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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第7話「埋まる席」

 チャイムが鳴り終わっても、教室はすぐには軽くならなかった。


 立ち上がる人はいるのに、そのぶん座り直す人もいて、椅子を引く音が何度も重なる。机の向きを少しだけ変える音、鞄を床に下ろす音、プリントを机の上に広げる乾いた音。帰る支度の気配より、もう少しここに残るつもりの音の方が、多かった。


 いつもの顔もいるし、普段はもう少し早く帰るやつまで残っている。あちこちの席でノートが開いたままになっていて、筆箱の中身が机に出ている。誰かの消しゴムが転がって、机の脚に当たって止まった。


 昼間より声は低いのに、教室の密度は少しだけ高かった。



 僕は自分の席でノートを開いた。


 隣では、木下さんがノートの端を押さえ直す。後ろの方で、井上が一度だけ手を止めて、また動き出す気配がした。


 いつもと違って教室が少し詰まっていても、このあたりの落ち着いたリズムだけは変わらなくて、僕はそこにだけは変わらず安心した。


「葵」


 少し離れたところから声がして、僕は顔を上げた。


 佐藤さんがノートを持って立っている。周りを一度だけ見回してから、木下さんの前の席を指さした。


「ねえ、ここ、座っていい? 今日、なんか席、埋まってない?」

「いいんじゃない」


 僕が言うと、近くの女子が「どうぞ」と返した。佐藤さんは「ありがと」と小さく言って椅子を引く。脚が床を擦って、すぐ止まる。


 座ってから、佐藤さんはノートを机の上でくるりと回した。


「ね、残ってる人多くない?」

「多いね」

「だよね。ノートだけ置いてある席とかあってさ、どこまでが“いる”なんだろってなる」


 佐藤さんが笑う。声は大きくない。


「で、これなんだけど……」


 佐藤さんは自分のノートを開いて、指で一度だけ線をなぞった。


「どこまで見とけばいいんだっけ」

「……先生、最後になんか言ってたよね。たぶん、そこまで」


 自分で言って、曖昧だなと思った。


「たぶん、か」


 佐藤さんが笑う。責める感じじゃなくて、いつもの調子で。


「じゃあ、その“そこ”を当てて」

「ごめん。最後ちょっと、聞き逃した」


 言ったあとで、正直だなと思う。


「佳乃ちゃん、聞いてた?」


 隣で木下さんが顔を上げた。


「うん。……聞いてた」


 木下さんはノートを少しだけ手前に引いて、欄外を指で示す。


 小さな字で、短く。丸がひとつ付いている。急いで書いたみたいに少しだけ傾いているのに、読める。


「ここまでって言ってた」

「え、助かる」


 佐藤さんが身をかがめて覗き込んで、すぐ顔を上げた。


「佳乃ちゃん、ちゃんと書いてるの、えらい」

「えらいっていうか……忘れるのが嫌だから」

「それ」


 佐藤さんが僕の方を見る。目が合った瞬間、口元が上がる。


「葵も書いといたほうがいいんじゃない?…絶対忘れるでしょ」

「……否定できない」


 木下さんも口元が少しゆるみ、同じような調子で言った。


「書いといた方がいいよ。あとで混ざる」

「……うん、ありがとう」


 僕がそう言うと、木下さんは小さく息を吐いた。笑うほどじゃないのに、空気が丸くなる。


 僕はノートを開いて、木下さんの欄外と同じように一行だけ書き足した。木下さんはノートを元の向きに戻して、また手元へ戻る。


 たった一行。それだけで、机の上が少し片づいた気がした。


 そこからしばらく、近くはまた静かになった。


 静かといっても、誰もいないときの静けさじゃない。あちこちでページをめくる音が重なって、消しゴムを擦る音が混ざる。誰かが机の端でプリントを揃えて、角が揃う乾いた音がした。


 列の間を通る足音が一度して、椅子が鳴る。窓から入る風でカーテンが少しだけ動き、布が擦れる。



 後ろの扉が開いた。


「うわ、まだこんな残ってるのか」


 岡田の声だった。入ってきた瞬間に、教室の空気がほんの少しだけほどける。


「声でか」


 どこかで小さく返される。


「だって多いし」


 岡田はそのまま言って、鞄を下ろす音、椅子を引く音を続けて鳴らした。


 岡田が机の上を見て、一度だけ止まる。


「……あれ、ここ、誰か使ってる?」


 席は空いてるのに、机の上にノートが開いてあった。


 返事がない。


「こわ。置いてあるだけ?」


 岡田が小声で言って、結局、ひとつずれた席に座り直した。椅子が床を擦る音が二回続く。



 少しして、また扉が開いた。


「おつかれ〜。……今日多いな」


 宮本の声だった。軽いのに、落ち着いてる。


「おつかれ、宮本」


 佐藤さんが振り向いて言う。


「おつかれ」


 宮本は短く返して、荷物を近くの席に置いた。岡田の真隣じゃなくて、一列ずれたあたり。近いけど固まらない。


 宮本が教室を一度だけ見回して、僕の方を見た。


「水野、今日も残ってんの?」

「まぁね」

「マジで偉い。俺も見習わんとな~」

「口だけじゃない?」

「うるさい。……でも、今日多いな」

「多い」

「座るとこ、ちょい迷ったわ」


 宮本はそれだけ言って席に落ち着き、ルーズリーフを出した。


 その横で、岡田が筆箱を開けて「あれ」と言い、しばらく中を探る。定規がぶつかる硬い音がした。


「岡田君、音でかい」


 背中の方から、井上の声が混ざった。


 声は小さいのに、笑ってるのが分かる言い方だった。


 岡田が「すみません」とわざとらしく囁いて、筆箱の口をそっと閉める。


 宮本が「珍しく素直じゃん」と小さく言って、岡田が「うるせ」と笑いきらずに返す。


 井上はそれ以上言わず、また手元に戻った。


 また、それぞれが机に向いた。


 列の間を抜けて席を変えるやつがいる。プリントを揃える音がして、消しゴムの粉が机の縁から落ちる。佐藤さんが前の席でプリントを一枚めくり、木下さんが隣でノートの端を押さえ直す。


 後ろでは岡田が椅子を少し引いて、落ち着く位置を探すみたいに座り直している。宮本は何も言わずに手を動かし続ける。


 ばらばらに動いているのに、散っている感じはしなかった。机が埋まっている日だけの、教室の重さがそこにあった。


 僕は書きかけの行に戻って、もう一度、そこから手を動かす。


 さっきまで決めきれなかったところを越えると、シャーペンの先だけが少し軽かった。

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