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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第5話「学食へ」

 四時間目の終わりのチャイムが鳴るより少し早く、教室の中には細い音が増えていた。ノートを閉じる音が散って、椅子の脚が床を擦る気配がいくつか立つ。まだ先生の声が残っているのに、机の中を探る手だけが先に動く。


 硬貨が触れ合って、小さく鳴った。


 誰かが自分の上着のポケットを叩いて、確かめるみたいに指を入れる。机の上は最低限のまま、足元だけが整っていく。プリントは重ねられ、筆箱の蓋が閉まり、教科書の端が揃う。そこまでやって、あとは音を待つだけ、みたいな手つきになる。


 一方で、前の方の席は、まだ四時間目のままだった。誰も机の中に手を入れない。背中の角度も変わらない。そこだけ時間がゆっくりで、さっきと同じ姿勢のまま、次の音を待っている。


 僕も、手だけ先に動かしていた。財布を取り出して、小銭を指で数える。鞄に戻さないで、上着の内側のポケットに滑り込ませる。薄い革が制服に当たって、そこで動きが止まる。


 チャイムが鳴る。


 ほとんど同時に、椅子の脚が一斉に床を擦った。机と机の間をすり抜ける足音が速い。笑い声が短く跳ねて、廊下の方へ流れていく。走るわけじゃないのに、息だけが少し上がる。


 僕はプリントの端を揃えるふりをして、立ち上がるタイミングを合わせた。立つ、というより、もう立ってしまう。


「水野」


 呼ばれて顔を上げると、宮本が立っていた。声が低い。落ち着いているのに、昼休みの速さにちゃんと乗っている。


「行くぞ」

「うん」


 どこかを聞く余裕はない。もう、足がそっちを向いていた。


 岡田が横から顔を出した。


「水野、今日も遅いって」

「まだ出てないだろ」

「そういうとこ。出る前から遅いんだよ、お前は」


 言いながら、岡田はもう笑っていた。こらえきれずに先に漏れるみたいな笑い方だった。


 井上は少し遅れて出てきた。猫背のまま、歩幅が大きくない。それでも流れから置いていかれない位置にいる。


「水野、早いね」


 声は少し高めで、ボリュームは大きくないのに、ちゃんと届く。急かす感じはなくて、確認に近い。


「早くない」

「早いって」


 井上が小さく笑った。声は出ているのに、妙にやわらかい。笑うと、顔全体の輪郭まで少し緩む。


 廊下に出ると、同じ制服の背中が前へ前へ寄っていく。上靴が床を叩く音が、一本の川みたいに揃う。壁に貼られた紙の角はきれいで、誰も見ていないのに、みんな自然に同じ側へ寄る。


 階段を降りる途中で、別の流れと合流して、音が太くなった。肩が触れないように、誰かが半歩だけずれる。誰かの「先行け」が短く飛んで、別の「無理」がすぐ返る。言葉は残らない。動きだけが先に進む。


 食堂の前に着くと、匂いが先に来た。油と湯気と、洗剤みたいな匂いが混ざった昼の匂い。扉が開くたびに金属が小さく鳴って、冷えた空気が一瞬だけ頬に当たる。


 券売機の前には列ができていた。硬貨が落ちる音。ボタンを押す乾いた音。「ピッ」という短い電子音。紙の食券が吐き出される擦れる音。画面の写真はどれもそれなりに美味しそうで、どれも似て見える。


「水野、迷うなよ。後ろ詰まってる」


 岡田が言う。視線の端で、後ろの列が一段縮まる。


「迷ってない」

「迷ってるやつの言い方」


 井上がまた小さく笑う。


「水野、迷う顔してる」

「してない」

「してる」


 僕は一番普通そうな定食のボタンを押した。「ピッ」。それだけで、なぜか安心する。


 トレーを取る。薄く冷たくて、角が指に当たる。受け取り口の前は背中がずらっと並んでいて、似た肩幅が連続しているのを見ると、変に落ち着く。皿がトレーに置かれる音が一定の高さで鳴り続ける。


