第55話「まだない店の音」
終礼が終わると、教室はゆっくりと別の向きへほどけていった。
部活へ向かう何人かは鞄を持って廊下へ出ていくけれど、残った人の方がずっと多い。教科書を仕舞った机には、代わりにファイルや厚紙が出され、椅子の向きも前から横へ変わっていく。九月に入ってまだ数日なのに、この切り替わりにも少し慣れてきていた。
僕は井上と杉浦の近くで、昼間に書き足したメモを見直していた。機械のことや氷のことは相変わらず途中で、杉浦が紙の端を指で押さえながら何か言いかけた時、教室の引き戸が開く。
廊下から戻ってきた西野さんは、両腕で段ボール箱を抱えていた。足元を確かめるように机の間を抜け、そのまま窓際へ向かっていく。近くにいた藤森が机の上のファイルを寄せ、箱一つ分の場所を空けた。
「ここ置けるよ」
「ありがとう、藤森くん」
箱が机に収まると、西野さんは小さく息をついた。岡田もすぐ側にいたけれど、覗き込むより先に西野さんの手元を見ている。
「今日持ってきたん?」
「うん。全部じゃないけど、何個かだけ」
「カップ?」
「カップとソーサー。トレーもあるよ」
「トレーは?」
「もう一回取ってくる」
そう言って、西野さんは箱を抱えていた腕を軽く振ってから教室を出ていく。
僕の隣で、井上も窓際へ顔を向けていた。
「水野、あれ当日使うん?」
「候補じゃない?」
「家の?」
「西野さん家の」
「へえ」
それ以上は続かず、井上はまた手元へ目を戻す。僕も紙へ視線を落としたものの、さっき置かれた箱が視界の端に引っかかっていた。
少しして西野さんが戻ってくる。今度は、重ねたトレーを入れた厚手の紙袋を両手で抱えていて、窓際まで運ぶと箱の隣へ置いた。
「藤森くん、これちょっと支えてもらっていい?」
「うん」
藤森が紙袋を支え、西野さんが中から重ねたトレーを取り出す。岡田は、その様子を横から見ていた。
「結構あるな」
「今日は少しだけだよ」
「これで少し?」
「家にはもうちょっとあるから」
「マジで?」
「うん。お母さんが使うから」
僕も近くまで行くと、箱の中には一組ずつ包まれたカップとソーサーが動かないように収まっていた。西野さんが上から一つ取り出して紙をほどく。窓から差す光を、ソーサーの縁が細く返した。カップの縁や表面には細かな意匠が入っていて、何が描かれているのかまでは僕には分からなかったけれど、ソーサーと揃えて机に置かれると、それだけで少し余所行きの感じがした。
「……きれいだな」
口にしてから、もう少し言い方があったような気もした。
西野さんはカップを見て、それから僕の方へ顔を向ける。
「ほんと?よかった~」
「いや、俺が言うのもなんだけど」
「ふふ、でも使うの水野くんたちでしょ?」
「まあ、そうだけど」
その横から岡田が身を寄せる。
「これ、普通に店で出てきても分からんくない?」
「岡田くん、それ褒めてる?」
「めっちゃ褒めてる」
「ならよかった」
西野さんの声の端だけが、少し柔らかくなる。
藤森が別の包みへ目を向けた。
「ソーサーも全部セット?」
「うーん、たぶん。家でもう一回見てみるね」
その時、近くにいた女子がカップを覗き込んだ。
「これ、机に並べてみたい」
「並べる?」
「うん。メニューと一緒に」
その女子が少し離れた机へ声を掛ける。すぐに返事が来たわけではないけれど、向こうで紙を見ていた二、三人がこちらへ顔を向け、その中に木下さんもいた。
「佳乃ちゃん、これあっちで使ってもいい?」
「うん。その紙なら大丈夫」
その女子が折られた紙を一枚持ってくる。木下さんも少し遅れてこちらまで来ると、カップと紙の両方を見比べた。
「これ、思ってたより雰囲気合うね」
「ね。もうちょっと浮くかと思ってた」
そう言いながら、空いている机へ卓上メニューを置く。その横へ西野さんがカップとソーサーを移し、少し離れたところから眺めた。
岡田が椅子を引く。
「座った方が分かりやすくない?」
「岡田くん座りたいだけじゃない?」
「それもある」
「素直」
西野さんの声に、周囲から小さな笑いが混ざる。
岡田はそのまま腰を下ろし、卓上メニューを手に取った。紙を開いて一度中を見る。
「まだ全部載ってないじゃん」
「試作だから」
「じゃあ何頼めばいいん?」
「今は何も頼まなくていいよ」
木下さんの返しに、岡田がメニューの上から顔を出した。
「客に冷たくない?」
「まだ客じゃないでしょ」
「座ってるのに」
「まぁ岡田だし」
近くの女子が言うと、岡田は笑いながら言い返し、メニューを戻した。
やっていること自体はくだらない。それでも、カップを置いた机に誰かが座り、手元の紙を開いているだけで、いつもの机なのにどこか新鮮な気がした。
「トレーも使ってみる?」
西野さんが隣の机を見た。
「うん、お願い」
木下さんが紙を手元へ戻す。
僕は重ねてあったトレーの一枚を取った。ソーサーを置き、その上にカップを載せると、カップの底が触れて小さく音がした。ノートを代わりにして歩いた時とは違い、今度は本当に落とせないものが乗っている。腕の位置を考えるより先に、身体の方に少し力が入った。
「水野、それ持つん?」
井上が少し離れたところから言う。
「ちょっとだけ」
