第7話「埋まる席」
チャイムが鳴り終わっても、教室はすぐには軽くならなかった。
立ち上がる人はいるのに、そのぶん座り直す人もいて、椅子を引く音が何度も重なる。机の向きを少しだけ変える音、鞄を床に下ろす音、プリントを机の上に広げる乾いた音。帰る支度の気配より、もう少しここに残るつもりの音の方が、多かった。
いつもの顔もいるし、普段はもう少し早く帰るやつまで残っている。あちこちの席でノートが開いたままになっていて、筆箱の中身が机に出ている。誰かの消しゴムが転がって、机の脚に当たって止まった。
昼間より声は低いのに、教室の密度は少しだけ高かった。
僕は自分の席でノートを開いた。
隣では、木下さんがノートの端を押さえ直す。後ろの方で、井上が一度だけ手を止めて、また動き出す気配がした。
いつもと違って教室が少し詰まっていても、このあたりの落ち着いたリズムだけは変わらなくて、僕はそこにだけは変わらず安心した。
「葵」
少し離れたところから声がして、僕は顔を上げた。
佐藤さんがノートを持って立っている。周りを一度だけ見回してから、木下さんの前の席を指さした。
「ねえ、ここ、座っていい? 今日、なんか席、埋まってない?」
「いいんじゃない」
僕が言うと、近くの女子が「どうぞ」と返した。佐藤さんは「ありがと」と小さく言って椅子を引く。脚が床を擦って、すぐ止まる。
座ってから、佐藤さんはノートを机の上でくるりと回した。
「ね、残ってる人多くない?」
「多いね」
「だよね。ノートだけ置いてある席とかあってさ、どこまでが“いる”なんだろってなる」
佐藤さんが笑う。声は大きくない。
「で、これなんだけど……」
佐藤さんは自分のノートを開いて、指で一度だけ線をなぞった。
「どこまで見とけばいいんだっけ」
「……先生、最後になんか言ってたよね。たぶん、そこまで」
自分で言って、曖昧だなと思った。
「たぶん、か」
佐藤さんが笑う。責める感じじゃなくて、いつもの調子で。
「じゃあ、その“そこ”を当てて」
「ごめん。最後ちょっと、聞き逃した」
言ったあとで、正直だなと思う。
「佳乃ちゃん、聞いてた?」
隣で木下さんが顔を上げた。
「うん。……聞いてた」
木下さんはノートを少しだけ手前に引いて、欄外を指で示す。
小さな字で、短く。丸がひとつ付いている。急いで書いたみたいに少しだけ傾いているのに、読める。
「ここまでって言ってた」
「え、助かる」
佐藤さんが身をかがめて覗き込んで、すぐ顔を上げた。
「佳乃ちゃん、ちゃんと書いてるの、えらい」
「えらいっていうか……忘れるのが嫌だから」
「それ」
佐藤さんが僕の方を見る。目が合った瞬間、口元が上がる。
「葵も書いといたほうがいいんじゃない?…絶対忘れるでしょ」
「……否定できない」
木下さんも口元が少しゆるみ、同じような調子で言った。
「書いといた方がいいよ。あとで混ざる」
「……うん、ありがとう」
僕がそう言うと、木下さんは小さく息を吐いた。笑うほどじゃないのに、空気が丸くなる。
僕はノートを開いて、木下さんの欄外と同じように一行だけ書き足した。木下さんはノートを元の向きに戻して、また手元へ戻る。
たった一行。それだけで、机の上が少し片づいた気がした。
そこからしばらく、近くはまた静かになった。
静かといっても、誰もいないときの静けさじゃない。あちこちでページをめくる音が重なって、消しゴムを擦る音が混ざる。誰かが机の端でプリントを揃えて、角が揃う乾いた音がした。
列の間を通る足音が一度して、椅子が鳴る。窓から入る風でカーテンが少しだけ動き、布が擦れる。
後ろの扉が開いた。
「うわ、まだこんな残ってるのか」
岡田の声だった。入ってきた瞬間に、教室の空気がほんの少しだけほどける。
「声でか」
どこかで小さく返される。
「だって多いし」
岡田はそのまま言って、鞄を下ろす音、椅子を引く音を続けて鳴らした。
岡田が机の上を見て、一度だけ止まる。
「……あれ、ここ、誰か使ってる?」
席は空いてるのに、机の上にノートが開いてあった。
返事がない。
「こわ。置いてあるだけ?」
岡田が小声で言って、結局、ひとつずれた席に座り直した。椅子が床を擦る音が二回続く。
少しして、また扉が開いた。
「おつかれ〜。……今日多いな」
宮本の声だった。軽いのに、落ち着いてる。
「おつかれ、宮本」
佐藤さんが振り向いて言う。
「おつかれ」
宮本は短く返して、荷物を近くの席に置いた。岡田の真隣じゃなくて、一列ずれたあたり。近いけど固まらない。
宮本が教室を一度だけ見回して、僕の方を見た。
「水野、今日も残ってんの?」
「まぁね」
「マジで偉い。俺も見習わんとな~」
「口だけじゃない?」
「うるさい。……でも、今日多いな」
「多い」
「座るとこ、ちょい迷ったわ」
宮本はそれだけ言って席に落ち着き、ルーズリーフを出した。
その横で、岡田が筆箱を開けて「あれ」と言い、しばらく中を探る。定規がぶつかる硬い音がした。
「岡田君、音でかい」
背中の方から、井上の声が混ざった。
声は小さいのに、笑ってるのが分かる言い方だった。
岡田が「すみません」とわざとらしく囁いて、筆箱の口をそっと閉める。
宮本が「珍しく素直じゃん」と小さく言って、岡田が「うるせ」と笑いきらずに返す。
井上はそれ以上言わず、また手元に戻った。
また、それぞれが机に向いた。
列の間を抜けて席を変えるやつがいる。プリントを揃える音がして、消しゴムの粉が机の縁から落ちる。佐藤さんが前の席でプリントを一枚めくり、木下さんが隣でノートの端を押さえ直す。
後ろでは岡田が椅子を少し引いて、落ち着く位置を探すみたいに座り直している。宮本は何も言わずに手を動かし続ける。
ばらばらに動いているのに、散っている感じはしなかった。机が埋まっている日だけの、教室の重さがそこにあった。
僕は書きかけの行に戻って、もう一度、そこから手を動かす。
さっきまで決めきれなかったところを越えると、シャーペンの先だけが少し軽かった。




