第11話 国家予算が、三割足りません
第11話 国家予算が、三割足りません
王立魔導銀行の総裁室には、九月の朝だというのに火の気がなかった。北向きの窓から入る風が薄紫色のカーテンを揺らし、庭で咲き始めた秋明菊の匂いと、馬車道から舞い上がる乾いた土の匂いを運んでくる。アルテミシアは灰青色のドレスの上に黒い総裁服をまとい、袖口を邪魔にならないところまで折り返すと、前任者が残した机の引き出しを一つずつ開けた。
上段には折れた羽根ペンと飴玉の包み紙、中段には女性から届いたらしい香水つきの手紙、下段には片方だけの靴下が入っていた。国の魔力資産を預かる机にしては、ずいぶん生活感のある中身だった。アルテミシアが靴下をつまんで首を傾げると、隣で書類を抱えていた青年会計官ルシアンが咳払いをした。
「前総裁は、泊まり込みになると靴を脱ぐ癖がありまして」
「それは業務報告に必要な情報ですか」
「いいえ。ただ、初日から息が詰まりそうでしたので、役に立たない話をしてみました」
「では、役に立ちました。少しだけ」
ルシアンは笑いかけたが、アルテミシアはすでに靴下を小箱へ移し、分厚い国家資産台帳を机の中央へ置いていた。深緑色の表紙は長年の手脂で黒ずみ、角には誰かがこぼした葡萄酒の染みが残っている。帳簿を開くと古い紙と防虫香の匂いが立ち、細かな数字の列が、隙間なく頁を埋めていた。
就任の挨拶を待つ職員たちは、総裁室の外で落ち着かない足音を立てていた。前総裁は初日の午前中を祝賀会に使い、料理人へ孔雀の丸焼きまで用意させたという。けれどアルテミシアは祝賀会を断り、最初に魔力備蓄台帳を持ってくるよう命じていた。
「まず職員へお言葉をいただけませんか。花束も用意しております」
「花束は執務室に飾ってください。職員への挨拶は帳簿を確認したあとにします」
「花瓶が一つしかありません。昨日、掃除係が二つ割りました」
「では、水差しを使いましょう。花は花瓶の値段を気にしません」
総裁室へ運び込まれた白い秋薔薇は、銀の水差しに押し込まれることになった。茎の長さが揃っていないため、三本だけが妙に高く飛び出し、横から見ると行儀の悪い帽子飾りに見える。アルテミシアはその不格好な花を一度だけ眺めてから、指先で計算珠を弾き始めた。
王国の魔力備蓄は、災害や戦争によって新たな供給が止まった場合でも、百八十日間は国民の生活を維持できる量を保有する。それが法律で定められた最低基準だった。台帳にも、各地の鉱山から納入された魔力結晶が、基準どおり保管されていると記載されている。
「第一保管庫、三十五万単位。第二保管庫、四十一万単位。第三保管庫、三十八万単位。地方備蓄庫の合計を加えて、百八十日分ですね」
「はい。先月の定期報告でも不足なしと確認されています」
「確認したのは誰ですか」
「前総裁と、保管部長です。書類にはお二人の署名があります」
アルテミシアは頁の端を爪で軽くなぞった。第一保管庫の数字だけ、インクの色がわずかに青い。数字を書き直した痕跡はなかったが、計算欄の筆圧も、その下に記された担当者の署名も、ほかの頁とは異なっていた。
「保管庫へ行きます」
「今からですか。地下は冷えますし、その靴では階段が滑ります」
「では、歩きやすい靴を貸してください」
「私の靴でよろしければ」
「大きすぎます。詰め物を入れれば、転ばずに済むでしょう」
ルシアンが返事に詰まっている間に、アルテミシアは総裁服の裾を持ち上げて廊下へ出た。結局、女性職員が予備として置いていた茶色い編み上げ靴を借り、つま先へ古新聞を丸めて詰めることになった。公爵令嬢が新聞紙入りの靴で地下へ降りていく姿を見て、警備員は帽子を取ったまま口を開けていた。
