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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第8話「範囲」

 四時間目が終わる少し前から、僕の机の上は落ち着かなくなっていた。


 プリントが二枚、三枚、重なっている。端が揃っていない。揃えようとして、途中でやめる。シャーペンを握ったまま別の紙を開いて、何を探してるのか自分でも分からなくなる。


 こういうとき、僕はだいたい何かを忘れている。


 チャイムが鳴る。


 椅子が一斉に鳴って、教室がほどけた。昼休みのはずなのに、みんなの動きが少しだけ速い。速いのに、騒がしいだけじゃない。机の上の紙の匂いがまだ残っている。


「行くぞ、水野」


 宮本の声が明るい。


「学食。今日、券売機が混む日」

「予言者かよ」


 岡田が笑って、僕の机の横を通りざまに言う。


「水野、なんか忘れてそうな顔」

「どんな顔だよ」

「こんな顔」


 岡田はわざと目を見開いて、変に真面目な顔を作る。


「こいつ、ほんと……」


 井上が後ろでころっと笑って、「早く行こ」とだけ言った。


 僕は笑って流しながら、机の上を一回だけ見た。紙の角、消しゴムのカス、折れた芯。どれも昼休みとは関係ないのに、昼休みの前に残るものばかりだ。


 廊下へ出ると、同じクラスの男子がぞろぞろまとまって流れた。上靴が床を叩く音が連なって、階段のほうへ吸い込まれていく。笑い声も一緒に流れていく。


 食堂の前で、匂いがぶつかった。


 油と湯気と洗剤。扉が開くたびに熱い空気がこぼれて、金属が短く鳴る。胸の奥が「腹減った」に寄るのが分かる。


 券売機の列は太い。並んでる背中は、見慣れたやつばかりだ。声も、笑い方も、だいたい同じ種類で、だから余計にうるさい。


「範囲、どこからだっけ」


 列の真ん中あたりで声が上がると、返事が一斉に被さった。


「教科書のここからここまで」

「それ一番分かんねぇやつ」

「問題集、提出あるよな?」

「ある。ワーク。丸つけして出せって」

「丸つけって、解答冊子どこだよ」

「教室」

「教室にある前提で話すな」

「無かったらどうやって丸付けすんだよ」


 笑いが起きて、列が一歩だけ詰まる。硬貨が落ちて「わり」と拾う音がして、券売機の乾いたボタン音が続く。電子音が鳴って、紙の食券が擦れる。


 僕の番が来て、券売機の前に立つ。光ってるボタンが並んでいて、いつも通り一番無難そうな定食を押した。


「お、今日は迷わない」


 どこかから言われて、僕は肩をすくめた。


「迷ってない」

「迷ってない顔で迷ってる」

「うるさいな」


 受け取り口へ進む。トレーの金属が冷たい。皿が置かれる音。味噌汁の湯気。箸袋を破く音が重なって、返却口のほうで食器がぶつかる乾いた音が奥でずっと続いている。


 テーブルの空きに視線を走らせると、同じように首を伸ばしているやつが何人もいる。空きを見つけた瞬間に体がそっちへ動く。早い者勝ちみたいな顔で、でも誰も本気で怒らない。


 宮本が先に気づいて、軽く手を上げた。


「こっち」


 僕らはその合図に引っかかるみたいに流れ込む。椅子を引く音が続いて、机が少し揺れる。トレーが並ぶ音。皿の位置がだいたい同じで、妙に落ち着く。周りの席にもクラスの男子が散っていて、こっちの声が向こうに届いて、向こうの声がこっちに被さる距離だ。


 味噌汁の湯気が、机の上で薄く揺れている。椀を持ち上げるたびに、熱い匂いが鼻の奥に触れて、息が少し短くなる。箸が皿に当たる乾いた音がいくつも重なって、返却口のほうでは食器が鳴る音が途切れない。


