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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第53話「半歩の隣」

 机の列は、元に戻っていた。


 斜めに向いていた机も、椅子の背が通路にはみ出していた場所も、ぱっと見ただけではもう分からない。さっきまで人が通れるかどうかを見ていた隙間は、元の並びの中に紛れていた。


 僕は自分の席の横に立ったまま、椅子の背に手を置いていた。戻った机は、いつもと同じ場所にあるはずなのに、見え方だけがほんの少し違っている。机そのものが変わったわけではない。けれど、さっきまでそこにあった細い通り道が、目の奥に残っていた。


 木下さんは、自分の机の横で片づける手を止めていた。伏せた目元と閉じた口元だけが、いつもより静かに見えた。


 教室には、まだ何人か残っていた。机を動かす重い音はもうほとんどなくて、代わりに鞄の金具や、椅子を入れる短い音が耳に残る。窓の外からはグラウンドの掛け声が上がり、廊下の方では足音が近づいて、また遠ざかった。冷房の音だけが、天井の方で変わらず続いていた。


 佐藤さんが、木下さんの机に近づいた。机の上へ視線だけ落とした。


「佳乃ちゃん、これ、もうしまう?」

「…ううん。もう少しだけ置いとく」

「そっか」


 佐藤さんは、それ以上机の上を覗き込まなかった。さっきノートを持って歩いていたときより、声だけは明るかった。木下さんの返事は、その明るさに追いつくまで少しかかった。


「うち、このあと弓道部見てくるね」

「弓道部?」

「見学だけ。宮本が、一回見に来ればって」

「今日?」

「うん。見るだけならいつでもいいって」


 木下さんはそこで少し顔を上げた。机に置いていた指先が、ほんの少しだけ動く。


「沙希ちゃん、見学行くんだ」

「うん。ちょっとだけ」

「緊張する?」

「ちょっとする」

「沙希ちゃんでも?」

「佳乃ちゃん、今ちょっと失礼だったよね」

「たぶん」


 佐藤さんが笑った。木下さんも口元だけを少し動かした。笑いきらないまま、目元の力だけがほどけた。


 佐藤さんは入口の方を見て、鞄を肩にかけ直した。


「じゃあ行ってくる。葵、また明日ね」

「うん。また明日」

「佳乃ちゃんも、また明日」

「うん。またね」


 佐藤さんは片手を上げて、教室を出ていった。声はすぐに廊下の音に混ざった。佐藤さんの声がなくなると、木下さんの机のあたりだけに、冷房の音が戻ってきた。


 井上は、自分の席の近くで鞄にプリントを挟んでいた。一度顔を上げてから、ようやく鞄を肩にかける。


「俺も行くわ」

「どこに?」

「ボドゲ部。見学に」

「入るの?」

「まだ分からん。見るだけ」

「井上っぽいな」

「褒めてんの、それ」


 言い返す前に、井上は椅子を机の下へ入れた。短い音がして、井上の足音は廊下の声に紛れていった。


 しばらくして、黒板の近くで続いていた声も途切れた。椅子を引く音が一つして、戸口の方で「また明日」と聞こえた。その返事は、もう廊下の方から聞こえた。


 僕は椅子の背に置いていた手を離した。


 木下さんの机の上だけは、未だに戻りきっていなかった。紙の端を押さえる木下さんの指は、動かないままだった。


 廊下の足音が遠ざかる。


 いつの間にか、僕と木下さんだけが残っていた。


 木下さんは、まだ机の上を見ていた。僕は声をかけないまま、椅子の背から離した手を下ろしきれずにいた。


 その手を、僕は結局、机の端に置いた。


 指先に天板の冷たさが少し残る。木下さんはまだ動かないでいた。何かを考えているというより、考え始める場所を探しているみたいだった。


 窓から差し込む西日が、木下さんの頬の端にかかっていた。伏せた目元の影が少し濃くなって、閉じた口元だけがはっきり見える。その横顔だけが、さっきの時間に少し残されているように見えた。


「……今日、やってみてよかったんじゃない?」

「よかった?」

「うん。やってなかったら、分からないままだったし」

「……水野くんは、そう思う?」

「思う」


 すぐに返したあとで、僕の声だけが少し残った。


 上手い言い方だったかどうかは分からない。よかった、という言葉は少し明るすぎる気もした。成功したわけでも、上手く進んだわけでもない。ただ、難しいことは分かった。分からないまま進めるよりは、たぶんずっとよかった。


 木下さんは、まだこちらを見なかった。手元で止まっていた指が、ほんの少しだけ動く。何かを決めた動きではなく、触れていたことに遅れて気づいたみたいな動きだった。


「最初は、いけると思ったんだけど…」

「実際やってみると、違うね」

「うん。椅子も、鞄もあるし」

「ノートだけでも止まったし」

「本番だったら、たぶんもっと引っかかる」

「……だよね」


 木下さんは小さく息を吐いた。溜息ほど大きくはない。声にならないくらいの浅い息だった。


 佐藤さんが止まったときの、あの短い間だけが残っている気がした。木下さんも、たぶん同じところに引っかかっていた。けれど、僕にはそれを確かめる言葉がなかった。


 木下さんは、手元のものを少し寄せた。片づけるためというより、置き直しただけに見える。すぐにしまうわけでも、何かを書き足すわけでもない。その中途半端な動きが、今の木下さんに近い気がした。


