第12話 王妃殿下、その印章は無制限ではありません
第12話 王妃殿下、その印章は無制限ではありません
翌日の午後、アルテミシアは王宮の南庭へ案内された。秋晴れの空は淡く澄み、白い石畳の両側では、赤紫色のダリアと黄金色のマリーゴールドが風に揺れている。彼女は銀鼠色のドレスに王立魔導銀行総裁の黒い肩帯を掛け、右手には王妃直属機関への監査申請書を収めた革鞄を持っていた。
南庭の中央には白い天幕が張られ、その下に王妃オクタヴィアが座っていた。王妃の深紅のドレスには金糸で三輪の百合が刺繍され、白い髪には大粒の真珠が並んでいる。丸い卓上には蜂蜜を塗った胡桃菓子、杏のジャムを挟んだ焼き菓子、薄く切った胡瓜のサンドイッチが並び、甘い薔薇茶の匂いに秋の土の匂いが混じっていた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「堅苦しい挨拶はよしましょう。あなたが幼いころには、この庭で泥だらけになって遊んでいたのですから」
「覚えております。池へ落ちた私を、お父様が上着のまま引き上げてくださいました」
「まあ、あなたにもそんな時代があったのね。今では帳簿の中から生まれたようなお顔をしているのに」
王妃は扇で口元を隠して笑い、アルテミシアへ向かいの椅子を勧めた。その声は柔らかかったが、卓上には王立銀行の職員が一人もおらず、王妃付きの侍女と近衛兵だけが控えている。アルテミシアは鞄を膝から離さず、椅子の背にもたれないまま腰を下ろした。
侍女が薔薇茶を注ぐと、薄桃色の花びらがカップの中で回った。王妃は角砂糖を二つ入れ、銀の匙でゆっくり混ぜてから、胡桃菓子を半分に割った。細かな欠片が皿へ落ちると、王妃は指先で一つずつ拾い、何事もなかったように口へ運んだ。
「昨夜は遅くまで働いたそうね。若いからといって、無理をしてはいけませんよ」
「お気遣いに感謝いたします」
「あなたのお母様も、昔から食の細い方でした。お茶会へ招いても、菓子を一つしか召し上がらないの。あなたもよく似ています」
「本日は朝食を済ませてまいりました。側近会計官に確認されましたので、間違いございません」
王妃の扇が一瞬だけ止まり、すぐに優雅な速さで動き始めた。アルテミシアは胡瓜のサンドイッチを一つ取り、端から小さくかじった。柔らかなパンには辛子入りのバターが塗られており、予想より強い刺激が鼻へ抜けた。
「おいしいでしょう。料理長が、胡瓜の厚さまで測って作らせたものです」
「三ミリほどでしょうか」
「食べ物まで測るのね」
「測ってほしくないものを、この席へ並べたのですか」
アルテミシアがカップを置くと、磁器と受け皿が澄んだ音を立てた。天幕の外では庭師が落ち葉を集めており、箒が石畳を擦る音が一定の間隔で聞こえる。王妃は侍女たちへ目を向け、庭の端まで下がるよう命じた。
「昨日、王立魔導銀行の保管庫を調べたそうですね」
「はい。備蓄されているはずの魔力結晶が、六十日分不足しておりました」
「その件なら、心配はいりません。不足分は王家の緊急裁量費として使用しました」
「どのような緊急事態に使用なさったのでしょうか」
「国の安全に関わることです。総裁になったばかりのあなたへ、すべてを説明する必要はありません」
オクタヴィアは微笑んだまま、薔薇茶を一口飲んだ。けれどカップを戻した位置は、先ほどより指一本分だけ右へずれている。アルテミシアはそのずれを見ながら革鞄を開き、法令集と魔力転送記録の写しを取り出した。
「王家の緊急裁量費は、一会計年度につき国家魔力収入の一パーセントまでと定められております。災害、他国からの侵攻、国王または王位継承者の救命に限って使用でき、三十日以内に議会へ報告しなければなりません」
「古い法律です。歴代の王妃は、必要に応じて印章を使ってきました」
