第13話 お父様の会社も、監査対象です
第13話 お父様の会社も、監査対象です
ヴァレニウス公爵邸へ向かう馬車の窓から、秋の朝日が斜めに差し込んでいた。街路樹の楓は先端だけが赤く染まり、パン屋の前では白い前掛けをした店主が焼きたての胡桃パンを籠へ並べている。アルテミシアは濃紺のドレスの膝に監査鞄を置き、革の留め金へ触れては離す動作を繰り返していた。
向かいに座るルシアンは、その手元を見ないふりで朝食の包みを開いた。紙の中には卵と燻製肉を挟んだ丸パンが二つあり、まだ少し温かい。彼は大きいほうをアルテミシアへ差し出したが、彼女は小さいほうを取った。
「大きいほうをお召し上がりください」
「どちらも同じ大きさに見えます」
「私の目測では、そちらが一割ほど小さいです」
「目測を監査の根拠にしてはいけません」
「朝食の大きさまで計量器を使う総裁にはなりたくありませんので」
アルテミシアは丸パンへかじりつき、返事の代わりに窓の外を見た。半熟の卵が少しだけ垂れ、手袋の親指へ黄色い染みを作る。公爵家の令嬢として育てられたころなら、馬車の中でパンを食べることも、汚れた手袋をそのままにしておくことも許されなかった。
ヴァレニウス公爵邸の鉄門が近づくにつれ、見慣れた銀色の狼の紋章が大きくなった。門番は娘の帰宅を喜ぶように姿勢を正したが、馬車の側面に刻まれた王立魔導銀行の紋章を見て、帽子を取る手を途中で止めた。アルテミシアはパンを包み直し、汚れた親指を布巾で拭いてから馬車を降りた。
正面玄関の脇では、庭師が夏の花を抜き、紫色の竜胆と白い孔雀草へ植え替えていた。濡れた土の匂いに混じって、厨房から焼き林檎と肉料理の香りが流れてくる。アルテミシアはこの屋敷へ帰るたび、その日の献立を匂いで当てて父を笑わせたことを思い出した。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「本日は帰宅ではありません。王立魔導銀行総裁として、監査通知を届けにまいりました」
老執事のハロルドは目を伏せ、差し出しかけた室内履きを静かに戻した。玄関の敷物には昨夜の雨でついた靴跡が残り、端のほうでは飼い猫のオスカーが毛繕いをしている。猫はアルテミシアを見ると立ち上がったが、黒い監査鞄を嫌ったのか、尻尾を膨らませて階段の下へ逃げ込んだ。
「旦那様は朝食室にいらっしゃいます。お嬢様のお席もご用意いたしますか」
「食事は済ませました」
「卵を落とされたようですが」
「なぜ分かるのですか」
「右の手袋が、昔と同じ汚れ方をしております」
ハロルドは口元だけで笑い、アルテミシアを朝食室へ案内した。ルシアンは監査官二名とともに廊下で待つつもりだったが、アルテミシアは全員を室内へ入れるよう命じた。今回は父と娘の話ではなく、資産を預かる側と調査を受ける側の話だった。
朝食室では、ヴァレニウス公爵セオドールが新聞を広げていた。濃い緑色の上着には糸屑が一本つき、銀色の髪は後頭部だけ少し跳ねている。卓上には茸入りのオムレツ、厚切りの燻製肉、葡萄、蜂蜜を添えた焼き林檎が並んでいたが、公爵が食べたのは焦げたパンの端だけだった。
「久しぶりに帰ったと思えば、銀行の制服か」
「ご無沙汰しております、お父様」
「座りなさい。焼き林檎が冷める」
「監査通知をお渡ししてからにいたします」
「焼き林檎は通知より待ってくれんぞ」
父は皿を娘の席へ押し、銀の匙まで添えた。林檎の皮は艶やかに赤く、切れ目から溶けた蜂蜜が染み出している。アルテミシアは以前なら父の好意を断れなかったが、今日は鞄から書類を取り出し、その皿の隣へ置いた。
「ヴァレニウス公爵家が所有する北部第三魔力開発社について、臨時監査を実施します」
「何の話だ」
「三年間にわたり、採掘していない魔力結晶を王国へ納入したことにして、代金を受け取っております」
「馬鹿な。当家の鉱山は毎年、規定量を採掘している」
「第一鉱山は二年前の落盤事故以降、採掘量が四割減っています。第二鉱山では地下水が湧き、昨年から下層へ入れません。第三鉱山は鉱脈を掘り尽くし、三年前に閉鎖されました」
