第1話:婚約破棄ですね。では、契約を終了します
第1話:婚約破棄ですね。では、契約を終了します
王城の大広間は、眩いほどのシャンデリアの光に満ちていた。
磨き抜かれた白大理石の床には金色の灯りが幾重にも映り込み、楽団が奏でる優雅な弦の音色が高い天井へ溶けていく。香ばしく焼かれた仔羊肉の匂い、甘い果実酒の香り、貴婦人たちが纏う花の香油。熱気を帯びた空気の中で、貴族たちは笑い声を交わしながら夜会を楽しんでいた。
その中心で、アルテミシア・フォン・ルーベルトは静かにワイングラスを置いた。
深い藍色のドレスは月光を閉じ込めたような艶を持ち、銀糸の刺繍が袖口で繊細に輝いている。白金色の髪は一分の乱れもなく結い上げられ、その横顔は氷細工のように整っていた。
だが彼女の周囲だけ、妙に空気が冷えていた。
「――皆の者、聞いてほしい!」
突然、男の声が広間に響き渡る。
楽団の演奏が止まり、人々がざわめきながら視線を向けた。
赤い礼装に身を包んだジュリアン・ヴァレニウス伯爵令息が、堂々と階段上へ立っていた。その隣には、桃色のドレスを纏った愛らしい少女――クロエが寄り添っている。
クロエは不安そうにジュリアンの袖を握っていたが、その目の奥には隠しきれない期待が滲んでいた。
「アルテミシア!」
名を呼ばれても、アルテミシアは慌てない。
ただ静かに視線を向ける。
その紫水晶の瞳に感情はほとんど浮かんでいなかった。
「私は、お前との婚約を破棄する!」
一瞬。
会場から息を呑む音が広がった。
「まあ……」
「夜会の場で?」
「正気か?」
ひそひそ声が波のように揺れる。
ジュリアンは周囲の反応に酔ったように顎を上げた。
「お前のように数字ばかり気にする冷たい女など必要ない! 伯爵家を支えてきたつもりだろうが、私は息苦しかった!」
アルテミシアは黙って聞いている。
怒りも、悲しみも見せない。
その反応が気に入らなかったのか、ジュリアンはさらに声を荒げた。
「食事の予算、使用人の配置、魔力消費量、投資利益! 毎日毎日そんな話ばかりだ! 女ならもっと愛嬌を持て!」
クロエが遠慮がちに口を挟む。
「ジュリアン様……あまり強く言わなくても……」
「大丈夫だ、クロエ。君のように優しく温かな女性こそ、伯爵家には必要なんだ」
クロエは頬を染め、周囲から小さな感嘆が漏れた。
だがアルテミシアは、そこで初めて小さく瞬きをしただけだった。
「……承知いたしました」
静かな声。
よく通るのに、不思議と熱がない。
「では、本日付けで婚約および関連契約を終了いたします」
ジュリアンの笑みが一瞬止まった。
「……は?」
アルテミシアは近くの給仕へ視線を向ける。
「書類を」
「は、はい」
給仕は慌てながら革鞄を差し出した。
中から取り出されたのは、分厚い契約書だった。
上質な羊皮紙に細かな魔術文字が刻まれ、青白い光が淡く脈打っている。
それを見た瞬間、年配の貴族たちの顔色が変わった。
「まさか……」
「契約魔術付きか?」
アルテミシアは羽根ペンを手に取る。
インクの香りが静かに漂った。
「婚約締結時に取り交わした、資金援助契約、魔力供給契約、事業保全契約、ならびに共同資産運営契約。全項目を終了いたします」
ジュリアンが眉をひそめる。
「……待て。何を言っている?」
「契約終了です」
「そんなもの後で話せば――」
「いいえ」
アルテミシアはさらりと言った。
「婚約破棄ですので」
その一言に、会場の空気が張り詰めた。
カリ、とペン先が紙を滑る。
署名が完成した瞬間だった。
ぱきん。
乾いた音が響く。
「……っ?」
ジュリアンが自分の右手を見た。
はめていた銀の指輪――契約指輪から、淡い金色の光が消えていく。
まるで命の火が消えるように。
次の瞬間。
ぶわり、と大広間の魔導灯が揺らいだ。
「きゃっ!?」
「な、何だ!?」
ざわめきが広がる。
王城に張り巡らされている魔力流が、一瞬不安定になったのだ。
ジュリアンの顔から血の気が引いた。
「おい……なぜ魔力供給が……」
アルテミシアは静かに契約書を閉じる。
「ヴァレニウス伯爵家へ供給していたルーベルト家の魔力回線を停止しました」
「……は?」
「月間供給量、平均七十二万式。維持費、人件費、結界補助、魔導暖房、農地活性術式すべてを含みます」
ジュリアンはぽかんと口を開けた。
まるで理解できていない。
「な……何を言ってるんだ?」
「ですから、停止です」
アルテミシアは首を少し傾げる。
「婚約者ではなくなりましたので、支援継続の理由がございません」
会場がどよめいた。
「七十二万式だと……?」
「伯爵家の年間魔力消費量ではないか!」
「まさか全部ルーベルト家が……?」
ジュリアンが狼狽えてクロエを見る。
「クロエ、お前は知っていたか!?」
「え……? わ、私、そんな難しいこと……」
クロエは怯えたように首を振る。
アルテミシアはその様子を見つめながら、わずかに睫毛を伏せた。
幼い頃から。
ジュリアンは何も知らなかった。
誰が赤字を埋め、誰が魔力炉を維持し、誰が領地の飢饉を防いでいたのか。
説明しても興味を持たなかった。
だから、もういい。
「では失礼いたします」
アルテミシアは一礼する。
ドレスの裾が静かに揺れ、白薔薇の香りがふわりと残った。
その背筋はどこまでも真っ直ぐだった。
「ま、待てアルテミシア!」
ジュリアンが叫ぶ。
だが彼女は振り返らない。
高い扉が開き、夜風が入り込む。
月明かりが銀の髪を照らし、彼女の姿を青白く浮かび上がらせた。
そして扉が閉まる。
重い音が響いた瞬間。
大広間の魔導灯が、再び大きく明滅した。
ジュリアンはようやく、自分の指輪を握り締める。
冷たい。
ただの金属みたいに。
もう、何の光も宿していなかった。
けれど彼はまだ理解していなかった。
自分が失ったものが、婚約者ひとりでは済まないことを。




