第9話:あの時、手放さなければ
第9話:あの時、手放さなければ
冬の鉱山街は、灰色だった。
空も。
雪も。
人の顔も。
すべて煤けたような色をしている。
山肌を削って作られた炭鉱では、朝から鈍い鉄の音が響いていた。冷たい風に混じって石炭の粉塵が舞い、息を吸うたび喉の奥がざらつく。
「おい、新入り! 手が止まってるぞ!」
怒鳴り声と同時に、背中へ鞭が飛んだ。
バシッ、と乾いた音。
「っ……!」
ジュリアンは思わず膝をつく。
泥だらけの防寒着。
擦り切れた革手袋。
かつて高級仕立ての礼服しか着たことがなかった男は、今では煤と汗に塗れていた。
肩で息をしながら、重い石炭袋を持ち上げる。
指が痛い。
腰も痛い。
凍えるような寒さなのに、身体からは汗が流れていた。
「動け! 日給分働けないなら飯抜きだ!」
監督官が怒鳴る。
ジュリアンは唇を噛み締めた。
最初は逃げるつもりだった。
借金取りから。
差し押さえから。
契約違反の請求から。
だが魔導銀行のブラックリスト入りした人間を雇う場所など、まともな仕事には存在しなかった。
結局、行き着いた先がここだった。
契約炭鉱。
借金持ちや犯罪者が送り込まれる、王国最底辺の労働現場。
「……はぁ、っ……」
息が白い。
肺が焼けるみたいに苦しい。
かつて暖かな屋敷で、絹のシーツに包まれて眠っていた自分が、遠い昔の人間みたいだった。
昼休憩の鐘が鳴る。
労働者たちがぞろぞろ地上へ戻っていく。
ジュリアンもふらつきながら木箱へ腰を下ろした。
配られた昼食は、固い黒パンと塩気の強いスープだけ。
冷え切った金属皿からは、獣臭い湯気が立っていた。
「……まずい」
思わず呟く。
隣の老人が鼻で笑った。
「飯に文句言える立場かよ、坊ちゃん」
ジュリアンは黙る。
もう反論する気力もない。
指先はひび割れ、爪の間には黒い煤が入り込んでいた。
その時だった。
広場のざわめきが少し変わる。
「おい、王都ニュースだ」
「またあの女か?」
労働者たちが顔を上げる。
広場中央に設置された街頭魔導スクリーンが、青白く光り始めた。
王都の映像。
豪奢な赤絨毯。
白い大広間。
そして。
そこに立つ女を見た瞬間、ジュリアンの呼吸が止まった。
アルテミシアだった。
白銀のドレスを纏い、胸元には王家直属顧問の紋章が輝いている。髪は美しく結い上げられ、その姿は以前より遥かに洗練されていた。
国王が彼女へ勲章を授与している。
『王立魔導銀行再建の功績を称え、アルテミシア・ルーベルトへ第一級国家功労勲章を授与する』
拍手が響く。
王族。
大貴族。
将軍。
誰もが彼女へ敬意を向けていた。
ジュリアンは泥だらけのまま、呆然とスクリーンを見上げる。
別世界だった。
暖かな光。
豪華な衣装。
磨き抜かれた床。
香水と花の匂いが、画面越しに漂ってきそうなほど華やかだった。
「すげぇよなぁ」
近くの労働者が感心したように言う。
「王都じゃ“氷の会計姫”って呼ばれてるらしいぜ」
「国家予算の赤字半分消したんだろ?」
「化け物だよな」
ジュリアンの喉が震える。
知っている。
彼女がどれだけ働くか。
どれだけ努力するか。
誰よりも。
昔、夜更けまで帳簿と睨み合っていた姿を思い出す。
眠そうに目を擦りながら、それでも数字を追い続けていた。
自分はその横で、ただ文句を言った。
『数字ばかり気にする冷たい女』
あの言葉。
口にした瞬間の空気。
静かに契約書へ署名した横顔。
全部、鮮明に蘇る。
ジュリアンは泥に汚れた自分の手を見る。
かつて彼女は、この手を取ってくれた。
どんな赤字を抱えても。
どれだけ無能でも。
支えてくれていた。
なのに自分は。
「……あの時」
掠れた声が漏れる。
「あの時、あの一言さえ言わなければ……」
胸が痛い。
苦しい。
後悔が遅れて押し寄せてくる。
アルテミシアは冷たかったんじゃない。
必死だったのだ。
伯爵家を守るために。
自分を支えるために。
ずっと。
ずっと。
画面の中で、アルテミシアが静かに頭を下げる。
その紫水晶の瞳は真っ直ぐ前を見ていた。
もう後ろなんて見ていない。
当然だ。
彼女は前へ進んでいる。
国家を支える場所へ。
一方、自分は泥の中だ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
情けない。
本当に。
周囲では労働者たちが歓声を上げている。
『さすがアルテミシア様!』
『王国一の才女だな!』
その名前を聞くたび、胸が締め付けられる。
好きだった。
本当に。
だが愛されていたのは、自分の方だったのだ。
理解した時には、もう遅かった。
「おい、新入り!」
監督官の怒鳴り声が飛ぶ。
「休憩終わりだ! 戻れ!」
ジュリアンはゆっくり立ち上がる。
足元の雪解け泥が、ぐしゃりと音を立てた。
もう彼の隣に、アルテミシアはいない。
これから先も。
きっと、永遠に。




