第54話「少し先の『いつも』」
だいぶお久しぶりになりました。
教室へ入ると、ほとんどの席が埋まっていた。
遅刻するような時間ではない。廊下を急いで歩いたわけでもなかった。それでも、教室の中では鞄を開ける音も、提出物を前へ送る声も、僕が来る前から既に出来上がっていた。
戸を閉めると、冷房の風が首筋へ触れた。外から持ち込んだ熱はすぐには引かず、シャツの背中だけが少し遅れて冷えていく。
「葵、今日も最後の方じゃん」
入って間もなく、佐藤さんの声が届いた。
佐藤さんは椅子の背へ片腕を掛け、机の上の紙に指を添えていた。木下さんは身体を後ろへ向け、その紙を覗き込んでいた。
「まだ来てない人もいるでしょ」
「いるけど、葵より後ってほとんどいないじゃん」
「じゃあ、最後ではない」
「最後の方って言ったの~」
佐藤さんが笑う。木下さんも紙から顔を上げた。
「でも、水野くんが来ると、そろそろHRだなって思う」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「分かりやすいっていうか、大体みんな揃った頃に来るし」
「それ、結局遅いって言われてる?」
「たぶん」
木下さんはそれだけ言って、まだ少し笑っていた。僕も笑いながら、二人の机の横まで歩いた。
「それ何?」
「ああ、これ?」
机の上の紙を指すと、佐藤さんが端を持ち上げた。上の方に弓道部と書かれ、その下には見学できる曜日と時間が手書きで並んでいる。
「昨日もらった」
「どうだった?」
「思ってたのと全然違った」
佐藤さんは紙を戻し、椅子の背に載せていた腕を下ろした。
「思ってたより、普通にみんな喋ってた」
「弓道って、もっと静かなもんじゃないの?」
「うちもそう思ってた。でも、誰かが弓を引き始めると、急に静かになるの」
「沙希ちゃん、その時も喋ってなかった?」
「喋ってないよ。それくらいできるから!」
佐藤さんの返事が少し速くなる。木下さんは笑いをこらえるように目を伏せたが、佐藤さんが話を続けると、すぐにまた顔を上げた。
「でも、弓を放った時だけ、やけに音が響いたんだよね」
「どんな?」
「うまく言えないけど、思ってたより近かった」
佐藤さんは右手の指を軽く曲げ、空中で何かを離すように動かした。
「その時だけは静かだったから、音だけ残る感じで。びっくりした」
佐藤さんは右手を机の上へ戻したが、軽く曲げられた指先だけは、すぐにはほどけなかった。教室の中では、誰かが椅子を引き、窓際でページがめくられている。どの音も次の音へ紛れていく。
「宮本は?」
僕が聞くと、佐藤さんはすぐに頷いた。
「いたよ。教室にいる時より、なんかノリよかった」
「部活中?」
「うん。先輩とも結構喋ってたし、思ってたよりはっちゃけてた」
「宮本、部活だとそんな感じなんだ」
「水野くんたちといる時も、結構ふざけてない?」
木下さんがこちらを見る。
「まぁ、結構ふざけるね。さらっと変なこと言うし」
「そうそう。昨日もそんな感じだった」
「じゃあ、いつも通りじゃん」
「教室よりちょっとテンション高かったけどね」
佐藤さんが笑い、木下さんも小さく口元を緩めた。
「また行くの?」
木下さんが紙の下の方へ目を向ける。そこには、小さな丸が一つついていた。
「まだ決めてない」
「でも、ここ」
「それは一応」
「じゃあ行くじゃん」
「葵は黙ってて」
佐藤さんが紙を押さえるように手を置き、丸をつけた日付の端が指の下へ半分ほど隠れた。
「嫌ではなかったんだ」
「うん」
木下さんの言葉には、佐藤さんもすぐに頷いた。
「水野くんは、部活とか見に行かないの?」
木下さんがこちらを向いた。
「今から?」
「そうじゃなくて」
「分かってるよ」
「ほんとに?」
「流石に分かるよ」
木下さんが少し笑う。
「でも、あんまり興味なさそう」
「決めつけてない?」
「違う?」
「違わないけど……」
「やっぱり」
得意そうに言うわけでもなく、木下さんは紙の端を佐藤さんの方へ戻した。