父は新聞を畳んだが、角と角が合わず、紙面の上で王太子の顔が斜めに折れた。アルテミシアは採掘現場の日報、作業員へ支払われた賃金、輸送車両の通行記録を順番に並べた。いずれの記録にも、国へ納入したとされる量の魔力結晶を採掘した形跡はなかった。
「報告書には生産量が記載されている」
「こちらが、その報告書を書いた鉱山長の証言です。公爵家の本社から渡された数字を、そのまま転記したと認めています」
「鉱山長の責任だ。私はそんな指示を出していない」
「では、こちらの承認印をご確認ください」
「会社の決裁書すべてを、当主が読むわけではない」
セオドールは署名を見ても表情を変えず、冷めかけた珈琲へ手を伸ばした。しかしカップの取っ手を一度つかみ損ね、受け皿に黒い雫がこぼれた。ハロルドが布巾を持って近づくと、公爵は自分で拭くと言って退かせた。
アルテミシアは父の癖を知っていた。困ったときには右の親指で左手の指輪を回し、嘘をつくときには相手ではなく、その肩口を見る。今の父は指輪を動かさなかったが、娘の目だけは一度も見ていなかった。
「お父様は、本当にご存じなかったのですか」
「知らなかった。王妃直属機関が絡む事業だとは聞いていたが、帳簿の細部までは任せていた」
「誰に任せていたのですか」
「会社の重役たちだ。私が採掘量を一粒ずつ数えることなどできん」
「納品されていない結晶の代金は、どこへ入りましたか」
「会社の口座だろう」
「その翌日に、八割が公爵家の資産管理口座へ移されています」
父が布巾を握る手に力を入れ、白い布へ珈琲の染みが広がった。アルテミシアは資産管理口座の記録を開いた。そこから支払われた金の使い道には、領内の橋の修繕費、凶作地への穀物購入費、使用人の給与、そしてアルテミシアが通った王立学院の学費も含まれていた。
窓の外で庭師が土を叩き、植え終えた竜胆の根元を固めていた。朝の光を受けた紫色の花は、この部屋で交わされる言葉とは関係なく、同じ方向へ顔を向けている。アルテミシアは父の前に並んだ料理から、茸とバターの匂いが薄れていくのを感じた。
「公爵領には一昨年、大規模な洪水があった」
「記録で承知しております」
「五つの村で橋が流され、畑が泥に埋まった。王国へ救援を申請しても、届いたのは必要額の三分の一だ」
「それが架空納品を行った理由ですか」
「領民を見殺しにしろというのか。あの金がなければ、冬を越せなかった家族が何百人もいた」
「正規の融資や追加予算を申請する方法がありました」
「申請しているうちに、冬は待ってくれん」
父の声が高くなり、朝食室の扉の外で誰かが食器を落とした。小さく割れる音のあと、若い侍女が謝る声と、年長の侍女が怪我はないかと尋ねる声が聞こえる。セオドールはそちらを見て口を閉じ、固くなったオムレツへナイフを入れた。
「すべては家門のためだった。ヴァレニウス公爵家が力を失えば、領民も使用人も路頭に迷う」
「だから、納品していない資産の代金を受け取ったのですか」
「王妃殿下の側から提案された仕組みだ。国の金は巡らせてこそ意味があると説明された」
「その一方で、備蓄庫から本物の魔力結晶が運び出されています」
「それは知らなかった」
「私も昨日まで知りませんでした」
「ならば分かるだろう。知らなかった人間まで罪に問えば、この国の貴族は誰も残らん」
アルテミシアは焼き林檎の皿を見た。蜂蜜は冷えて固まり、匙を入れても皮がうまく切れなかった。幼いころ、父は熱すぎる林檎を息で冷まし、娘が舌を火傷しないよう小皿へ取り分けてくれた。
父は悪事を楽しむ人間ではなかった。領民が飢えれば自分の食卓から肉を減らし、病気の使用人が出れば医師を家族のもとへ送った。だからこそ、自分が守るべき者のためなら、帳簿の外にいる者から奪ってもよいと考えたのだ。
「北部第三魔力開発社が受け取った代金は、総額で金貨七百二十万枚です」
「すべてが私腹へ入ったわけではない」
「分かっております。領内へ使われた金額も、公爵家の維持費も、私の教育費も区別して調べます」
「お前の教育にも使われたのだぞ。今のお前があるのは、その金のおかげでもある」
「はい」
