第16話 国民の魔力で、永遠の王座を買うおつもりですか
第16話 国民の魔力で、永遠の王座を買うおつもりですか
離宮跡の地下施設へ向かう朝、王都には冷たい雨が降っていた。石畳へ落ちた銀杏の葉が黄色い塊となって側溝をふさぎ、商店の軒先では店主たちが箒で雨水を押し流している。アルテミシアは黒い総裁服の上に防水外套をまとい、濡れた裾を片手で持ち上げながら、王立魔導銀行の馬車を降りた。
地上に残っているのは、蔦に覆われた石壁と崩れかけた噴水だけだった。かつて王族が夏を過ごした離宮は二十年前の火災で焼失し、庭の隅には野生化した白い秋明菊が咲いている。枯れ草の間には割れた青い皿が半分埋まり、雨水を飲みに来た雀がアルテミシアたちを見ると、濡れた羽を震わせて飛び去った。
「ここに巨大施設があるようには見えませんね」
「地上の建物を焼いたのは、地下工事を隠すためかもしれません」
「二十年前から計画されていたということですか」
見習い計算官のノエラは、灰色の制服の上に大きすぎる革外套を着ていた。裾は泥を吸って黒くなり、栗色の三つ編みの先からも水滴が落ちている。それでも彼女は帳簿の入った鞄を胸へ抱き、雨に濡らさないよう外套の内側へ隠していた。
「ノエラ、あなたは銀行に残ってもよいのですよ」
「私が見つけた数字です。最後まで確かめたいです」
「地下施設が安全だという保証はありません」
「でしたら、総裁閣下こそ残るべきではありませんか」
「私は監査責任者です」
「私は転送記録の担当者です」
ノエラは一歩も引かず、隣に立つルシアンが小さく咳払いをした。彼は背負った鞄から油紙の包みを取り出し、二人へ一つずつ配った。中には燻製肉と酢漬けキャベツを挟んだ黒パンが入っており、酸味のある匂いが雨の中へ広がった。
「地下へ入れば食事の時刻を忘れる方が、二人に増えました。今のうちに食べてください」
「昨日のキッシュも食べました」
「昨日食べたから今日はいらない、という仕組みではありません」
「子どもではありません」
「子どもなら、もう少し素直に食べます」
同行した監査官たちが聞こえないふりをして顔を伏せた。アルテミシアは黒パンへかじりつき、ノエラもそれを見て食べ始めた。パンは固く、燻製肉には胡椒が利きすぎていたが、冷たい雨の中では塩気が舌に心地よかった。
崩れた噴水の底には、王妃の三輪百合を刻んだ鉄扉が隠されていた。王立銀行、議会監査院、都市魔導局の三者が発行した立入許可証を読み取らせると、錠の内部から重い金属音が響く。長年開けられていなかったように見えた扉は、油を差したばかりのように滑らかに動いた。
地下へ続く階段には、足元を照らす青い魔導灯が並んでいた。壁は乾いており、塵一つ落ちていない。表向きは廃墟でも、ここには毎日清掃や保守を行う者が出入りしていることが分かった。
「洗剤の匂いがします」
「柑橘油ですね。王宮で使われているものと同じです」
「私の家では灰汁で床を拭きます。安いし、油汚れがよく落ちるので」
ノエラは鼻を動かしながら壁へ触れ、薄く積もった魔力の粉を指につけた。淡い青色の粉は温かく、息を吹きかけると小さな火花を散らす。アルテミシアは試料瓶へ粉を収め、採取した場所と時刻を記録した。
百五十段ほど降りると、階段の先に白い廊下が現れた。左右には職員用らしい小部屋があり、半開きの扉から脱ぎ捨てられた作業着や、飲みかけの茶が入ったカップが見える。卓上には林檎の芯が残され、空の皿には蜂蜜を塗ったパンの欠片がこびりついていた。
「つい先ほどまで、人がいました」
「私たちが来ると知って逃げたのでしょうか」
「立入許可を出したのは昨日です。逃げる時間は十分にありました」
アルテミシアはまだぬるいカップへ触れ、監査官に保全を命じた。生活の跡は残っているのに、職員名簿も勤務表も処分されている。床には複数の靴跡があり、廊下の奥へ向かうものと、非常口へ急いだものが重なっていた。
やがて一行は、厚い硝子扉の前へたどり着いた。その向こうでは、幾重もの金属環が音を立てて回転している。中央には馬車ほどもある黒紫色の結晶が浮かび、周囲から集めた細い魔力の光を吸い込んでいた。
床が一定の間隔で震え、腹の奥まで低い音が伝わってきた。熱と冷気が交互に押し寄せ、空気には焼けた金属、機械油、焦げた髪に似た臭いが混じっている。ノエラは両手で口元を覆ったが、帳簿から目を離さなかった。
「これが、第一人工魔力炉ですか」
「魔力を生み出す装置ではありません」
「でも、人工魔力炉と書かれています」
