き切れます」
法廷の暖房器が不規則な音を立て、青い光を一度だけ強く放った。傍聴席から声が上がり、母親は白い帽子の赤ん坊を外套の内側へ抱き込んだ。アルテミシアは王家の三人を見たが、誰も人工魔力炉を安全に止める方法を知らなかった。
「裁判を中断してください」
「逃げるつもりか!」
レオナールの声を無視し、アルテミシアは魔導技師長から制御図を受け取った。紙の端は熱で焦げ、触れると黒い粉が指へついた。彼女はルシアンとノエラを呼び、王都の供給量、巨大結晶の蓄積量、各地区が耐えられる停止時間を計算するよう指示した。
「三日以内に、魔力炉を止めます」
「失敗すれば、どうなる?」
国王の問いに、アルテミシアは制御図から顔を上げた。窓の外では日が傾き、霜の解けた山茶花から水滴が落ちている。法廷の床へ伸びた王冠の影が、彼女の足元まで届いていた。
「王都から、すべての明かりが消えます」




