↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/22

第14話 家名を失っても、数字は消えません

第14話 家名を失っても、数字は消えません


王立魔導銀行へ戻った翌朝、アルテミシアの名から「ヴァレニウス公爵令嬢」という肩書が消えた。相続人変更の届けは夜のうちに受理され、朝刊の一面には父娘の肖像画が並んでいた。見出しには大きな活字で、《父親を売った冷血女》《恩知らずの総裁、育ての家へ差し押さえ》と印刷されている。


アルテミシアは総裁室の机で新聞を読み、焦げ目のついた麦パンを一口かじった。昨夜は銀行へ泊まり、黒い総裁服のまま長椅子で二時間ほど眠ったため、銀色の髪には癖がついている。室内には固いパンと濃い珈琲の匂いが漂い、水差しに挿した秋薔薇は花びらを半分ほど落としていた。


「ずいぶん冷たい顔に描かれていますね」


「肖像画師に会った記憶はありません」


「公爵閣下は実物より十歳ほど若いです。少し不公平ではありませんか」


「問題は年齢ではなく、記事の内容です」


新聞をのぞき込んだルシアンは、指先についた印刷インクを白いハンカチで拭った。昨夜から着替えていないらしく、紺色の上着の肘には紙の粉が白くついている。彼が持ってきた籠には茹で卵と梨が入っていたが、アルテミシアは麦パンを机へ置き、記事の発行元を書き留め始めた。


「食事を途中でやめるのは契約違反です」


「食べています」


「パンが机の上で乾いているだけです」


「あとで食べます」


「その言葉を昨日から六回聞きました」


ルシアンはパンを取り上げ、代わりに監査報告書を机の端へ移した。アルテミシアは取り返そうとしたが、窓の外から大勢の声が聞こえてきた。銀行前の広場には百人を超える人々が集まり、紙の旗や横幕を掲げていた。


《親不孝者を総裁から降ろせ》


《王妃殿下へ謝罪せよ》


《公爵家の財産を返せ》


朝の冷たい風が横幕を揺らし、抗議者が踏みつけた花壇では橙色の金盞花が茎から折れていた。屋台から買ってきたらしい焼き芋を食べている者もおり、甘い煙が銀行の二階まで届く。揃った声の合間から、「次は俺たちの預金が奪われるぞ」という男の叫びが聞こえた。


「門を閉鎖しますか」


「いいえ。銀行を利用する方の通路だけ確保してください」


「石を投げられる可能性があります」


「窓を閉めれば済みます。抗議する権利まで凍結してはいけません」


「総裁へ危害を加える権利はありません」


「それも記録してください。合法な抗議と違法行為を分けます」


午前九時、予定どおり職員会議が始まった。大会議室には百二十人の職員が集まり、壁際には座りきれない者のための椅子が重ねられている。昨夜の清掃で片づけ忘れたのか、窓辺には片方だけの子ども用手袋があり、誰のものか分からないまま花瓶の横へ置かれていた。


アルテミシアが演壇へ立つと、拍手は起こらなかった。職員たちは互いの顔を見て、小声で何かを囁いている。前列に座る融資部長のグレゴールが立ち上がり、辞任要求書を掲げた。


「総裁閣下に申し上げます。公爵家との争いが銀行の信用を損ねています」


「公爵家の資産を監査することが、信用を損ねるという意味ですか」


「ご自分の父君さえ切り捨てる方へ、誰が財産を預けたいと思うでしょう」


「契約に従って預ける方です」


「世の中は契約だけでは動きません!」


グレゴールが机を叩くと、積まれていた書類が床へ滑り落ちた。若い女性職員が拾おうと椅子を引いたが、隣の男性に袖をつかまれて座り直す。会議室には汗とインクの匂いがこもり、誰かの腹が場違いなほど大きく鳴った。


「辞任要求へ署名した職員は四十七名です。この人数を無視するおつもりですか」


「いいえ。提出者の氏名と理由を記録します」


「ならば辞任を?」


「いたしません。監査を理由に総裁を解任できるという規定もございません」


「規定がなくとも、常識があるでしょう」


「常識という言葉で資産が守れるなら、保管庫の六十日分は消えておりません」


部屋の後方で、小さく咳き込む者がいた。グレゴールは辞任要求書を握り潰しかけたが、署名者たちの前であることを思い出したのか、皺を伸ばして机へ戻した。アルテミシアは要求書を正式に受理し、会議を続けようとした。


そのとき、扉が勢いよく開いた。受付係の青年が片方の靴紐をほどいたまま駆け込み、入口の敷物へつまずいた。抱えていた伝票が宙へ舞い、床一面へ白い紙が散らばった。


「大口預金者から、解約依頼が殺到しています!」


「件数と総額は」


「現在までに百八十二件、金貨換算で四千八百万枚です。今も増えています!」


「誰が引き出している」


「王妃派とされる貴族家が中心です。魔導通信で一斉に申請が届いております!」


職員たちが立ち上がり、会議室に椅子を擦る音が重なった。グレゴールの顔からも血の気が引き、辞任要求書を持つ手が下がる。国家の金融を担う王立魔導銀行で取りつけ騒ぎが起これば、貴族だけでなく、商会や職人や庶民の預金まで危険にさらされる。