 宮本は先に動いていた。トレーを持ったまま食堂の奥のほうを見て、空いた場所を探している。動きは大きいのに雑じゃない。席を見つけると、迷いなく一歩で寄る。


 窓際の端のほうで、宮本が片手を上げた。


「こっち」


 その一言で、同じ制服の塊が少しだけ形を変える。椅子を引く音が連続して、机が軽く震える。トレーの角が机に触れる音。箸袋を破る音が、いくつも重なる。


 端のほうでは別の話で笑いが起き、中央では次の授業の話が始まり、反対側では小テストの範囲がどうこうと言い合っている。話題は一箇所に留まらない。隣にずれて、後ろにずれて、また戻ってくる。


「おい、今日のあれ、絶対出ないだろ」

「出るって。先生そういうの好きだもん」

「誰だよ先生の好み分かってんの」

「この前も似たようなの出たじゃん」

「いや、あれはノーカンだろ」


 笑いが起きる。誰かが水をこぼしかけて、向かい側から「おい危な」と声が飛ぶ。別のところでは、もう食べ終わりそうなやつが「早すぎだろ」と突っ込まれている。端から端まで同じ話をしているわけじゃないのに、ばらばらにも見えなかった。


 誰かが「水野、これ出ると思う?」と聞いてきた。


「えー、出るんじゃない? なんか出そう」


 そう言うと、すぐ近くで笑いが重なった。


「何だよ、その答え」

「雑すぎだろ」

「でも、ちょっと分かるわ」

「分かるのかよ」


 そのまま別の声がかぶさる。


「いや、でも今日の範囲広くなかった?」

「広かった。板書多かったし」

「ノート取ってないやつ、終わりじゃん」

「それ、誰のこと?」


 また別のところで笑いが起きる。隣のテーブルの音も混ざって、食堂全体がひとつのざわめきになる。その中に、うちのクラスの声だけが固まって聞こえる瞬間が、何度かあった。


 岡田はそういうとき、だいたい楽しそうだった。


「お前ら、さっきから先生のこと分かったふりしすぎだろ」


 そう言って笑いながら口を挟んで、自分の話に変えるわけでもなく、そのまままた元の流れに戻してしまう。冗談を入れて、少しだけ空気を軽くする。そのやり方が、妙にうまい。


 四人だけで食べている感じじゃなかった。近くの席に同じクラスのやつがいて、少し離れたところにもまたいて、誰かの一言で笑いがつながる。きれいな輪ではないのに、ちゃんと同じ場所に集まっている感じだけは、はっきりあった。


 宮本が味噌汁を一口飲んで、こっちを見る。口元がもう、少しにやついていた。


「水野、まだそんな残ってんのかよ」

「普通でしょ」

「普通じゃないって。お前、学食でまで家みたいに食うなよ」


 岡田がすぐ笑う。


「それな。水野だけ時間違うもん」

「うるさいな~」


 僕が返すと、宮本はにやにやしたまま、もう一度味噌汁に口をつけた。


「まあ、でも急げ。冷める」


 僕は箸を動かしながら、周りの声を聞いていた。どれも届くのに、どれも細かくは残らない。ざわめきがひとつの層になって、テーブルの上に薄く降りている。食器が触れる音と、椅子が引かれる音と、人の声が同じ高さで混ざる。


 食べ終わって、返却口へ向かう。皿が重なる音がして、金属と陶器が触れる音が跳ねる。水の流れる音。係の人の「はい、まいど~」が忙しいのに柔らかい。トレーを置いて手を離すと、指先にまだ少し温かさが残っていた。


 出口へ向かうとき、同じ制服の塊がまたひとつの流れになって動き始める。誰が先頭でもない。誰が引っ張っているわけでもない。けれど、崩れない。


 廊下に出ると、さっきより空気が冷たかった。油の匂いが制服のどこかに薄く残っている気がする。


 教室に戻ると、昼休みの音が違っていた。笑い声の質が少し柔らかい。机の上には弁当が広がっていて、箸の先が小さく動くたび、短い声が重なる。騒がしいわけじゃないのに、ちゃんと和んでいるのが分かる。


 さっきまでの食堂のざわめきとは、音の重なり方が違った。向こうは前へ前へ流れていく感じで、こっちは席に落ち着いて、同じ場所でゆっくり広がっていく。


 僕は自分の席に戻って椅子を引いた。椅子の脚が床を擦る音がして、その音が教室の音に混ざる。


 昼休みの時間は同じなのに、教室の中の空気はもう別の層になっている。


 気づけば僕は、あの流れに混ざって、戻ってきていた。

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