第17話 帳簿を燃やせば、罪も消えると思いましたか
第17話 帳簿を燃やせば、罪も消えると思いましたか
地下水路を一時間ほど進んだところで、ノエラは頭上にある鉄格子を見つけた。三人の靴は泥水を吸い、アルテミシアの黒い総裁服には枯れ葉と細い藻が張りついている。どこかの家から流れ込んだ石鹸水が足首を白く包み、湿った石と柑橘油の匂いが狭い水路へこもっていた。
「ここなら、西第七区の共同洗濯場へ出られると思います」
「思います、ですか」
「十年前に弟を追いかけたときとは、道が少し変わっています」
「地下水路の増築記録も調べる必要がありますね」
「今、それを記録するのですか」
ルシアンは濡れた前髪をかき上げ、背負った鞄を抱え直した。中には王妃の署名が入った原本帳簿と、国外銀行との担保契約書が詰め込まれている。油紙で包んだものの、鞄の底からは黒い水がぽたぽたと落ちていた。
三人で鉄格子を押し上げると、洗濯場の床に積まれていた籠が崩れた。白いシーツ、縞模様の下着、子ども用の赤い靴下が頭上から降り、アルテミシアの顔を覆う。水路から這い出した彼女がシーツを取り除くと、木の洗濯棒を構えた大柄な女性と目が合った。
「うちの洗濯場から泥棒が出た!」
「母さん、私です!」
「泥棒がノエラの声まで盗んだのかい!」
「本人です! その棒を下ろして!」
女性は洗濯棒を振り上げたまま近づき、ノエラの頬を両手で挟んだ。三つ編みを引っ張り、耳の後ろを確かめ、最後に鼻をつまむ。ノエラが痛いと騒ぐと、ようやく娘だと認めて洗濯棒を床へ置いた。
「仕事へ行った娘が、どうして下水から帰ってくるんだい」
「地下施設を調べていたら、王国軍に追われました」
「仕事を選べとは言ったけど、もう少し帰り道のきれいな仕事はなかったのかい」
「こちらは王立魔導銀行のアルテミシア総裁と、側近会計官のルシアン様です」
「総裁が下水から出てくる国なんて、長くはもたないね」
ノエラの母マルタは、三人を洗濯場の奥へ押し込んだ。大鍋からは灰汁を混ぜた湯気が上がり、天井近くに張られた縄には大小さまざまな衣類が並んでいる。窓辺の古い瓶には赤紫色の野菊が三本挿され、その隣ではノエラの弟が固くなったパンを山羊乳へ浸して食べていた。
「リュカ、表の戸を閉めな。軍兵が来ても、今日は総裁なんか見ていないと言うんだよ」
「でも母さん、今、大きな銀行が燃えてるよ」
「何だって?」
「市場のほうから煙が見える。みんな王立銀行だって言ってた」
アルテミシアは窓へ駆け寄った。雨上がりの空へ、王都中心部から黒い煙が上がっている。窓の硝子が曇っているため輪郭はぼやけていたが、煙の下には王立魔導銀行の時計塔が見えた。
洗濯場の戸が乱暴に叩かれ、全員が動きを止めた。マルタは再び洗濯棒をつかみ、ルシアンは帳簿の鞄を背後へ隠した。けれど外から聞こえたのは、王立銀行の警備部長の声だった。
「ノエラ計算官! こちらにいらっしゃいますか!」
「一人ですか」
「警備員が二人おります。王妃派の軍ではありません!」
戸を開けると、警備部長は煤だらけの制服で転がり込んできた。上着の肩は焼け焦げ、左の袖には消火用の白い粉がついている。彼はマルタから渡された水を一息に飲み干し、空になった木杯を両手で握った。
「王妃派の近衛軍が王立銀行を占拠しました。職員を外へ追い出し、監査部の帳簿を中庭へ運んで焼いています」
「負傷者は」
「煙を吸った者が三人おりますが、命に別状はありません。ルシアン様の指示どおり、職員は抵抗せず退避しました」
「中央準備庫はどうなっていますか」
「封鎖されています。近衛兵は帳簿の処分を優先しており、金庫には入っていません」
「本当に燃やしているのは帳簿だけなのですね」
警備部長は頷き、濡れた帽子を膝の上で握り潰した。王妃派は金を奪うことより、記録を消すことを急いでいる。人工魔力炉への支出も、貴族家へ流れた金も、原本が失われれば証明できないと考えているのだ。
ノエラの弟が窓を拭き、外を見やすくした。黒い煙はさきほどより太くなり、風に押されて東へ流れている。洗濯場の前を通る人々も立ち止まり、銀行の方向を指差していた。
「帳簿が全部燃えたら、王妃様のしたことは分からなくなるの?」
リュカは山羊乳で白くなった口元を袖で拭いた。マルタが布巾を投げると、少年は渋々それで顔を拭き直す。アルテミシアは子どもの目の高さまで膝を曲げ、泥のついた総裁服を床へ広げた。