アルテミシアは壁の時計を確認した。王妃派の貴族たちは、銀行が窓口を開く時刻に合わせて解約を申請している。偶然に同じ判断をしたのではなく、銀行を破綻させるために示し合わせた動きだった。


「臨時会議へ切り替えます。支払管理部は解約申請の有効性を確認し、適法なものは受理してください」


「全額を支払うのですか!」


「正規の預金は、契約者の求めに応じて返還します」


「それでは準備金が底をつきます!」


「中央準備庫を開放します」


アルテミシアの言葉に、会議室が静まり返った。中央準備庫は戦争や国家災害に備えた現金と換金用魔力結晶を保管しており、総裁と監査役三名の承認がなければ開けられない。前総裁でさえ、在任中に一度も開放していなかった。


「これは銀行に対する攻撃です。支払いを一時停止すべきです」


「支払いを止めれば、王立銀行が預金を返せないという噂が事実になります」


「相手の狙いどおりに金を渡すのですか」


「預金者の金です。銀行が渡すのではなく、返すのです」


「ですが、あの者たちは総裁を失脚させようとしている!」


「相手を嫌うことと、契約を守ることは別です」


職員たちはまだ動けずにいた。アルテミシアは演壇を降りると、中央準備庫の開放命令書へ署名し、監査役へ回した。先ほどまで辞任を求めていたグレゴールも、震える手で融資部の緊急資金を算出し始めた。


銀行の窓口には、昼前から長い列ができた。毛皮の外套を着た貴族の代理人たちが、預金証書を振りかざして支払いを急がせる。一般の預金者まで噂を聞いて押しかけ、籠を抱えた八百屋の女性や、仕事着に木屑をつけた家具職人が、不安そうに列の最後尾へ並んでいた。


「全額を引き出したら、銀行は潰れるんじゃないのかい」


「必要な金額だけでも構いません。預金は保護されます」


「本当だろうね。孫の学校へ払う金なんだよ」


「金貨十二枚、確かにお返しします。数をご確認ください」


アルテミシアは窓口にも立ち、八百屋の女性の前へ金貨を並べた。女性は一枚ずつ指で数え、八枚を財布へ入れると、残りの四枚を預け直した。自分の金が実際に返ってくると分かり、すべてを持ち帰る必要はないと考えたのだ。


中央準備庫から運ばれた金貨の箱が、次々と窓口の後ろへ積まれた。古い木箱には油と埃の匂いが染みつき、運搬係の制服は汗で背中の色が変わっている。食堂から豆と塩漬け肉の煮込みが届いたが、職員たちは立ったままパンを浸し、数口で腹へ入れて持ち場へ戻った。


「総裁、こちらの申請書へ承認をお願いします」


「総裁、第三窓口の金貨が不足しています」


「総裁、地方支店から問い合わせです」


「総裁、午後の解約総額が金貨八千万枚を超えました」


声が重なるたび、アルテミシアは帳票へ署名し、在庫を確認し、送金指示を出した。昼食の煮込みは執務室へ運ばれたまま、表面へ白い脂の膜を作っていた。窓の外が暗くなっても仕事は終わらず、魔導灯の青白い光が帳簿の数字を照らし続けた。


二日目の朝、解約総額は金貨二億枚に達した。それでも銀行は一件の支払いも拒まず、金貨、為替証書、魔力結晶を契約どおり返還した。予定していた破綻が起こらないため、王妃派の貴族たちはさらに預金を引き出したが、一般の預金者の列は前日より短くなっていた。


「街の商会が、預金を戻し始めています」


「理由は」


「王立銀行が全額支払っているのを見て、むしろ安全だと判断したようです」


「金貨の残高は」


「中央準備金の五十二パーセントです。まだ持ちこたえられます」


「では、通常業務も止めないでください」


ルシアンは報告書を机へ置き、隣にあった皿を見た。前夜に用意された鶏肉のサンドイッチは、パンの端が反り返っている。その横には皮を剥いただけの茹で卵があり、黄身の表面が乾いて薄い膜を作っていた。


「これは、いつからここにありますか」


「覚えていません」


「昨日の昼です。夕食も召し上がっていませんね」


「蜂蜜茶を飲みました」


「蜂蜜は食事ではありません」


「糖分と水分は取れています」


「人は数字では動きません。総裁ご自身が昨日おっしゃったことです」


アルテミシアは聞こえなかったふりをして、地方支店への送金票へ手を伸ばした。けれど文字が二重に見え、羽根ペンの先が署名欄から外れた。視界の端で黒い点が増え、椅子の脚が床を擦る音が遠くなった。