「法令の最終改定は八年前です。オクタヴィア王妃殿下も、改定承認書へ署名しておられます」
「王家には、法律だけでは動かせない事情があるのですよ」
「王立銀行にもございます。預かった資産を、記録に従って保管するという事情です」
庭師の箒が止まり、天幕の布が風を含んで大きく膨らんだ。卓上の紙ナプキンが一枚飛び、王妃の足元へ落ちる。オクタヴィアは拾おうとせず、細くなった目でアルテミシアの法令集を見つめた。
「あなたは少々、潔癖すぎるのではなくて? 国というものは、帳簿どおりには動きません」
「帳簿どおりに動かない支出があることは承知しております。だからこそ、例外を記録する欄があります」
「何もかも記録すれば、敵国に利用されます」
「機密費として記録し、閲覧権限を制限できます。存在そのものを消す理由にはなりません」
王妃は残っていた胡桃菓子を口へ入れたが、今度はよく噛まずに薔薇茶で流し込んだ。金色の指輪についた菓子の蜜が、カップの取っ手へ細く伸びる。オクタヴィアはそれに気づくと、白い布巾で何度も指を拭った。
「六十日分など、王国全体から見れば大した量ではありません」
「新たな供給が途絶えれば、国民二千万人が六十日早く明かりと暖房を失う量です。治療院の魔導具も、穀物倉庫の保存術式も止まります」
「そのような事態は起こりません」
「起こらないという予測を、備蓄を減らす根拠にはできません」
「では、私が不正を働いたとでも言うのですか」
「それを判断するために、監査を申請いたしました」
王妃は扇を閉じ、卓上へ置いた。乾いた音に驚いた小鳥が、ダリアの茂みから飛び立つ。アルテミシアは膝の上で指を組み、爪が手袋へ食い込まないよう、一度だけ力を緩めた。
「申請を取り下げなさい。これは王妃としての助言です」
「できません」
「あなたの元婚約者の家とは違うのですよ。王家を敵に回せば、あなた一人では済みません」
「承知しております」
「いいえ。あなたは分かっていません」
オクタヴィアは椅子から立ち上がり、天幕の端まで歩いた。香水の甘い匂いが風に流れ、その代わりに刈られた芝の青臭さが強くなる。王妃は咲き残った白薔薇へ手を伸ばしたが、棘に触れたのか、すぐに指を引っ込めた。
「王国の魔力事業に関わっているのは、王家だけではありません。採掘、輸送、加工、保管、それぞれに名門貴族が参加しています」
「存じております」
「あなたのヴァレニウス公爵家も例外ではありません。むしろ、誰より深く関わっているのではなくて?」
「父の会社は、北部に三つの魔力鉱山を所有しております」
「それだけかしら。不足した結晶の代金が、どこへ流れたのかを調べれば、あなたの家も無傷では済みませんよ」
アルテミシアの脳裏に、父の書斎が浮かんだ。冬になると暖炉の前へ二脚の椅子を置き、片方を必ず娘のために空けていた。彼女が初めて計算を間違えた日、父は答案を破らず、間違った箇所へ小さな赤い丸をつけてくれた。
王妃はアルテミシアの沈黙をためらいと受け取ったのか、再び穏やかな笑みを浮かべた。侍女を呼び、薔薇茶を新しく入れ直すよう命じる。今度の茶には蜂蜜を多めに入れさせ、幼い子どもを慰めるような声で語りかけた。
「あなたは十分に働きました。エヴァンズ伯爵家の件も見事に処理したわ。ここで調査を終えれば、誰もあなたを責めません」
「調査を終える理由がありません」
「家族を守りたくはありませんの?」
「守ります。ですから、不正の共犯者にしないために調べます」
王妃の笑みが薄くなり、カップの中で銀の匙が止まった。アルテミシアは監査申請書を取り出し、王妃の前へ置いた。そこには、王妃直属機関、王立銀行、関係するすべての採掘会社と輸送商会を調査対象とする旨が記されていた。
「これは宣戦布告ですか」
「監査通知です」
「同じことでしょう」