父は初めて娘の目を見た。アルテミシアが否定しなかったため、セオドールの肩からわずかに力が抜ける。けれどアルテミシアは帳簿を閉じず、王立学院へ支払われた学費の欄へ自分の名を書き込んだ。
「否定はいたしません。私はこの屋敷で暮らし、十分な食事を与えられ、最高の教師から学びました。その資金の一部が不正な利益だったなら、私も利益を受けた者です」
「子どもだったお前に、何ができた」
「当時は何もできませんでした。今は返還できます」
「お前の責任ではない」
「責任がないことと、受け取った資産を自分のものにしてよいことは別です」
アルテミシアは自分名義の預金、宝石、領地収入を記した目録を父の前へ置いた。それらも監査結果が出るまで凍結し、不正資金が含まれていれば返還することにしていた。父が娘の二十歳の祝いに贈った月長石の首飾りも、目録の三頁目に記載されている。
「私は知らなかったでは済ませません。知らずに受け取った利益も、返還すべき資産です」
「母親の形見まで差し出すつもりか」
「母の櫛と手紙は、金銭的利益ではありません。月長石の首飾りは購入記録を調査します」
「そんな区別をして、母が喜ぶと思うのか」
「お母様が何を喜ぶかを、帳簿の根拠にはできません」
言葉を口にしたあと、アルテミシアの喉に焼き林檎の甘さが重く残った。母が亡くなった年の秋、父と娘はこの朝食室で二人分の林檎を半分ずつ食べた。父は焦げた皮を自分の皿へ移し、柔らかな実だけを娘へ渡していた。
ルシアンは何も言わず、窓際に立っていた。監査官たちも視線を伏せ、羽根ペンを動かす音さえ立てない。アルテミシアは鞄から公爵家全資産に対する監査登録書を取り出し、最後の署名欄を開いた。
エヴァンズ伯爵家への供給停止書へ署名したとき、指は少しも震えなかった。ジュリアンに奪われた功績を数え、契約に従って切り離しただけだった。けれど今、羽根ペンの先は紙の上で止まり、小さなインクの点を作った。
「やめなさい、アルテミシア」
「できません」
「私が命じているのだ」
「私は今、公爵家の娘ではなく、王立魔導銀行総裁としてここにおります」
「ならば、総裁の肩書を外して父の顔を見ろ。それでも署名できるのか」
アルテミシアは顔を上げた。父の銀色の髪には寝癖が残り、上着の肩についた糸屑も、まだ取られていなかった。幼い娘へ数字を教え、間違えた答案を破らずに残してくれた人が、冷めた朝食の向こう側に座っていた。
彼女は左手で右の手首を押さえた。震えは止まらなかったが、文字は書けた。アルテミシア・ヴァレニウスと最後まで記し、王立魔導銀行総裁の監査印を赤い封蝋へ押し込んだ。
「お父様が教えてくださいました。間違いは隠すのではなく、どこで間違えたかを調べなさいと」
「親へ刃を向けるために教えたのではない」
「刃ではありません。帳簿です」
「私にとっては同じだ!」
父が卓を叩くと、珈琲のカップが倒れ、黒い液体が白い卓布へ流れた。焼き林檎の皿にも染み込み、赤い皮が茶色く濡れる。ハロルドが布巾を持って入ってきたが、今度のセオドールは止めなかった。
「監査中、公爵家の銀行口座と魔力資産は凍結されます。使用人の給与、領民への生活支援、治療院の運営費については保全申請が可能です」
「家を奪っておいて、使用人の心配か」
「生活を守る支出と、家門の威信を守る支出を分けます」
「お前は、どこまでこの家を辱めれば気が済む」
「何が必要で、何が隠されていたのかを確認するまでです」
セオドールは立ち上がり、椅子を後ろへ押しのけた。床を擦る激しい音に驚き、窓辺にいた小鳥が飛び去った。庭では植え替えを終えた庭師が、何も知らずに竜胆へ水をやっていた。
「ならば好きにしろ。ただし、その名を使って我が家を裁くことは許さん」
父は右手の指輪を外し、卓上へ置いた。銀色の狼が刻まれた当主の指輪は、珈琲で汚れた卓布の上を転がり、アルテミシアの監査書類へぶつかって止まった。セオドールは娘ではなく、控えていた執事へ向き直った。
「ハロルド、家令と親族会議の者を集めろ。本日中に相続変更の書類を作成する」
「旦那様、どうかお考え直しください」
「命令だ。アルテミシアを、ヴァレニウス公爵家の相続人から外す」




