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第10話:私の帳簿に、不要な項目は記載しません

第10話:私の帳簿に、不要な項目は記載しません


 王立魔導銀行中央塔、最上階。


 巨大な硝子窓の向こうには、冬の王都が一望できた。


 白い雪を被った屋根群。空を横切る輸送魔導艇。青白く輝く街路魔導灯。かつて財政難で停止寸前だった都市機能は、今では以前より滑らかに循環している。


 王都は生き返っていた。


 その中心にいるのが、アルテミシアだった。


「北部農地再建予算案、修正完了いたしました」


「確認します」


 総裁室には静かな緊張感が満ちている。


 天井まで届く書架には契約書と財務報告書が整然と並び、魔導計算盤が青白い光を流していた。暖炉では香木が静かに燃え、柑橘と白檀の香りが部屋へ漂っている。


 アルテミシアは執務机へ向かい、淡い灰青色のドレス姿で書類をめくっていた。


 以前より装飾は少ない。


 だがその代わり、纏う空気が変わった。


 迷いがない。


 紫水晶の瞳は真っ直ぐ数字を見据え、羽根ペンは一切止まらない。


「東部鉄道計画、利益回収予測を三%修正してください」


「承知しました」


「魔導炉更新予算は?」


「本日中に再提出されます」


「なら午後会議へ回します」


 側近たちが次々動く。


 誰も彼女を軽んじない。


 むしろ全員が、アルテミシアの判断を中心に動いていた。


 王立魔導銀行総裁。


 それが今の彼女の肩書きだった。


 机の上には昼食が用意されている。


 焼きたての白パン、魚介のクリーム煮、香草を散らした温野菜。湯気の立つスープからはバターの香りが漂っていた。


 だがアルテミシアは、まだ一口も手をつけていない。


「総裁、お食事だけでも」


 秘書官のリナが困ったように言う。


「冷めてしまいます」


「あと十分」


「またそう仰る……」


 呆れ半分の声に、アルテミシアは小さく笑った。


 昔なら考えられなかった。


 仕事中に、自然に笑うなんて。


 その時だった。


 扉がノックされる。


「失礼いたします」


 入ってきたのは王宮伝令官だった。


 黒い礼装に雪を散らしながら、一礼する。


「総裁閣下へ報告です」


「どうぞ」


 伝令官は淡々と羊皮紙を読み上げる。


「元エヴァンズ伯爵家嫡男、ジュリアン・エヴァンズですが、契約労働違反により北方第三炭鉱への正式移送が決定したとのことです」


 室内が静まる。


 リナが小さく顔を曇らせた。


 だがアルテミシアは、ペンを止めなかった。


 さらさら、と紙へ数字を書き込む音だけが響く。


「……そうですか」


 返答は、それだけだった。


 感情の揺れはない。


 怒りも。


 悲しみも。


 未練も。


 何一つ。


 伝令官は少し戸惑ったように瞬きをした。


「以上です」


「ご苦労様でした」


 扉が閉まる。


 暖炉の火が静かに揺れた。


 リナがそっと尋ねる。


「……本当に、何も思われないのですか?」


 アルテミシアは数秒だけ沈黙した。


 窓の外では雪が降っている。


 白く静かな世界。


 やがて彼女は、書類から視線を上げた。


「あの方の資産価値は、すでにゼロ以下です」


 静かな声だった。


「私の帳簿に、不要な項目は記載しません」


 その言葉は冷たいはずなのに、不思議と残酷には聞こえなかった。


 ただ事実を述べているだけ。


 それだけだった。


 リナは小さく息を吐く。


「……お強くなられましたね」


「いいえ」


 アルテミシアは微かに首を振る。


「ようやく正常な判断ができるようになっただけです」


 昔の自分は、情で赤字を埋め続けていた。


 愛情で損失を補填しようとしていた。


 だが契約とは、本来もっと冷静なものだ。


 支える価値があるか。


 未来へ利益を生むか。


 継続する意味があるか。


 それを見極めるのが、自分の役目だった。


 窓際へ立つ。


 王都が広がっている。


 雪景色の中を、人々が笑いながら行き交っていた。


 市場には新しい物流網で届いた果実が並び、停止寸前だった公共魔導炉は安定稼働を取り戻している。


 王国は変わり始めていた。


 数字が、人を救う。


 契約が、未来を守る。


 それを今のアルテミシアは知っている。


「総裁」


 別の秘書官が新たな書類束を抱えて入ってきた。


「西部海上輸送計画の予算案です」


「こちらへ」


 分厚い契約書が机へ置かれる。


 国家規模の大事業。


 かつて伯爵家ひとつの赤字に苦しんでいた頃とは、比べものにならない金額だった。


 だがアルテミシアは迷わない。


 ページを開き、数字を確認し、必要箇所へ印をつけていく。


 その横顔は美しかった。


 もう誰かに怯えていない。


 誰かの機嫌を窺ってもいない。


 自分の価値を、自分で理解している顔だった。


 アルテミシアは羽根ペンを置く。


 そして静かに微笑む。


「さて」


 王都を見下ろしながら、彼女は前を向いた。


「次の国家プロジェクト予算を組みましょう」


 冬空の向こうで、淡い陽光が雪雲を照らしていた。


 その光はまるで、新しい時代の始まりみたいに眩しかった。




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