第11話 世界で一番美味しい食卓
第11話 世界で一番美味しい食卓
ヴァルハルト公爵邸へ戻った日、厨房はお祭り騒ぎだった。
「奥様が帰ってきたぞ!」
「パン追加だ、急げ!」
「ミレーユ泣くな、塩入る!」
「だ、だってぇ……!」
わあっと笑い声が広がる。
エルサは目を丸くしたまま立ち尽くしていた。
厨房には温かな湯気が満ちている。
焼きたてのパンの香り。
炒め玉ねぎの甘い匂い。
煮込みスープの湯気。
みんなが笑っている。
まるで家族みたいだった。
「お帰りなさいませ、奥様」
セドリックが深々と頭を下げる。
ミレーユは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま飛びついてきた。
「奥様ぁぁ……!」
「わ、ミレーユ」
「心配したんですよぉ……!」
エルサは思わず笑ってしまう。
「ごめんなさい」
「もうどこにも行かないでくださいね!」
「はい」
そう答えた瞬間、胸がじんわり熱くなった。
帰ってきた。
自分には帰る場所がある。
それがこんなにも幸せだなんて、昔は知らなかった。
その時だった。
「……騒がしいな」
低い声。
振り返ると、ギルバートが厨房の入口に立っていた。
料理人たちが一斉に背筋を伸ばす。
だが以前みたいな恐怖はない。
「旦那様!」
「奥様返してくれてありがとうございます!」
「違う、私が連れ戻された」
ギルバートが低く返すと、厨房に笑いが広がった。
その光景を見て、エルサはふっと目を細める。
変わった。
本当に。
あれほど冷え切っていた場所が、今はこんなに温かい。
ギルバートがエルサへ近づく。
「疲れていないか」
「大丈夫です」
「ちゃんと食べられるか」
「はい」
「寒くないか」
次々と確認してくる声に、厨房の空気がにやにやし始める。
ミレーユが小声で囁いた。
「旦那様、過保護すぎません?」
「聞こえてるぞ」
「ひぃっ」
だがギルバートは本気で怒っていなかった。
その横顔を見て、エルサは小さく笑う。
「ギルバート様」
「何だ」
「今日は、私に夕食を作らせてください」
ギルバートが少し目を見開く。
「……疲れているだろう」
「作りたいんです」
エルサは柔らかく笑った。
「みんなで食べたいので」
その言葉に、厨房の空気がふわりと緩む。
ギルバートはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
夕暮れ。
厨房は柔らかな茜色に染まっていた。
エルサは大鍋をゆっくり混ぜる。
今日の料理は豪華なものではない。
鶏肉と野菜の煮込み。
焼きたての丸パン。
卵料理。
春野菜のスープ。
どれも特別ではない家庭料理だった。
けれど。
誰かと囲む食卓には、それで十分だった。
「いい匂い……」
ミレーユが幸せそうに呟く。
「お腹空きました……」
「もう少しですよ」
エルサが笑う。
鍋から立つ湯気が頬を撫でた。
柔らかな匂い。
温かな空気。
胸がじんわり満たされる。
やがて大食堂へ料理が運ばれる。
長いテーブルへ並ぶ皿。
黄金色のスープ。
焼き目のついたパン。
湯気の立つ煮込み料理。
ギルバートは静かに席へ着いた。
向かいにはエルサがいる。
それだけで胸の奥が熱かった。
「どうぞ」
エルサが微笑む。
ギルバートはゆっくりスープを口へ運んだ。
優しい塩味。
鶏の旨味。
柔らかく煮えた野菜。
温かい。
身体の奥まで染み込むようだった。
「……美味い」
ぽつりと零れた声。
その瞬間。
ギルバートの視界が滲んだ。
「旦那様?」
ミレーユが慌てる。
だがギルバートは答えられなかった。
涙が止まらない。
熱い雫がぽたり、と皿へ落ちる。
「……ギルバート様」
エルサが驚いたように呼ぶ。
ギルバートは震える手で顔を覆った。
「こんな……」
声が掠れる。
「こんなものが、幸せだったのか……」
温かな食事。
誰かと囲む食卓。
「美味しい」と笑い合う時間。
そんな当たり前のものを、自分はずっと拒絶していた。
怖かったからだ。
失うのが。
愛することが。
けれどエルサは、諦めなかった。
冷たい自分へ何度も手を伸ばした。
床へスープを叩き落とされても。
拒絶されても。
笑ってくれた。
温め続けてくれた。
ギルバートはゆっくり顔を上げる。
エルサを真っ直ぐ見つめた。
「……エルサ」
「はい」
「君を愛さないと言った私を許してくれ」
食堂が静まり返る。
ギルバートの声は震えていた。
「一生をかけて、君を愛する」
その言葉に、エルサの目から涙が溢れた。
けれど彼女は泣きながら笑う。
「はい……!」
ギルバートはそっと彼女の手を握る。
温かい。
失いたくないと思った。
初めて心から。
「エルサ」
「はい」
「ありがとう」
その声はもう、氷の英雄のものではなかった。
一人の、不器用な男の声だった。
エルサは涙を拭いながら、小さく笑う。
「ギルバート様」
「何だ」
「幸せですか?」
ギルバートは一瞬目を見開き、それから静かに笑った。
「ああ」
その笑顔は、とても穏やかだった。
かつて幸福を知らなかった男が、今はこんなにも幸せそうに笑っている。
その姿を見て、エルサは胸の奥でそっと思う。
――これ以上の“ざまぁ”はありませんわ。
食堂には温かな灯りが満ちていた。
笑い声が響く。
湯気が揺れる。
誰かが「美味しい」と笑う。
それはきっと、どんな宝石より美しい光景だった。
春の夜は静かに更けていく。
温かな食卓を囲む二人を、優しく包み込みながら。