「王都にある帳簿は燃えるかもしれません」
「じゃあ、負けるの?」
「いいえ。数字は王都だけに置いていません」
アルテミシアは立ち上がり、警備部長へ地方支店との連絡手段を尋ねた。銀行の魔導通信は近衛軍に遮断されていたが、西第七区の公立治療院には独立した通信器がある。警備部長がそこまで走ろうとすると、ルシアンが濡れた鞄から小さな銀板を取り出した。
「なぜ、それをお持ちなのですか」
「休養中に総裁室を整理していて見つけました。第一級非常通信板です」
「それは総裁用です」
「現在の総裁は、通信板より重い帳簿を持って下水を歩いていましたから」
「勝手に持ち出したのですか」
「お返しします。受領証へ署名しますか」
アルテミシアは泥で汚れた手を布巾で拭き、通信板を受け取った。表面へ魔力を流すと、十二個の小さな光が円を描いて浮かぶ。北部、南部、東部、西部にある王立銀行の地方支店を示す光だった。
「こちら王都本店、アルテミシアです。全支店へ、契約記録の保全状況を報告してください」
短い雑音のあと、十二の支店から次々と返答が届いた。火災なし、侵入なし、記録庫に異常なしという声が重なる。ノエラは母親が差し出した毛布を肩へ掛けたまま、目を丸くして通信板を見つめた。
「全契約記録の転写を、就任直後から一日二回送付しております。王都の帳簿を燃やしても、同じ数字が十二の都市に残っています」
「いつ、そのような命令を出されたのですか」
「前総裁の引き出しから片方だけの靴下が出てきた日です」
「それで記録を分散しようと思ったのですか」
「一つの引き出しへ物を集めると、必要なときに見つからないと分かりました」
マルタが大きな声で笑い、洗濯場の空気が少し動いた。アルテミシアは十二支店へ、王妃直属機関に関する記録を複製し、議会監査院と各都市の裁判所へ提出するよう命じた。さらに、王都の公開記録網へ接続するための認証番号を読み上げた。
王都の魔導灯には、災害時に避難経路や配給情報を表示する機能がある。各地区の管理塔へ数字を送れば、街路の灯りを文字盤へ切り替えられる。平民にも読めるよう、複雑な勘定科目を使わず、誰が、いつ、何を受け取ったのかを一覧にする必要があった。
「ノエラ、公開用の表を作成してください」
「私がですか」
「西第七区の人々に分かる言葉を選べますか」
「はい。でも、王妃殿下や公爵家の名前も出すのですか」
「一件も除外しません」
「ヴァレニウス公爵閣下も?」
「同じ数字です」
ノエラは洗濯物を畳むための長机を借り、帳簿を広げた。まだ乾いていない白いシーツをマルタが慌ててどかすと、木の天板には石鹸の輪染みがいくつも残った。ルシアンと警備部長も椅子を運び、支店から読み上げられる記録を書き取った。
誰かが作業を始めれば、次に必要な手が自然と増えた。リュカは紙を乾かし、マルタは湯気で曇る窓を開け、近所のパン屋は焼きたての豆パンを籠いっぱい届けた。アルテミシアは自分で全項目を確認したくなったが、監査、転記、照合をそれぞれ別の者へ任せ、最後の承認だけを行った。
夕暮れが近づくころ、王都の魔導灯が一斉に消えた。通りから驚く声が上がり、商人たちは店先へ飛び出した。数秒後、魔導灯が再びともると、青白い光の中に金色の文字が浮かび上がった。
《王家緊急裁量費。三年間で魔力結晶六十日分》
《国外銀行への担保契約。金貨十億枚》
《第二王子即位のための献金。金貨一億二千万枚》
文字は通りごとに切り替わり、王妃派の貴族家へ流れた金額も映し出された。市場では魚屋が濡れた前掛けのまま読み上げ、文字を読めない老女へ隣の少年が説明している。治療院の前では、供給不足の日付と人工魔力炉の稼働記録が並んで表示された。
「うちの暖房が止まった日だ」
「治療院の手術ができなかった日もあるぞ」
「送電設備が古いせいではなかったのか」
「払った魔力を、王子の戴冠式に使ったのか!」
王立銀行の中庭では、近衛兵が帳簿を火へ投げ込み続けていた。しかし銀行を囲む魔導灯にも、不正支出の一覧が浮かんでいる。燃える紙から上がる橙色の炎の向こうで、消したはずの数字が青白く輝いていた。
王妃派の指揮官は魔導灯を壊すよう命じた。兵士が一基を倒しても、隣の通りの灯りが同じ数字を表示する。十二の地方支店から送られる記録は、王都すべての公開回線へ複製され、誰か一人の印章では止められなかった。