「顔固」
「うるさい」
「まだ何も入ってないのに」
「だからって落としていいわけじゃないだろ」
「それはそう」
井上は短く笑って、また自分のところへ戻っていく。
僕も机の間へ出た。今はまだ普段の机の並びに近い。それでも、あちこちで人が立ったり、紙を持って移動したりしているから、真っ直ぐ歩けるわけではなかった。
途中で女子二人が横切りそうになり、咄嗟に身体をずらす。向こうも同時に身を引いた。
「ごめん水野くん!」
「大丈夫」
トレーの上でカップがかすかに鳴った。
岡田のいる机まで着き、ソーサーごとカップを下ろす。
「お待たせしました」
「お、店員っぽい」
「空だけどな」
「そこは気持ちで」
「どういう気持ちだよ」
岡田がカップへ手を伸ばすふりをする。その隣で木下さんが卓上メニューを少し寄せた。
「ここなら置きやすそう」
「うん」
誰が決めたわけでもない。カップを置けば紙を避け、紙を手に取れば空きができる。その度に、机の上では新しい表情を浮かべる。
「こっちも一回やってみない?」
別の机から声が飛んだ。
西野さんがそちらを見る。
「うん。ちょっと待ってね」
もう一組のカップを出し始めると、藤森がソーサーを受け取り、そのまま声のした方へ持っていく。トレーも一枚そちらへ回り、さっきまで一つの机に集まっていた人たちも、自然に二つの机へ分かれていった。
教室の他の場所でも、別の準備は続いている。黒板の近くでは厚紙を押さえている人がいて、廊下へ出ていく部活組の声も時々重なる。誰かが椅子を動かし、別の誰かが呼ばれて机を離れる。その間を、空のカップを載せたトレーが通っていく。
「あ、私こっち通る感じじゃない?」
今度は佐藤さんの声だった。
いつの間にか近くまで来ていて、空のトレーを片手に持っている。河田もその後ろから覗き込んだ。
「じゃあ俺客やる」
「岡田がいるじゃん」
「客一人しか来ない店なん?」
「そういう話じゃないでしょ」
佐藤さんが笑いながら河田の脇を抜ける。河田は何か言い返しかけたものの、向こうから来た女子とぶつかりそうになって一度身体を引いた。
「あ、これ人多いと普通に邪魔になるな」
「河田が?」
「俺じゃなくて人が!」
周囲から笑いがこぼれる。
そのまま佐藤さんは机の間を抜け、カップの置かれた方へ歩いていった。途中で誰かに声を掛けられ、一度止まり、空いている側から回り直す。トレーを持っているから特別な動きをしているようにも見えるし、普段の放課後と大して変わらないようにも見えた。
僕は窓際の机に手をついたまま、その流れを追った。
教室へ人が入る。空いている席を探す。机の上のメニューを開いて、誰かを呼ぶ。注文を聞く人が間を抜け、少しして飲み物が運ばれてくる。
今いるのは全員知っている顔で、カップの中身も空のままだった。それでも、人が動く順番だけは、さっきまで紙の上で考えていたものよりずっと近かった。
「水野くん」
西野さんに呼ばれて視線を戻す。
「これ、もう一個そっちに置く?」
「あ、うん。俺持つよ」
「大丈夫?」
「さっきよりは」
トレーを受け取ると、西野さんが少し笑った。
「じゃあお願い」
今度は最初ほど腕に力が入らなかった。机の間へ出る前に、横切る人が通り過ぎるのを待ち、空いたところから歩き始める。途中で岡田が何か言ったけれど、別の声と重なってよく聞き取れない。
木下さんの近くまで行くと、別の女子が卓上メニューを開いたままこちらを見る。
「そこ置いて大丈夫」
「了解」
カップを下ろす。
「ありがとうございます」
「まだ何も入ってないけどね」
「こういうのは気分だけでもいいの!」
そう言って笑い、それにつられるように木下さんの口角も上がる。
僕は空になったトレーを持って窓際へ戻る。
箱の中は、出した分だけ少し隙間ができていた。西野さんは、藤森と岡田のそばで紙を畳んでいた。
「家にある分、数だけもう一回見てくるね」
「トレーも?」
「うん。一緒に」
「助かる」
岡田はそう言って、出してあるカップの方を見る。
「これだけ使えそうなら、買う数も結構変わりそうだな」
「その辺は分かってからでいいんじゃない?」
「まあ、そうか」
少しずつ部活へ向かう人が増えて、教室の中の声も少なくなっていく。それでも、さっきカップを置いた机ではまだ二人がメニューを見ていて、佐藤さんは河田と何か言い合いながらトレーを返しに来るところだった。
「水野」
後ろから井上に呼ばれる。
「何?」
「氷の話、どこまで進んだっけ」
「そこまだ途中」
「じゃ、続きやろ」
「はいはい」
トレーを西野さんの机へ置き、僕は井上たちのところへ戻った。
さっきまで見ていた紙をもう一度開く。杉浦が途中の行を指し、井上がその横から何か言う。窓際では包み紙が擦れる音がして、少し離れた机からはまだ「いらっしゃいませ」が聞こえていた。
僕はペンを持ち直した。
紙へ目を落としてからも、トレーの上でカップとソーサーが触れた、あの乾いた音だけはしばらく消えなかった。
前回の更新から、気づけば一か月以上空いていました。
その間、地元の親友から結婚の報告を受けたりして、少しだけ書く気が戻ってきました。
またゆっくり更新していきます。