「一旦、考え直すって言ったけど」

「うん」

「どこから直せばいいのか、まだ分かってない」

「それは、今すぐじゃなくてもいいんじゃない?」

「今すぐじゃなくても?」

「今日は、難しいって分かったところまでで」

「……それでいいのかな?」

「少なくとも、それが分かっただけで今日は十分だと思う」


 木下さんは、そこで初めて少しだけ顔を上げた。


 目が合った、というほどはっきりではない。視線が僕の方へ来て、すぐに戻る。その短い動きだけで、さっきまで固まっていたものが少しだけほどけたように見えた。納得した顔ではない。強く頷いたわけでもない。ただ、否定するための力が、少し抜けていた。


 僕は、言葉を足さなかった。足せば、たぶん余計なことになる。大丈夫とか、次は上手くいくとか、そういう言葉は、今の木下さんには不必要な気がした。分かっていないことは分かっていないままでいい。でも、分かったことも確かにある。


 木下さんは、ようやく手を離した。


「水野くんって、現実的なのか軽いだけなのかよく分からないね」

「それ褒めてる?」

「…たぶん?」

「たぶんか」

「うん。たぶん」


 木下さんの口元が、少しだけ動いた。


 笑った、というほどではなかった。けれど、教室に二人だけになってから初めて、声の端がほんの少し上がった。佐藤さんと話していたときの明るさとは違う。無理に戻した明るさでもない。引っかかっていた場所から一度だけ目を離せた、それだけだった。


 木下さんは、残っていたものを鞄にしまった。動きはゆっくりだったけれど、さっきみたいに止まってはいなかった。鞄の口を閉じる小さな音がした。


「そろそろ行こっか」

「うん」


 僕も鞄を持った。


 戸口へ向かう途中で、木下さんは一度だけ教室を振り返った。僕もつられてそちらを見る。さっき佐藤さんが止まったあたりには、もう何もない。それでも、その場所だけは何となく分かった。


 教室を出ると、廊下の空気はぬるかった。冷房の効いた教室から出たせいで、制服の袖の内側に熱が戻ってくる。廊下の向こうでは、別の教室から笑い声が漏れていた。階段の方へ行く足音がいくつか重なって、そのあとすぐに薄くなる。


 木下さんは、僕の少し前を歩いた。並んでいるほど近くはない。離れているというほどでもない。鞄の底が制服の横に軽く当たって、歩くたびに小さく揺れる。教室にいたときより、肩の位置が少しだけ戻っているように見えた。


 階段の手前で、木下さんが少しだけ足を緩めた。


「沙希ちゃん、弓道部まで行けたかな?」

「佐藤さんなら大丈夫だと思う」

「根拠ある?」

「今日、ノート持って一番ちゃんと歩いてたし」

「そこ?」

「そこ」


 木下さんは前を向いたまま笑った。


 声に出るほどではない。歩く速さが一拍ずれて、また戻る。その小さなずれが、さっき教室で止まっていたものとは違った気がした。木下さんの中で全部が片づいたわけではない。たぶん、まだ何も片づいていない。それでも、足は止まっていなかった。


 階段を下りる音が重なる。途中で上がってくる生徒とすれ違って、木下さんが壁側に寄る。僕も一段遅れて幅を空けた。すれ違ったあと、二人分の足音だけがまた階段に戻る。話さない時間が続いても、教室での沈黙ほど重くはなかった。


 下駄箱の前まで来ると、外の西日が床まで差し込んでいた。靴箱の下の影だけが、少し濃い。


 木下さんは上履きを脱いで、下駄箱の縁に指をかけた。僕も自分の靴を取り出す。靴底が床に触れる音が、近くで二つ続いた。


「……さっきの」

「ん?」

「ありがと。言ってくれて」

「俺、そんな大したこと言ってないけど」

「そうだね」

「そこは否定してくれないんだ」

「大したことじゃないから、ちょうどよかった」


 木下さんは靴に足を入れながら、微かに目を伏せた。その声は、教室にいたときより少しだけ軽かった。


 僕も、重くしたかったわけではなかった。ただ、今日のことが「失敗」という言葉だけで終わるのは違う気がした。それを、どうにか口にしたかった。


 僕が靴の踵を直している間、木下さんは外の方を見ていた。横顔にかかった光で、目元の影が少しだけ薄くなる。明るくなった、というほどではない。けれど、教室で動けないでいたときより、口元の力は抜けていた。


「行こっか」

「うん」


 木下さんが先に一歩出た。


 僕は鞄の紐を肩にかけ直して、また半歩後ろを歩き出した。

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