「アルテミシア様?」


「問題ありません。次の報告を」


「顔色が――」


「午後までに支払い計画を更新します。私が止まれば、銀行が止まります」


立ち上がろうとした途端、膝から力が抜けた。机の角へ手をつくこともできず、黒い総裁服の肩帯が床へ落ちる。ルシアンが椅子を蹴って腕を伸ばし、アルテミシアの頭が石床へぶつかる寸前で抱き留めた。


目を開けたとき、アルテミシアは総裁室の長椅子へ寝かされていた。肩には職員用の茶色い毛布が掛けられ、頬の近くから干した草と石鹸の匂いがする。診察に呼ばれた医師は、彼女の脈を測りながら、二日間の絶食と睡眠不足による失神だと告げた。


「三日は休養してください。少なくとも今日は、椅子から立ってはいけません」


「三日は不可能です」


「では、また倒れて七日休みますか」


「支払い業務が続いております」


「頭を打っていれば、支払いどころではありませんでしたよ」


医師が帰ると、アルテミシアはすぐ毛布を外した。足元には借りたまま返していない茶色の編み上げ靴が揃えてあり、片方の紐がほどけている。彼女が起き上がる前に、ルシアンは机の上の契約書と総裁印を抱えた。


「返してください」


「お断りします」


「総裁命令です」


「総裁代理権限を行使します。緊急時に総裁が職務を遂行できない場合、側近会計官が代理を務めるという規定です」


「私は遂行できます」


「床へ倒れる業務は、職務規定にありません」


ルシアンは総裁代理の印を押し、アルテミシアへ三日間の休養命令書を差し出した。彼の袖口には、抱き留めたときについたらしいインクが黒く伸びている。目の下にも隈があったが、署名する手は止まらなかった。


「私が止まれば、銀行が止まります」


「それは仕組みではありません。あなた一人を燃料にした欠陥設備です」


「今は制度を作り直している時間がありません」


「だから作るのです。あなたが倒れるたびに国家機関が停止するなら、王妃の人工炉より危険です」


「人工炉とは何ですか」


「たとえ話です。今のところは」


ルシアンは乾いたサンドイッチを下げ、温かい野菜スープを持ってくるよう職員へ頼んだ。ほどなくして、玉葱と人参と白豆を煮込んだ匂いが総裁室へ広がる。スープの中には不揃いな形の芋が沈み、料理係が急いで切ったことが分かった。


「食べ終わったら、自宅へお送りします」


「現在、私に自宅はありません」


「銀行の客室でも、宿屋でも構いません。少なくとも総裁室の床より寝心地はよいでしょう」


「今日の報告書だけ確認します」


「しません」


「一枚だけです」


「駄目です」


「あなたは頑固ですね」


「二日間食べない方に言われたくありません」


アルテミシアは匙を取り、スープを一口飲んだ。薄い塩味のあとから玉葱の甘さが広がり、冷えていた指先まで少しずつ温まる。ルシアンは彼女が皿の半分を食べるまで契約書を抱えたまま立ち、視線を一度もそらさなかった。


夕方、アルテミシアは本当に総裁室から追い出された。職員用の客室へ向かう廊下では、窓辺の鉢植えに黄色い小菊が咲いていた。誰かが水をやりすぎたらしく、受け皿からこぼれた水が床へ細長く流れている。


階下では、総裁代理となったルシアンが各部長へ指示を出していた。支払管理部が解約を処理し、監査部が不審な申請を確認し、地方支店が準備金を補う。アルテミシアがその場にいなくても、銀行員たちは帳簿を開き、互いに数字を読み上げ、業務を続けていた。


彼女は廊下の手すりへ指を置いた。自分がいなければ止まる組織を、有能な組織だと思っていた。エヴァンズ伯爵家が自分一人の魔力と信用に依存して崩れたにもかかわらず、今度は王立銀行を同じ形へ作り替えようとしていた。


客室には狭い寝台と洗面台があり、椅子の背には洗い立ての寝間着が掛けられていた。窓枠には前の利用者が置き忘れた木彫りの小鳥があり、嘴だけが赤く塗られている。アルテミシアは黒い総裁服を脱ぎ、初めて肩帯の重さがなくなった肩を、自分の手でゆっくり揉んだ。


机の上には、ルシアンが置いた休養命令書があった。その裏には職員たちの当番表が書き加えられ、夜間業務も一人へ集中しないよう三交代に分けられている。彼女はその表を長く眺めたあと、枕元に置かれた梨を一つ手に取った。


窓の外では、抗議者たちが残していった横幕を清掃係が片づけていた。踏み荒らされた金盞花も、折れた茎を支柱へ結ばれ、まだ橙色の花を上へ向けている。アルテミシアは梨の皮を小さなナイフで剥きながら、自分が戻ったあと最初に作るべきものを決めた。


それは新しい融資計画でも、王妃への反論書でもなかった。総裁が倒れても、辞めても、死んでも、同じ基準で動き続ける組織だった。細く剥いた梨の皮が途中で切れ、アルテミシアは欠けた実を口へ運んだ。


「一人で支えることを、功績にしてはいけませんね」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。