地下保管庫へ続く石段には、昨夜の雨で染み出した水が細い筋を作っていた。壁の魔導灯は一定の間隔で青白く光り、金属と湿った苔の匂いが鼻の奥へ残る。アルテミシアは百二十七段を数えながら降り、最後の段で靴の中の新聞紙がずれたため、一度だけ壁へ手をついた。
第一保管庫の扉を開けると、冷えた空気が頬へぶつかった。巨大な棚には拳ほどの魔力結晶が積まれ、淡い金色の光を放っている。保管部長のバルテルは丸い腹を革帯に乗せ、汗を拭きながらアルテミシアを迎えた。
「総裁閣下にわざわざお越しいただくほどの場所ではございません。帳簿をご覧になれば、すべて分かりますので」
「帳簿が正しいかを確かめるために、保管庫があります」
「もちろん正しいに決まっております。先月も前総裁が確認なさいました」
「前総裁は、結晶を量りましたか」
「いえ、長年信頼されてきた記録ですから」
バルテルは愛想笑いを浮かべたが、手にした白いハンカチは汗で灰色になっていた。アルテミシアは棚の前へ立ち、結晶の数ではなく、床に刻まれた冷却術式を調べた。魔力結晶は保管量が多いほど熱を発するため、室温と冷却装置の消費量から、おおよその総量を割り出せる。
「この部屋の規定温度は十二度ですね」
「はい。ご覧のとおり、温度計も十二度を示しております」
「冷却装置の出力は、最大値の六割です。台帳どおり三十五万単位あるなら、八割まで上げなければ十二度を保てません」
「今年は涼しい秋でございますから、その影響ではありませんか」
「地上の気温は、厚さ八メートルの岩盤を都合よく通り抜けません」
ルシアンが携帯計量器を棚へ接続すると、結晶の光が順番に読み取られ、真鍮の表示盤で針が動いた。三十五万を示すはずの針は二十三万四千で止まり、保管庫には機械の低い唸りだけが残った。バルテルはハンカチを落としたが、拾おうと腰を曲げることもできなかった。
第二保管庫にも、第三保管庫にも、同じ割合の不足があった。地方備蓄庫から届いた重量報告を照合すると、書類上は百八十日分あるはずの魔力結晶が、実際には百二十日分しか存在しない。六十日分、国家予算のおよそ三割に相当する資産が、倉庫から消えていた。
昼を知らせる鐘が地上で鳴ったころ、アルテミシアは総裁室へ戻った。料理係が運んだ肉入りパイはすっかり冷め、固まった脂が白く浮いている。付け合わせの林檎は兎の形に切られていたが、長い耳の片方が皿へ落ち、赤い皮が舌のように飛び出していた。
「せめて紅茶をお飲みください。朝から水も飲んでいません」
「いただきます」
アルテミシアは答えたものの、帳簿の余白へ計算を書き続け、最初の紅茶には触れなかった。ルシアンが冷めた茶を下げて新しいものを置いたが、二杯目も湯気が消え、三杯目を入れるころには、彼の眉間にも深い皺ができていた。
「総裁閣下。紅茶が何度生まれ変わっても、一口も飲まれないのですが」
「転生を繰り返す紅茶は珍しいですね」
「笑い事ではありません。四杯目には、私がカップをお持ちします」
「それは仕事の邪魔です」
「空腹で倒れられるほうが、国家の仕事を邪魔します」
アルテミシアはようやく羽根ペンを置き、三杯目の紅茶を口へ運んだ。渋みが強く、すでに温かいとはいえなかったが、蜂蜜の甘さが舌へ残った。肉入りパイも一口かじると、硬い皮が音を立てて割れ、香辛料の利いた肉の匂いが広がった。
そのとき、杖の先を床へ打ちつける音が廊下から近づいてきた。職員たちが左右へ退き、前総裁ガスパール侯爵が大きな襟飾りを揺らしながら入ってくる。葡萄色の上着には金糸の刺繍が施され、近づくだけで甘い香油と葉巻の匂いが鼻を刺した。
「新総裁が初日から倉庫を引っかき回していると聞いたぞ。公爵令嬢のお遊びに付き合わされる職員も気の毒なものだ」