「戦争には勝者と敗者が必要です。監査に必要なのは、事実と記録だけです」
オクタヴィアは申請書を受け取らなかった。アルテミシアも無理に渡さず、卓上の中央へ置いたまま立ち上がった。食べかけの胡瓜のサンドイッチが皿に残っていたため、一瞬迷ってから布で包み、鞄の脇へ入れた。
「それまで持ち帰るの?」
「食べ物に罪はありません。ルシアンが昼食を確認しますので」
「あなたは、本当に変わった娘ね」
「婚約破棄された翌日から、一日二食以上を取る契約になりました」
王妃は呆れたように眉を上げたが、アルテミシアは一礼して天幕を出た。背後で磁器の割れる音が響き、侍女たちが小さな声を上げる。振り返らなくても、王妃がどのカップを落としたのかは分かった。
帰りの馬車では、ルシアンが向かいの席で分厚い資料の束を読んでいた。紺色の上着の肩には、庭からついてきた黄色い花びらが一枚乗っている。アルテミシアはそれを指摘しようとしたが、ルシアンが包みを見つけたため、先に昼食の話になった。
「これは何ですか」
「胡瓜のサンドイッチです。半分食べました」
「半分とは、一個の半分ですか。それとも一皿の半分ですか」
「一個の半分です」
「契約違反すれすれですね」
ルシアンは眉を寄せながらも、包みを丁寧に閉じ直した。馬車は石畳の継ぎ目を越えるたびに揺れ、窓の外では市場帰りの女性たちが籠いっぱいの林檎を抱えて歩いている。焼き栗を売る屋台から香ばしい煙が漂い、アルテミシアは朝から強張っていた肩を少しだけ下ろした。
「王妃殿下は何と?」
「不足分は緊急裁量費だとおっしゃいました。監査を続ければ、ヴァレニウス公爵家も無傷では済まないそうです」
「脅迫ではありませんか」
「忠告の形をした情報提供です。おかげで調査対象を絞れます」
「公爵閣下を疑うのですか」
「疑いたくない人を除外するなら、監査とは呼べません」
王立銀行へ戻ると、総裁室には午前中に依頼した送金記録が積み上げられていた。白い秋薔薇は少し萎れ、水差しの脇には職員の誰かが置いた焼き栗の袋がある。アルテミシアは一つだけ栗を割り、温かい実を口へ入れてから、記録の確認に取りかかった。
六十日分の魔力結晶は、王妃直属機関へ送られたあと、七つの会社へ売却された形になっていた。しかし代金は王立銀行へ戻らず、複数の名義を経て別の口座へ移されている。ルシアンが送金先を一件ずつ読み上げ、アルテミシアは照合済みの欄へ印をつけた。
「カーディナル輸送商会、金貨九十八万枚。シュテルン結晶加工所、金貨百二十万枚。北部第三魔力開発社、金貨二百四十万枚」
「北部第三魔力開発社を、もう一度お願いします」
「北部第三魔力開発社です。登録上の所有者は――」
ルシアンの声が途切れた。アルテミシアは自分で会社名簿を引き寄せ、所有者欄を確かめた。そこには、子どものころから見慣れた父の署名と、ヴァレニウス公爵家の紋章が記されていた。
焼き栗の殻が、アルテミシアの指の間で小さく割れた。爪の内側へ茶色い欠片が入り、指先にはまだ温かさが残っている。彼女は布巾で手を拭くと、新しい監査申請書の対象欄へ、父の会社名を一文字ずつ書き加えた。
「明朝、ヴァレニウス公爵家へ向かいます」
「私も同行します」
「父は、あなたを部屋へ入れないかもしれません」
「その場合は廊下で待ちます。昼食も持っていきます」
アルテミシアは返事をせず、署名欄へ羽根ペンを置いた。インクが紙へ染み込み、ヴァレニウスという家名の最後の一文字が、ほかよりわずかに太くなった。王妃の忠告どおり、調査を続ければ実家も無傷では済まない。
それでも彼女はペンを戻さず、監査印を押した。赤い封蝋には王立魔導銀行の天秤が、くっきりと刻まれた。アルテミシアは乾くのを待ってから書類を閉じ、父へ届けるための封筒へ収めた。
「お父様の会社も、監査対象です」




