第2話:資産凍結。供給停止を申請します
第2話:資産凍結。供給停止を申請します
夜の王都を、黒塗りの魔導馬車が静かに走っていた。
窓の外では石畳が濡れたように月光を反射し、白い街灯が淡く揺れている。遠くから鐘の音が響き、夜気には冬薔薇の香りが混じっていた。
アルテミシアは馬車の座席に深く腰掛け、窓辺へ視線を向けていた。
夜会用の藍色のドレスはまだ乱れていない。だが胸元を締める銀糸の刺繍が、長い夜の疲労をじわじわと肌へ沈めていた。
向かいに座る侍女のリナが、おそるおそる口を開く。
「お嬢様……本当に、よろしかったのですか?」
「何が?」
「婚約を……あのような形で」
アルテミシアはしばらく黙っていた。
車輪の振動が小さく身体を揺らす。
やがて彼女は静かに目を閉じた。
「むしろ、遅すぎました」
感情を押し殺した声だった。
「私は十六歳から、エヴァンズ伯爵家の赤字を埋め続けていました。領地税の補填、魔力炉の維持、農地結界の更新、使用人給与の肩代わり……」
リナが小さく息を呑む。
「ですがジュリアン様は、一度も帳簿を開かなかった」
窓ガラスへ映る自分の顔を見る。
冷たい顔だ、とアルテミシアは思った。
昔はもっと笑っていた気がする。
ジュリアンが褒めてくれるたび嬉しくて、眠る間も惜しんで勉強した。どうすれば伯爵家を立て直せるか、そればかり考えていた。
けれど。
「……疲れました」
ぽつりと漏れた声は、思ったよりも小さかった。
リナが目を潤ませる。
「お嬢様……」
その時、馬車がゆっくり止まった。
巨大な鉄門が重々しく開かれる。
ルーベルト公爵家。
王国最大の魔術資産を保有する名門。
白亜の屋敷は夜でも明るく、青白い魔導灯が庭園の噴水を照らしていた。冬の花々が風に揺れ、冷えた空気に水音が澄んで響く。
玄関へ降り立いた瞬間、執事たちが一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「旦那様が地下契約室にてお待ちです」
アルテミシアは頷く。
「すぐ向かいます」
地下へ続く長い螺旋階段は、ひんやりとしていた。
石壁には魔術灯が埋め込まれ、淡い青光が足元を照らしている。奥へ進むほど空気は静まり返り、紙とインク、それから古い魔力結晶の匂いが濃くなっていった。
最深部。
巨大な扉が音もなく開く。
地下契約室には無数の書架が並び、契約書が鎖付きで保管されていた。中央には長机。その奥で、銀髪の男が書類へ目を通している。
ルーベルト公爵――アルテミシアの父だった。
彼は娘を見るなり、静かにペンを置いた。
「……終わったか」
「はい、お父様」
アルテミシアは一礼する。
「婚約を破棄されました」
父は驚かなかった。
ただ深く息を吐く。
「そうか」
「よって、エヴァンズ伯爵家への全契約を終了いたします」
淡々とした宣言。
しかし部屋の空気がわずかに張り詰めた。
父は娘をじっと見つめる。
「後悔は?」
「ございません」
即答だった。
その返事に、公爵はゆっくり頷く。
「ならば始めよう」
ぱちん、と指を鳴らす。
すると控えていた契約管理官たちが一斉に動き出した。
「魔力結晶供給契約書を」
「共同資産口座、凍結準備」
「信用保証解除通知、各商会へ送信いたします」
羊皮紙が机へ積み上がる。
魔術印が次々と光り、空中へ青白い紋章が浮かび上がった。
アルテミシアは椅子へ座る。
侍女が温かな紅茶を差し出した。
湯気とともに林檎とシナモンの香りが立ち上る。
一口含むと、張り詰めていた神経が少しだけ緩んだ。
だが仕事は終わらない。
「エヴァンズ伯爵領、冬季魔導暖房への供給比率は?」
「七十三%です」
「停止」
「はい」
「共同農地投資は?」
「六区画あります」
「全撤退」
管理官が目を見開く。
「すべてですか?」
「ええ。契約終了後の損失責任を避けます」
さらさらと署名を重ねる。
インクの匂い。
紙をめくる音。
魔術式が発動する低い振動。
夜は静かに更けていった。
途中、料理人が軽食を運んできた。
焼き立ての白パン、茸のポタージュ、薄切りのローストビーフ。だがアルテミシアはほとんど手をつけない。
空腹より先に、心が冷えていた。
父がそんな娘を見て口を開く。
「少しは休め」
「まだです」
「……お前は昔から無理をする」
アルテミシアは苦く笑った。
「無理をしなければ、エヴァンズ伯爵家は三年前に破綻していました」
部屋が静まり返る。
父は目を伏せた。
「ジュリアンは何も知らなかったのだな」
「知ろうともしませんでした」
言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
好きだった。
本当に。
だから支えた。
笑ってほしかった。
認めてほしかった。
けれど最後に彼が見ていたのは、クロエの笑顔だけだった。
アルテミシアはそっとティーカップを置く。
かちゃり、と乾いた音が響いた。
「……これで終わりです」
父は静かに首を振る。
「違う」
「え?」
「始まるんだ」
その声には、長年政界を生き抜いた者だけが持つ重みがあった。
「エヴァンズ伯爵家は、明日の朝に理解する」
アルテミシアは黙った。
理解する。
何を?
自分たちがどれほど他者へ依存していたのかを。
夜明け前。
最後の契約印が押される。
瞬間、地下契約室の巨大な魔術陣が青白く発光した。
ゴオォ……と低い音が鳴り、接続されていた魔力回線が切断されていく。
まるで巨大な血管を閉じるように。
管理官が深く頭を下げた。
「すべての手続き、完了いたしました」
アルテミシアは静かに目を閉じる。
長かった。
本当に長かった。
もう、自分が支えなくていい。
その瞬間だった。
遠く離れたエヴァンズ伯爵家で。
屋敷の魔導時計が止まり、暖炉の魔術火が消え、廊下の灯りが一斉に落ちた。
「なっ!?」
「魔力炉が停止しています!」
「結界が消えたぞ!」
使用人たちの悲鳴が夜明け前の屋敷へ響き渡る。
冷え切った空気の中。
ジュリアンはまだ寝室で眠っていた。
自分たちの“文明”が、たった今終わったことも知らずに。