「名前を変えても仕組みは変わりません。これは王都から集めた魔力を、一つの結晶へ圧縮する装置です」
ルシアンが都市魔力回路図を硝子壁へ広げた。王都の各地区から細い回線が伸び、地下施設の中央で一本に束ねられている。一般家庭から一日につき一単位にも満たない魔力を引き、巨大結晶へ蓄積する構造だった。
「一軒から奪う量は少なく見えます」
「王都には何十万もの世帯があります。三年分を合計すれば、あの大きさになります」
「正式な利用料として徴収されているのでしょうか」
「請求書には記載されていません。生活用魔力の送電損失として処理されています」
ノエラは帳簿を床へ置き、頁をめくった。平民街の送電損失は、人工魔力炉が稼働した三年前から急増している。一方、王族や上級貴族が住む北区では、損失率が変わっていなかった。
施設の管理室へ入ると、壁一面に地区別の魔力供給量が表示されていた。北区の表示盤は緑色だが、南区と西区では黄色や赤色の警告灯が点滅している。貧民街のある西第七区では、《生活最低供給量を下回っています》という文字が繰り返し浮かんでいた。
「この地区には公立治療院があります」
「治療院の分まで吸い上げているのですか」
「地区全体から一定割合を引いています。用途を区別していません」
「病人の治療も、子どもの暖房も同じですか」
「装置にとっては、同じ一単位なのでしょう」
管理室の隅には、誰かの昼食が置き去りにされていた。豆の煮込みは表面が乾き、木の匙が皿の中へ倒れている。椅子の背には小さな赤い靴下が干されており、施設で働く者が子どもの洗濯物を持ち込んだらしかった。
アルテミシアは赤い靴下を見たあと、地区別供給記録を開いた。西第七区では、昨年の冬だけで魔導暖房の停止が千二百件発生している。治療院でも手術用魔導具への供給不足が十九回起こり、医師たちは手回し式の器具で処置を続けていた。
「全部、送電設備が古いからだと説明されていました」
ノエラの声が低くなった。彼女の実家である洗濯屋も、西第七区にあった。冬になると乾燥機の魔力が何度も切れ、家族全員で濡れたシーツを火鉢の前へ広げていたという。
「弟が五歳の冬、暖房が止まりました。母は洗濯物を何枚も重ねて、弟の布団へ掛けたんです」
「その時期にも、人工魔力炉は稼働しています」
「一晩中、寒い寒いと言っていました。翌朝には唇が紫色になって、治療院へ運びました」
「弟君は」
「今は元気です。でも、母は毎月きちんと魔力料金を払っていました」
ノエラは袖で目元を拭おうとしたが、途中で手を止め、代わりに帳簿を強く抱えた。アルテミシアは彼女へ何も言わず、西第七区の被害記録をすべて証拠目録へ加えた。数字の一行ごとに、暖房の消えた部屋や、動かなくなった治療器具があることを、今度は見落とさなかった。
管理室の奥には、紫色の封蝋で閉じられた金庫があった。三輪百合の印章を確認したうえで、監査官が緊急保全権限を使って開錠する。中から出てきたのは、人工魔力炉の建設契約書と、国外の金融商会との担保契約だった。
「巨大結晶の譲渡先は、ローデン海洋銀行です」
「国外の銀行ですね」
「担保融資額は金貨十億枚。借入人は第二王子レオナール殿下です」
契約書には、金の用途も記載されていた。軍部への報奨金、議員への政治献金、新聞社の買収費、戴冠式の準備金が細かく並んでいる。病に伏した第一王子を退け、第二王子を次の国王へ押し上げるための費用だった。
「国民の魔力を担保にして、王位を買うつもりなのですか」
「それだけではありません。返済できなければ、巨大結晶の所有権が国外へ移ります」
「王都から吸い上げ続ける装置も、相手のものになるのですか」
「契約書では、結晶に接続された供給設備も担保に含まれています」
そのとき、管理室の壁にある通信鏡が白く光った。映し出されたのは、深紅のドレスをまとった王妃オクタヴィアだった。背景には王宮の執務室が見え、卓上には湯気の立つ薔薇茶と、砂糖漬けの栗が置かれている。
「許可なく王家の施設へ入るとは、ずいぶん大胆になりましたね」
「王立銀行、議会監査院、都市魔導局の許可を得ています」
「下位機関の許可で、王妃直属施設へ立ち入れると思ったのですか」
「国家資産を使用している以上、監査対象です」
「その結晶は、すでに王家の裁量資産です」
王妃は砂糖漬けの栗を一つつまみ、唇へ運んだ。鏡越しでも、指輪についた大粒の宝石が魔導灯を反射している。アルテミシアは国外銀行との担保契約書を掲げ、署名欄を王妃へ向けた。
「国民の魔力で、永遠の王座を買うおつもりですか」
