第15話 一人で支えることを、功績とは呼びません
第15話 一人で支えることを、功績とは呼びません
三日後の朝、アルテミシアは王立魔導銀行の正面玄関から入った。黒い総裁服の下には薄い藤色のドレスを着て、銀色の髪はいつもどおり隙なく結い上げている。けれど右手には監査鞄ではなく、料理係に返すための空のスープ皿が入った籠を提げていた。
銀行前の花壇では、折れた金盞花が細い支柱に結ばれていた。夜露を含んだ土から湿った匂いが立ち、橙色の花びらには小さな水滴が並んでいる。抗議者は二十人ほどに減っていたが、《冷血総裁は辞任せよ》と書かれた横幕だけは、先日と同じ大きさだった。
「本当にいらしたぞ」
「三日は休むよう命じたはずですが」
玄関で待ち構えていたルシアンは、紺色の上着の上から腕を組んだ。彼の左手には朝食の包み、右手には医師が出した休養命令書が握られている。アルテミシアは書類の端から端まで目を通し、日付の欄を指で示した。
「三日間の休養期間は、昨夜で終了しました」
「日付が変わった直後に出勤するおつもりだったのではありませんか」
「午前零時では警備員へ迷惑をかけます。七時まで待ちました」
「そういう問題ではありません」
「朝食も食べました。茹で卵一個、梨半分、蜂蜜入りの麦粥です」
ルシアンは疑うように籠の中を確かめた。空になった皿には、白豆の皮が一枚だけついている。彼はようやく道を空けたが、持ってきた胡桃パンをアルテミシアへ渡すことは忘れなかった。
総裁室へ入ると、机の上には三日分の決裁書が山になっていた。窓辺の秋薔薇は片づけられ、代わりに薄紅色の秋海棠が素焼きの鉢へ植えられている。誰かが水をこぼしたらしく、鉢の下には古い計算用紙が敷かれ、赤い数字が水で滲んでいた。
アルテミシアは最上段の書類へ手を伸ばした。しかし、その前へルシアンが新しい組織図を置いた。監査部、融資部、資産保管部、契約承認部の四つが別々の枠で囲まれ、それぞれに責任者の名前が記されている。
「休養中に、部長たちと作成しました」
「監査部と契約承認部の情報共有経路が長すぎます。私のところへ集めれば早くなります」
「却下します」
「私は総裁です」
「総裁が四部門すべての承認者になれば、以前と変わりません」
「最終確認だけです」
「最終確認という名前で、最初から最後まで確認なさるでしょう」
アルテミシアは反論しようとしたが、机の隅に置かれた丸い焼き菓子が目に入った。砂糖が不揃いにまぶされ、一枚だけ端が焦げている。職員の妻が差し入れたもので、取りつけ騒ぎを乗り切った祝いだと、ルシアンは説明した。
「職員たちだけで、支払い業務を完了させました。最終日の不足金は地方支店が補充し、一般預金者の九割は口座を維持しています」
「誤払いは」
「二件ありましたが、照合係が発見し、窓口で訂正しました」
「私がいれば防げました」
「あなたが一人で千件の支払いを確認すれば、もっと多く間違えます」
「私は間違えません」
「倒れました」
ルシアンの返答があまりに早く、アルテミシアは口を閉じた。秋海棠の葉から水滴が落ち、水で滲んだ計算用紙へ新しい染みを作る。彼女は焼き菓子を一枚取り、焦げた部分からかじった。
午前九時、四部門の責任者と若手職員が大会議室へ集められた。アルテミシアは新しい規定書を全員へ配り、巨大な魔力資産を動かす場合、最低三部門の確認と四名の署名を必要とすると説明した。監査担当者は融資の決裁に参加せず、資産保管部だけで転送門を開くこともできなくなる。
「今後、一人の署名だけで金貨百万枚以上、または魔力結晶一万単位以上を動かすことを禁止します」
「緊急時はどうするのですか」
「部門責任者が不在の場合、副責任者が署名します」
「総裁閣下の署名があれば、例外にできませんか」
「できません。私の署名も一票です」
会議室にざわめきが広がった。これまで王立魔導銀行では、総裁の印章一つで巨額の資産を動かせた。前総裁は王妃の命令に従い、その仕組みを使って六十日分の魔力結晶を運び出していた。
