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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第6話「一言だけ」

 放課後に何人か残るのは、もういつも通りだった。


 チャイムが鳴って、帰るやつらが一度に動く。椅子がまとめて鳴って、鞄のファスナーが乾いた音を立てる。さっきまで同じ教室にいたはずなのに、数分すると、空気の重なり方だけが変わる。


 僕は鞄を机の横の取っ手に掛けて、プリントを広げた。


 隣の席でも、同じように紙の音がした。後ろの方では、井上が椅子を少し引く音がして、ページをめくる音が続く。時々、シャーペンが止まる。そういう音も、もう放課後のいつもの中に混ざっていた。


 プリントはもう半分を過ぎていた。


 最初の方は流れで書けたのに、中ほどを越えたあたりから急に手が鈍る。式の形は見えているのに、どこを先に触るのが一番ましなのか、そこだけ決まらない。


 シャーペンの先で余白を二回叩いて、僕はいったん手を止めた。


「葵」


 顔を上げると、佐藤さんがプリントを持って立っていた。


 呼び方が軽い。こっちが構える前に会話が始まる。そういう声の掛け方をする。


「これ、最初のほうからもう怪しいんだけど」

「最初なら大丈夫じゃないの」

「大丈夫じゃないから来たんだけど」


 言いながら、佐藤さんは僕の机の端にプリントを置いた。紙の角が少し折れていて、その折れ目だけ白く見える。


 僕は自分のプリントを少しずらして、空いたところで佐藤さんの問題を見る。


「ああ、ここか」

「分かった?」

「ここは、これを先に移したらいい」

「え、そっちから?」

「うん。そのほうが楽」


 僕が指で示すと、佐藤さんはすぐシャーペンを出した。机の端に身を寄せて、言われた通りに書いていく。芯が紙を擦る音が、近くで細く続く。


「こう?」

「そう。それで、次これ」

「……あー、はいはい」

「はいはい、って分かってないでしょ」

「分かってるし。今ちょうど分かったし」


 佐藤さんはそう言って、自分で書いた式を一回眺めて、それから小さく笑った。


「ほんとだ。こっちはいける」

「こっちは、って何」

「いや、まだ先あるから」


 僕はその言い方のまま、プリントの先を見る。中ほどまでは何とかなる。そこまでは、たぶん僕でも説明できる。


「じゃあ次、ここは?」

「そこも同じ。これまとめて、こっち移して」

「おっけー」


 佐藤さんは迷いなく書いて、途中で一度だけ止まった。首を少し傾けて、僕を見る。


「ねえ、これさ。じゃあ、この次は?」


 指した先は、僕がさっきから止まっていたあたりだった。


 僕は一度、自分のプリントに目を落とした。そこだけ、まだ白い。


「……実は、自分もそこで詰まっちゃってるんだよね」


 言うと、佐藤さんはすぐに変に笑ったりしなかった。


「あ、そうなんだ」

「うん。途中まではいいんだけど、その先がまだ決まってなくて」


 そう説明したところで、隣でページを押さえる音が止まった。


「……そこ、先にこっちまとめたほうがいいかも」


 小さく声がして、僕と佐藤さんがそろって横を見る。


 木下さんが、少しだけ遠慮するみたいにプリントへ視線を向けていた。急に会話の真ん中に入ってくる感じじゃなくて、聞こえてしまったから、そのまま置いておけなかった、みたいな入り方だった。


「このままだと、たぶん面倒になるから」


 木下さんはそう言って、自分のノートの端を引き寄せ、余白に短く式を書く。


「先にこれをまとめてから、こっちを入れたほうが楽だと思う」


 言いながら少しだけ眉が寄る。難しい顔というほどじゃなくて、考えるときに自然にそうなるだけみたいな、小さな動きだった。


「あ」


 思わず、僕の口から声が出た。


 頭の中で引っかかっていたものが、紙の上に出た途端にほどける。順番が見えると、さっきまで止まっていた場所が、急にただの続きになる。


「ほんとだ」


 佐藤さんがすぐに書き直し始める。さっきより手が速い。


 僕も自分のプリントを引き寄せて、今の式を追った。自分が止まっていた場所を、そのままなぞる。


「助かったー」


 書き終えた佐藤さんが、プリントを持ち上げて笑う。


「二人ともありがと」

「よかった」


 木下さんはそう言って、少しだけ口元をゆるめた。はっきり笑うほどじゃない。でも、さっきまでより空気がやわらぐのが分かるくらいには、ちゃんと表情が変わる。


 書いた式を一度だけ見直して、木下さんはほんの少し息を吐いた。それから、何事もなかったみたいにノートを元の位置へ戻す。


 佐藤さんはその顔を見て、すぐに言った。


「佳乃ちゃん、数学得意なんだね」

「そんなことないよ」


 木下さんは小さく首を振る。否定しているのに、言い方がきつくならない。少し困ったみたいな顔のまま、またノートに視線を落とす。


「いや、今の見たら分かるって」


 佐藤さんが笑いながらそう返す。その言い方が自然で、二人の間ではこういうやり取りがもう何度もあるんだろうな、と思う。


 僕は自分の手元を見たまま、少し遅れて口を開いた。


「……僕も助かった。そこ、ちょうど詰まってたから」


 言ってから、少しだけ隣を見る。


 ちゃんと向き直るほどじゃない。隣にいるから、そのくらいで足りる。


「ありがとう」


 木下さんは一度だけこっちを見た。


 それから、ほんの少しだけ迷うみたいに間があって、静かにうなずく。


「ううん」


 短い返事だった。


 でもさっきより少しだけ、声がやわらかく聞こえた。


 それで終わる。終わるのに、変に切れた感じはしない。


 佐藤さんは満足した顔で、自分の席へ戻っていった。戻る途中で、別の女子に何か言って、すぐに小さく笑う。その笑い声は広がりすぎず、紙をめくる音の中にそのまま混ざった。


 僕は自分のプリントを引き戻して、さっきまで止まっていた続きに手をつける。


 隣でも、また紙の音がした。


 教室の音は、さっきと同じだった。誰かの咳払いも、椅子のきしむ音も、窓の外から入ってくる運動部の声も、別に変わっていない。


 ただ、途中で止まっていたところを越えたあとだけ、シャーペンが少し軽かった。

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