「レオナールは国を繁栄させる王になります。そのために必要な投資です」
「即位のための買収費を、投資とは呼びません」
「王都の全世帯から、ほんの少しずつ分けてもらっただけです。誰も気づかない程度の量でしょう」
「暖房停止千二百件、治療院の供給不足十九件が記録されています」
「大きな国を動かせば、多少の不具合は生じます」
「多少ではありません」
王妃の背後で侍女が茶を注ぎ足し、薔薇の甘い香りを運ぶ蒸気が鏡の表面を曇らせた。その間にも、管理室の表示盤では西第七区の警告灯が赤く点滅している。ノエラは両腕で帳簿を抱き、王妃から見えない位置で唇を噛んでいた。
「国民一人から奪った量は、わずかです」
「凍える子どもにとって、暖炉を一晩ともせる魔力は『わずか』ではありません」
王妃の指が止まり、砂糖漬けの栗が皿へ落ちた。小さな音が通信鏡を通して聞こえたあと、オクタヴィアは侍女と近衛兵を退室させた。彼女は笑みを消し、アルテミシアだけをまっすぐ見た。
「父親を売ったあなたが、今度は国母を裁くのですか」
「誰の名前が書かれていても、数字は変わりません」
「あなたから家名を取れば、何も残らないと思っていました」
「総裁印と帳簿が残りました」
「それも、まもなく失います」
通信鏡の光が消えると同時に、施設全体へ警報が響いた。硝子扉が一斉に閉まり、外へ通じる階段の方向から軍靴の音が聞こえてくる。調査隊に同行した警備員が駆け込み、王国軍が離宮跡を包囲したと報告した。
「指揮官は王妃直属の近衛将軍です。施設と記録を封鎖するよう命令を受けています」
「議会監査院の立入許可証を提示してください」
「提示しました。しかし、こちらを」
警備員が差し出した紙には、王家の赤い印章が押されていた。王立施設への不法侵入、国家機密の窃取、魔力炉に対する破壊活動の容疑が並んでいる。最後には、アルテミシアを国家反逆罪で逮捕するよう命じる一文があった。
「早すぎます。私たちがここへ入る前に用意されていたのでしょう」
「王妃は最初から、総裁を捕らえるつもりだったのですね」
「証拠を見つければ反逆者、見つけなければ無能な総裁として処分できます」
「分析している場合ですか。正面の扉が破られます!」
最初の衝撃で、管理室の棚からカップが落ちた。床に残されていた豆の煮込みへ破片が飛び込み、木の匙が回転して止まる。二度目の衝撃では天井から白い粉が降り、ノエラの三つ編みへ積もった。
アルテミシアは原本帳簿を抱えようとしたが、厚い革表紙だけで五冊もある。ルシアンは空になった昼食用の鞄を逆さにし、帳簿と担保契約書を詰め込んだ。黒パンの欠片が床へ落ちたが、拾っている時間はなかった。
「すべては運べません」
「原本、署名入り契約書、地区別供給記録を優先します」
「写しはどうしますか」
「監査官へ分散してください。一人が捕まっても、記録がすべて失われないようにします」
「総裁閣下は、どちらへ?」
ノエラが管理室の隅にある床板を指差した。洗浄用の水を流す排水口の近くに、地下水路の保守扉がある。子ども一人が通るほどの幅しかなく、錆びた把手には油汚れの布が巻かれていた。
「うちの洗濯場にも、同じ形の扉があります。地下水路へつながっています」
「どこへ出るか分かりますか」
「西第七区です。子どものころ、弟が入り込んで、母に箒で追い回されました」
「その経験が国家を救うかもしれませんね」
三度目の衝撃で、正面扉の蝶番が一つ外れた。監査官たちは証拠の写しを服の内側へ隠し、別々の非常口へ向かった。アルテミシア、ルシアン、ノエラは原本帳簿を抱え、保守扉の暗い穴へ身体を滑り込ませた。
地下水路は腰を屈めなければ進めず、冷たい水が足首まで流れていた。腐った落ち葉、洗剤、湿った石の匂いが混じり、壁の向こうから軍兵の怒鳴り声が聞こえる。ノエラの革外套から垂れた泥水が帳簿へ落ちそうになり、ルシアンが自分の上着で包み直した。
「右へ進めば西第七区です」
「確かですか」
「たぶん」
「計算官が、たぶんと言いましたね」
「地下水路の試験は受けておりません!」
背後で保守扉が激しく叩かれた。アルテミシアは濡れた総裁服の裾を膝まで持ち上げ、ノエラのあとを追った。家名も屋敷も失い、今度は総裁の地位と自由まで奪われようとしていたが、腕の中には王妃の署名が入った原本帳簿が残っていた。
水路の先には、細い月明かりが差していた。三人は冷たい水を蹴り、低い天井へ頭をぶつけながら進んだ。王国軍が施設を封鎖するより先に、数字を地上へ持ち出さなければならなかった。