融資部長グレゴールは、皺だらけの辞任要求書を胸元へしまったまま、腕を組んでいた。彼は四部門へ分ければ手続きが遅くなり、商会から苦情が出ると指摘した。アルテミシアは否定せず、通常案件と緊急案件で期限を分ける案を黒板へ書いた。
「正確さだけを求めて、商人の荷車を一週間止めるわけにはいきません」
「でしたら、やはり総裁が判断を」
「私が眠っている時間に、荷車はどうするのですか」
「起こします」
「私は寝ます」
若い職員たちの間から、小さな笑いが起きた。アルテミシア自身も、数日前ならその答えを口にしなかったと分かっていた。グレゴールは何度か口を開閉したあと、通常案件は二日、緊急案件は半日で処理する案を提出した。
次に、アルテミシアは監査帳簿の閲覧資格を改めた。これまでは爵位を持つ上級職員しか国家資産台帳を閲覧できず、平民出身の計算官は渡された数字を合計するだけだった。新制度では、身分ではなく職務と試験結果によって閲覧範囲を定める。
「平民へ国家機密を見せるのですか」
「公爵でも不正を行い、平民でも数字を読めます」
「身元の保証がありません」
「採用時に身元確認を行っています。貴族の家名が不正を防ぐ保証にならないことは、私の父が証明しました」
会議室から物音が消えた。アルテミシアは父の名を口にしたあと、乾きかけた唇へ舌を当てた。それでも説明を止めず、帳簿の原本、写し、集計表を別々の担当者が照合する相互監査制度を示した。
会議の終わりに、各部署へ積まれていた帳簿が運び込まれた。革表紙のもの、紐で綴じただけのもの、表紙へ食事の染みがついたものまで、大きさも厚さも揃っていない。若手職員たちは長机を囲み、初めて目にする国家資産の記録へ手を伸ばした。
その中に、見習い計算官のノエラがいた。十七歳の彼女は栗色の髪を一本の三つ編みにし、灰色の制服の袖を肘までまくっていた。左の袖口には青いインクが染み、右の靴だけ紐が新しくなっている。
「ノエラ、あなたは転送記録を担当してください」
「わ、私がですか」
「採用試験の照合分野で最高点でした」
「ですが、私は洗濯屋の娘です」
「洗濯物の種類で数字が変わるのですか」
「変わりません」
「では、帳簿も同じです」
ノエラは両手で帳簿を受け取った。重さに腕が下がり、慌てて胸へ抱え直す。革表紙から舞った埃でくしゃみをすると、隣の職員が笑いながら古い手拭いを渡した。
アルテミシアは自分の机へ戻り、各部門から届いた決裁書を確認した。これまでなら転送記録も採掘量も自分で照合していたが、今日は担当者の欄にノエラの名前を書き、帳簿を手放した。空いた机の中央だけ木の色が濃く、周囲には長年積まれていた紙の跡が四角く残っている。
「手が止まっていますよ」
「確認したほうが早いと思っただけです」
「任せるのではなかったのですか」
「任せました。取り返してはいません」
「帳簿を見つめ続けるのも、おやめください」
ルシアンは壁際の棚から昼食の籠を取り出した。中には茸と玉葱のキッシュ、葡萄、小さな瓶に入った林檎の果汁がある。アルテミシアはキッシュを半分に切り、ルシアンの皿へ一切れ移した。
「私の分も用意されています」
「大きさが一割ほど違います」
「目測を根拠にしてはいけないのでは?」
「朝食については、あなたの方式を採用します」
食事を終えたあと、アルテミシアは融資部の審査へ同席した。これまでは自分の計算結果を告げて終わらせていたが、今日は若手職員へ意見を尋ね、間違いがあっても途中で遮らなかった。予定の二倍の時間がかかったものの、彼女が気づかなかった商会の季節雇用について、別の職員が指摘した。
夕方には、初めて四名の署名による魔力結晶の移送が行われた。資産保管部が数量を量り、監査部が記録を照合し、契約承認部が送付先を確認する。一つの木箱を運び出すまでに十九分かかったが、誰が何を確認したのかが、すべて帳簿へ残った。
「以前なら五分で終わりました」