「ねえ、英語さ、結局どこ出るんだろ」


 岡田が箸を動かしながら言うと、向こうの席からすぐ返ってくる。


「教科書の太字って言ってた」

「太字多すぎだろ」

「例文も見ろって言ってなかった?」

「“見ろ”は言う。“やれ”って言ったかは知らん」

「言葉遊びすんな」


 笑いが起きる。笑いに合わせて椅子が少し鳴って、机がわずかに震える。トレーの縁がカタッと音を立てる。


 宮本が箸を止めずに言う。


「板書な。黒板に二重線引いたとこ。あれ、だいたい出る」

「二重線って、どの教科も二重線じゃん」

「全部二重線に見えるんだよ、今」

「それはお前の目がやばい」


 井上が小さく笑って、机の端の箸袋を指で弾いた。紙が擦れる音がして、その音に合わせて誰かが「人口密度」と言い、向こうの席から「言うな」が飛ぶ。


 僕は味噌汁を飲む。熱さで一瞬だけ口の中が静かになる。静かになったぶん、岡田の声がはっきり聞こえた。


「水野、提出、今日ってマジ?」

「……提出? そんなのあったっけ?」


 自分でも驚くくらい素で出て、箸が一瞬だけ止まった。岡田が箸を止めて、目だけで笑う。


「出た」

「出たじゃねえよ」

「出るんだよ、水野はこういうのが」


 向こうの席からも、すぐに声が被さる。


「水野、今日までだぞ」

「先生、言ってた」

「黒板の端にちっちゃく」

「黒板の端、強すぎ」

「本当に言ってる?やってないんだけど……」


 言った瞬間、笑いが一段増えた。誰かが吹き出して、別の誰かが「今それ言うのすげえ」と笑う。僕も思わず笑ってしまって、悔しくて椀を置く。


「今それ言うの最高」

「こっちは全然最高じゃない」

「でも水野、そういうとこだよな」

「そういうとこって何」

「そういうとこ」


 岡田が、もう話を進めるみたいに箸を動かす。


「で、どうすんの」

「どうするって……」


 宮本がさらっと入る。声は軽いのに、言うことはぶれない。


「昼休み、職員室。短く言え」

「短く?」

「『すみません、忘れました』」

「……うわ」

「うわ、で終わるな」

「正論はいまやめて」

「正論が一番うるさい」


 井上が小さく笑って言う。


「水野、言うだけでいい」

「言うだけって言うな」

「言うだけ」


 僕が「うるさいな」と言うと、岡田が笑って、向こうの席でも笑いが起きた。


 そのまま別の声が滑り込む。


「数学は授業でやった番号って言ってたよな」

「番号、誰か覚えてる?」

「誰かしら覚えてるでしょ。…知らんけど」

「おい」

「真面目にやれ」


 井上が小さく言って、岡田が「それそれ」と頷いた。


「社会はさ、先生の雑談が怖いんだよな」

「雑談?」

「『これ出すかも』って笑いながら言うやつ」

「あれ、笑ってるのに本気っぽいの嫌」

「嫌って言うな。もう出る」

「出るって言うな」


 笑い。皿と箸の音。椅子の軋み。返却口の乾いた音。全部が同じ高さで鳴って、食堂のざわめきに沈む。


 僕は箸を動かしながら、教室に戻ったら机の引き出しを開けることだけを、いま決めた。引き出しを開けて、紙を探して、たぶん見つけて、それで終わらせない。


 終わらせない、って思うだけは簡単だ。


 食べ終わって返却口へ向かう。皿が重なる音が近くなる。水が流れる音。トレーを置いて手を離すと、指先に少し温かさが残った。


「水野、職員室な」


 岡田が言う。


「………」

「忘れてただろ」

「……いま思い出した」


 井上が小さく笑って、宮本は「よし」とだけ言った。


 教室へ戻る廊下は、食堂より静かだ。静かなのに、音が減った感じじゃなくて、音が細くなる感じがする。


 扉を開けると、紙を揃える音がした。シャーペンを持ち直す音。消しゴムのカスを払う音。


 僕は席に座って、机の上のプリントを一枚だけ指で押さえた。紙は薄いのに、そこだけ重い。


 袖のあたりに、さっきまでのうるささがまだ残っている。


 残っているうちに、範囲を一回だけ見ておこうと思った。ノートも、教科書も、問題集も。


 僕はプリントの端を少しだけ揃えて、シャーペンを持ち直した。

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