「ガスパール侯爵。ちょうどお尋ねしたいことがありました」
「備蓄量のことだろう。記録上の誤差だ。結晶は採掘地によって純度が違うから、重量と魔力量が一致しないこともある」
「純度、重量、室温、冷却装置の出力をすべて計算しました」
「細かな数字にこだわるから、婚約者にも逃げられるのだ。国を動かすには、大きなところを見る度量が必要だぞ」
ルシアンの手が、空になったティーポットの持ち手を強く握った。けれどアルテミシアは顔を上げず、最後の計算式へ二本線を引いた。数値は何度計算し直しても変わらず、むしろ転送記録との不一致をいっそう鮮明にしていた。
「誤差とは、原因を説明できる数字に使う言葉です。説明できない六十日分は、盗難と呼びます」
「言葉を慎め。私を疑っているのか」
「いいえ。あなた一人で動かせる量ではありません」
前総裁の頬から笑みが消えた。アルテミシアは結晶の入庫記録、保管庫の計量結果、冷却装置の稼働記録を机へ並べ、最後に転送門の使用履歴を置いた。三年前から毎月末の深夜、同じ量の魔力結晶が、王立銀行から送出されている。
宛先の名称は黒い塗料で消されていた。しかし紙を裏返して窓の光へ透かすと、筆圧によって残った文字が浮かび上がる。さらに転送許可欄には、銀色の蜜蝋で押された三輪の百合が残されていた。
ルシアンが息をのみ、窓際の秋薔薇から落ちた花びらが、帳簿の上へ音もなく着地した。三輪の百合は、王妃直属機関だけが使用を許された封印だった。アルテミシアは指先についたパイの細かな欠片を布巾で拭い、前総裁をまっすぐ見た。
「この転送を命じた方のお名前を、お答えください」
「知らん。封印を見れば、私に拒める命令ではなかったと分かるだろう」
「命令に従ったことと、記録を改ざんしたことは別の契約違反です」
前総裁は何も答えず、杖を引き寄せて総裁室を出ていった。床を打つ音は来たときより速く、廊下の角を曲がったところで一度だけ大きく乱れた。アルテミシアは追わせず、銀色の封印へ保全術式をかけると、新しい証拠袋へ収めた。
三杯目の紅茶は、また冷めていた。ルシアンが黙って四杯目を入れようとしたため、アルテミシアはティーポットの蓋へ手を置いた。これ以上同じ茶葉へ熱湯を注げば、さすがに苦くて飲めない。
「それは明日にしましょう。今夜は、この封印の使用記録を調べます」
「夕食を取ってからです。これは総裁命令でも譲りません」
「あなたが私へ命令できる契約はありませんが」
「では、新しく結びましょう。総裁が一日二食を取らなければ、側近会計官は帳簿を隠してよいという契約です」
アルテミシアは水差しの秋薔薇を眺めた。高く飛び出していた一本が傾き、隣の花へ寄りかかっている。役に立たない会話も、不格好な花も、食事を強要する側近も、以前の彼女の執務室にはなかった。
「条件を変更します。一日三食のうち、二食以上です」
「承知しました。最初の契約案件が食事とは、歴史に残りますね」
「歴史に残す必要はありません。王妃殿下の封印だけで十分です」
ルシアンの笑みが消え、二人は証拠袋を見下ろした。王国の六十日分の魔力は、事故でも、計算間違いでも、倉庫係の横流しでもなかった。国母と呼ばれる人物の命令によって、三年をかけて運び出されていたのだ。
窓の外では日が傾き、王宮の尖塔が赤い光を受けていた。やがて王都の魔導灯が一斉にともり、何も知らない人々は、いつもどおり夕食の支度を始める。アルテミシアはその光があと百二十日分しか保証されていないことを胸の内で数え、王妃直属機関への監査申請書を引き寄せた。
「国家予算の三割を消した方に、明日の予定を空けていただきましょう」