「十四分の差で、不正を防げるなら安いものです」
「ただし、緊急時には改善が必要ですね」
「その判断も、明日は部長たちへ任せます」
アルテミシアがそう答えたとき、廊下から走る足音が聞こえた。扉が開き、ノエラが数枚の紙を胸へ抱えたまま入ってきた。三つ編みは半分ほどほどけ、頬には青いインクが一本ついている。
「総裁閣下、申し訳ありません!」
「廊下を走ったことですか」
「それも申し訳ありません! でも、転送記録におかしなところを見つけました!」
ノエラは机へ帳簿と王都の魔力回路図を広げた。王妃直属機関へ転送された結晶は、書類上では北門を通り、国外輸送用の倉庫へ運ばれたことになっている。ところが北門の通過記録には、結晶の重量に見合う荷車が一台も記録されていなかった。
「輸送記録の書き忘れではありませんか」
「私もそう思いました。でも、転送門を通したあと、北門まで運ぶなら、魔力運搬車が必要です」
「運搬車の使用記録もありませんね」
「はい。それに、王都の地下水路で使われた冷却魔力量が、三年前から増えています」
ノエラは回路図の一点を指差した。そこは古い王宮の離宮跡で、地上には建物も倉庫も残っていない。しかし地下水路へ送られる冷却魔力は、毎月末、結晶が消えた翌日から大きく増加していた。
「私の実家は洗濯屋です。冬より夏のほうが水を使いますし、雨の日には乾燥用の魔力が増えます。でも、この記録は季節に関係なく、ずっと同じ量なんです」
「巨大な魔力結晶を保管するには、冷却装置が必要です」
「それから、これを見てください」
ノエラは一枚の古い請求書を取り出した。表には地下水路の補修費と書かれていたが、裏側には魔力炉用の耐熱壁、制御環、結晶固定台の購入品目が薄く転写されている。書類を重ねたまま記入したため、下の紙へ筆圧が残ったのだ。
アルテミシアは請求書を光へ透かし、一文字ずつ読み取った。自分が保管庫の温度から不足を見つけたように、ノエラは洗濯屋で身につけた水と熱の感覚から、地下施設へたどり着いていた。爵位を持つ前総裁も、長年勤めた部長も見逃した記録だった。
「私より先に見つけましたね」
「申し訳ありません!」
「なぜ謝るのです。総裁より優秀な目が増えたのなら、銀行にとって利益です」
ノエラは顔を上げ、口を半分開けたまま動かなくなった。やがて頬のインクを袖で拭おうとしたため、ルシアンが手拭いを渡した。彼女は礼を言い、今度は青い染みのない側で顔を拭いた。
アルテミシアは警備部へ地下施設の封鎖を命じかけ、途中で羽根ペンを止めた。監査部には証拠保全、資産保管部には魔力反応の測定、契約承認部には施設の所有者確認を指示する。現場の判断は各責任者へ任せ、自分だけで命令書を完成させなかった。
日が沈んだころ、調査隊から魔導通信が届いた。離宮跡の地下には、帳簿に記載されていない巨大施設が存在していた。入口は王妃の三輪百合の印章によって封鎖され、その奥からは地面を震わせるほど強い魔力反応が検出されている。
アルテミシアたちは銀行の地下観測室へ降りた。石壁へ取りつけられた測定器の針は激しく揺れ、低い唸りが床から靴底へ伝わってくる。空気には焼けた金属と油の匂いが混じり、棚に置かれた湯呑みの水面には細かな波が立っていた。
「貯蔵庫ではありません」
「この魔力反応は、何でしょうか」
「結晶を蓄えているのではなく、何かを動かしています」
技術官が地下回路を映し出すと、六十日分の魔力結晶が幾重もの環へ組み込まれていた。中心部では巨大な結晶が脈打つように明滅し、周囲の魔力を吸い上げて別の形へ変換している。三年間にわたって消えた国家備蓄は、国外へ売られたのではなく、王都の地下で燃料にされていた。
アルテミシアは測定器の震える針を見つめた。自分一人の署名をなくした日に、見習い計算官が国家規模の秘密を発見した。彼女はノエラが差し出した請求書を証拠袋へ収め、地下施設の正式名称を読み上げた。
「王妃直属、第一人工魔力炉。三年前から稼働中です」