僕はまだ二人の机の横に立っていた。佐藤さんへ向けられていた木下さんの顔が、話の途中で何度かこちらを向いた。そのたびに言葉を返しているうちに、肩に掛けた鞄のことを忘れていた。
「葵、鞄置かなくていいの?」
「あ」
肩に掛けたままだった鞄が、言われた途端に重くなった。
「忘れてた」
「また最後になるよ」
「もう教室にはいるから」
「席に着くまでが登校じゃない?」
木下さんが言う。
「そんなルールあった?」
「今作った」
「木下さんがそういうこと言うんだ」
「たまには」
返事と一緒に、木下さんの目元が仄かに緩んだ。
「じゃあ守らなくてもいい?」
「作ったばっかりなのに?」
「正式な校則じゃないし」
「そういうところ」
「何が?」
「別に」
木下さんは微笑んだまま、佐藤さんの方へ顔を戻した。
僕も笑いながら、自席へ向かった。
二人の机から離れると、話し声はすぐ背中側へ移った。佐藤さんが何かを言い、木下さんが短く返す。途中から別の声と重なって、内容までは聞こえなくなる。振り返ればまだ話へ戻れたと思うが、僕はそのまま自分の席まで歩いた。
鞄を机の横へ掛け、口を開く。教科書の角に引っかかっていたノートを指で押し戻してから、筆箱を取り出した。
窓際へ目を向けると、井上は自分の席で、開いていない教科書の上へ片手を置いていた。ここから声を掛けるには少し遠い。僕は筆箱を机へ置いたまま、机の間を抜けて井上の席まで寄った。
「おはよ」
「遅いな」
近づいてきた僕を見て、井上が言った。
「遅刻はしてない」
「誰も遅刻とは言ってない」
「佐藤さんも同じこと言ってた」
「みんな思ってるってことじゃない?」
井上はそう言い、教科書を少し横へずらした。
「昨日どうだった?」
「何が?」
「ボードゲーム部」
「あぁ」
井上は椅子の背へ少し身体を預けた。
「負けた」
「見学だけじゃなかったの?」
「見るだけのつもりだったけど、一人足りないって言われた」
「それでやったんだ」
「断る理由もなかったし」
知らない教室の入口で少し立ち止まり、それでも空いた椅子を示されれば座る井上の姿は、なんとなく想像できた。
「何のゲーム?」
「名前忘れた」
「やったのに?」
「説明聞いてる途中で始まったから」
「よくそれでやったな」
「向こうが分からなくてもいいって言ったし」
井上は机の端を指で一度叩いた。
「最後までよく分からんかった」
「で、負けたと」
「そう」
「楽しかった?」
「分からん」
そこまで答えてから、井上は少しだけ口元を動かした。
「でも、途中で一回だけ、もう少しだった」
「何が?」
「勝てそうだった」
「ルール分かってないのに?」
「そこは分かった」
井上の声に、ほんの少しだけ力が入った。
「じゃあ、また行くんだ」
「決めてない」
「でも、もう一回やったら勝てそうなんでしょ」
「分からん」
「さっき言ってたじゃん」
「もう少しだっただけ」
井上は教科書の表紙へ視線を戻した。
「負けたままなのが嫌なん?」
「別に、そこまでじゃない」
「じゃあ行かない?」
「それも決めてない」
今度は僕の方が笑った。
「佐藤さんと同じだな」
「誰が?」
「何でもない」
井上は何かを思い出すように、教科書の同じ場所を、もう一度指で軽く叩いた。
教室の前の戸が開き、先生が出席簿を持って入ってきた。僕は井上の机を離れ、机の間を抜けて自席へ戻った。
話していた生徒たちは、一度に黙るわけではなかった。途中だった言葉を短く終わらせ、椅子を引き、机の上を整える音が重なる。僕も教科書とノートを出した。
左側から、佐藤さんの笑い声が小さく聞こえた。そのすぐ後に木下さんの声も重なったが、言葉までは分からなかった。
僕は振り返らず、ノートを開いた。
さっきの会話に、言い直したい言葉は残っていなかった。鞄を下ろしたあとになって、二人のところで話していた時間が、思っていたより長かったことに気づいた。
先生が出席簿を開く。最初の名前が呼ばれ、前の席から短い返事が上がった。
僕は日付を書き、次の名前を待った。




