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エピローグ おいしいものをおいしいねと食べられるのは至福の時

エピローグ おいしいものをおいしいねと食べられるのは至福の時


 春の陽射しが、ヴァルハルト公爵邸の大きな窓からやわらかく差し込んでいた。


 庭では白い花が風に揺れている。


 鳥のさえずりが遠くから聞こえ、厨房には朝から香ばしい匂いが満ちていた。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる音。


 煮込み鍋のぐつぐつという音。


 焼きたてのパンの甘い香り。


 エルサはふわりと湯気の立つ鍋を覗き込み、小さく笑った。


「……いい匂い」


 今日は特別な料理ではない。


 春野菜のスープ。


 胡桃入りのパン。


 卵焼き。


 少しだけ香草を加えた鶏肉の煮込み。


 どれも家庭で食べるような、素朴な料理ばかりだった。


 けれどエルサは、この時間が好きだった。


 誰かのために料理を作る時間。


 火の音を聞きながら、湯気に包まれる時間。


 それだけで胸が温かくなる。


「奥様〜!」


 ミレーユが慌てた声を上げる。


「パン焦げます!」


「きゃっ」


 エルサが慌ててオーブンを開けると、ふわりと香ばしい匂いが広がった。


 少し焼き色が濃い。


 けれど美味しそうだった。


「大丈夫そうですね」


「奥様、最近ちょっと天然ですよね」


「そ、そうでしょうか」


「旦那様絡むと特に」


 ミレーユがにやにや笑う。


 エルサの頬が一気に赤くなった。


「ミレーユ!」


「痛っ、叩かないでください!」


 厨房に笑い声が響く。


 その時だった。


「朝から騒がしいな」


 低い声。


 振り返ると、ギルバートが入口に立っていた。


 黒いシャツ姿のまま、腕を組んでこちらを見ている。


 最近は仕事前に必ず厨房へ顔を出すようになった。


 以前なら考えられないことだ。


「おはようございます、ギルバート様」


 エルサが笑うと、ギルバートの表情がふっと柔らかくなる。


「ああ、おはよう」


 その声はとても穏やかだった。


 ミレーユがこそこそ耳打ちする。


「旦那様、奥様いる時だけ顔違いますよね」


「ミレーユ」


「ひぃっ」


 ギルバートが睨むと、ミレーユは慌てて隠れた。


 だがそのやり取りに厨房がまた笑いに包まれる。


 エルサはその光景を見ながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。


 幸せだ。


 本当に。


 あれほど冷え切っていた屋敷が、今はこんなに温かい。


 ギルバートがエルサの隣へ来る。


「また無理をしていないか」


「してません」


「昨日も夜更かししただろう」


「パン生地の発酵を見ていただけです」


「それを夜更かしと言う」


 呆れたような声。


 けれどその目は優しい。


 エルサは思わず笑ってしまう。


「ギルバート様って、最近すごく心配性ですよね」


「誰のせいだ」


「ふふ」


 ギルバートは小さく息を吐く。


 その時、ぐう、と小さな音が響いた。


 沈黙。


 エルサが目を丸くする。


 ギルバートが顔をしかめた。


「……聞かなかったことにしろ」


「ふふふ」


「笑うな」


「だって」


 エルサは肩を揺らす。


「お腹が空くって、元気な証拠ですから」


 ギルバートは何か言い返そうとして、結局諦めたように息を吐いた。


「……早く食事にしろ」


「はい」


 食堂には春の光が満ちていた。


 長いテーブルへ料理が並ぶ。


 焼きたてのパン。


 湯気の立つスープ。


 柔らかな香草の匂い。


 以前のような豪華絢爛な晩餐ではない。


 けれど空気はずっと温かかった。


「いただきます」


 エルサが手を合わせる。


 ギルバートも静かに続いた。


「いただきます」


 その言葉を、この人が自然に言えるようになった。


 それだけで胸がいっぱいになる。


 ギルバートはスープを口へ運ぶ。


 春野菜の甘み。


 鶏出汁の優しい旨味。


 胡椒のわずかな刺激。


 温かい。


 身体だけじゃない。


 胸の奥までじんわり温まる。


「……美味い」


 ぽつりと呟く。


 エルサが嬉しそうに笑った。


「よかったです」


「このパンも美味しい」


「今日は胡桃を少し多めにしたんです」


「香ばしいな」


 そんな何気ない会話が、ギルバートには奇跡みたいだった。


 昔の自分なら考えられない。


 一人で無言で食事をしていた。


 味なんてどうでもよかった。


 食べることは、ただ生きるための作業だった。


 けれど今は違う。


 誰かと「美味しい」と言い合う時間が、こんなにも愛おしい。


 エルサがスープを飲みながら小さく笑う。


「おいしいものを、おいしいねって食べられるのって」


 柔らかな声だった。


「すごく幸せなことですね」


 ギルバートの手が止まる。


 春の光が彼女の髪を金色に透かしていた。


 湯気の向こうで笑うその姿は、まるで暖炉の火みたいに温かい。


 ギルバートは静かに目を細める。


「ああ」


 低い声が優しく響く。


「……至福の時だ」


 エルサは少し驚いたあと、ふわりと笑った。


「はい」


 窓の外では春風が花を揺らしている。


 厨房からはまた笑い声が聞こえてきた。


 温かな匂いに満ちた屋敷。


 誰かが笑って、誰かが「美味しい」と言う場所。


 それはきっと、どんな宝石より幸せな景色だった。


 ギルバートはそっとエルサの手を握る。


 温かい。


 失いたくない温もりだった。


 エルサも握り返す。


 二人の前には、湯気の立つ食卓。


 世界で一番、美味しい場所があった。



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