「帳簿を燃やせば、罪も消えると思いましたか」
アルテミシアの声が、公開記録網を通して王都へ流れた。総裁服は泥にまみれ、髪からは石鹸水が滴り、彼女の背後では下着とシーツが風に揺れている。それでも通信板に映った顔は、銀行の中庭で燃える紙をまっすぐ見ていた。
「王都本店の原本が失われても、十二の地方支店に同じ記録があります。今後、議会監査院、都市裁判所、各地区の公共記録所にも保管します」
《冷血女の作り話だ!》
公開回線へ王妃派の声が割り込んだ。けれどノエラは、すぐに各書類の番号と保管場所を表示した。誰でも閲覧申請ができ、地方支店で原本との照合もできることを、短い言葉で説明した。
夜になると雨が上がり、雲の切れ間から細い月が見えた。王立銀行の火は消し止められたが、玄関と監査部の一部が焼け、窓からはまだ煤の匂いが流れている。近衛軍は市民に囲まれ、帳簿を焼いた理由を説明できないまま退却した。
アルテミシアたちは警備員に守られながら、洗濯場から銀行へ戻った。濡れた靴が石畳を踏むたび、ぐしゅりと音を立てる。沿道の人々は声を上げず、魔導灯に浮かぶ数字と、泥だらけの総裁を交互に見ていた。
焼け残った大会議室には、職員と議会監査官が集まっていた。天井の一部は煤で黒くなり、床には消火に使った水が溜まっている。窓辺に置かれていた子ども用の手袋は片方だけ残り、濡れた布が花瓶へ張りついていた。
「総裁閣下、ヴァレニウス公爵が面会を求めています」
「公爵家の弁明ですか」
「いいえ。自ら出頭し、証拠を提出すると」
扉が開き、セオドールが一人で入ってきた。公爵の正装ではなく、飾りのない灰色の上着を着て、銀色の狼の指輪も外している。手には古い革鞄を持ち、片方の袖口には白い猫の毛が何本もついていた。
「オスカーが、出がけに上着へ擦り寄った」
「聞いておりません」
「そうだったな。いらない話だった」
「いらないとは言っておりません」
父は娘の前まで歩き、革鞄を卓上へ置いた。留め金を外すと、王妃との契約書、架空納品の指示書、資金の送付記録が現れた。セオドール自身の承認印が押された書類も、隠さず一番上に載せられている。
「王妃殿下から、すべてをお前の独断だったと証言するよう求められた。従えば公爵家の資産凍結を解除し、相続人変更も保護すると言われた」
「お父様は、何とお答えになったのですか」
「断った」
「なぜですか」
「今日、魔導灯に私の名が出た。領民も、使用人も、私が受け取った金額を見た」
父は煤で汚れた椅子を引いたが、座らなかった。焼けた紙の匂いの中に、彼が朝につけたらしい松の香油がわずかに残っている。アルテミシアは革鞄へ手を伸ばしたものの、父の顔を見て指を止めた。
「お前に許してもらおうとは思わん。ただ、これ以上お前の仕事を汚す父ではいたくない」
「証拠を提出しても、罪は消えません」
「分かっている。領民のためという言葉で、他の土地に住む者から奪った事実も消えん」
「公爵家の資産は返還に充てられます」
「家も土地も売ればよい。使用人と領民への支援だけは、正規の手続きで残してくれ」
「特別扱いはできません」
「それでいい。必要性を調べ、認められたものだけ残してくれ」
アルテミシアは革鞄を受け取った。重さで腕が下がり、ルシアンが反対側を支えた。父はその様子を見ても手を貸さず、自分の足で監査官の前へ進み、取り調べを受けると告げた。
ノエラが契約書を一枚ずつ証拠袋へ入れた。最後に残った一通だけは、ほかより厚い羊皮紙で作られ、王妃の三輪百合とヴァレニウス公爵家の銀狼が並んでいる。その下には、王家最高位の許可を示す黄金の獅子が押されていた。
「総裁閣下、こちらをご覧ください」
アルテミシアは契約書を開いた。人工魔力炉の建設、国家備蓄の転用、国外銀行との担保契約を最終承認する内容だった。末尾には王妃でも第二王子でもない、もう一人の署名が記されている。
インクは年月を経て茶色く変色していたが、署名の形は即位証書や国家条約に使われているものと同じだった。王妃だけの計画ではなく、王国の頂点にいる人物が最初から許可していた。アルテミシアは黄金の獅子へ指を置き、その名を読み上げた。
「現国王、アレクシス陛下の署名です」




