↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/59

第52話「現実」

 窓の外で、同じ小節が何度か繰り返されていた。


 金管のどこかが半拍ずれたのか、途中で止まって、また頭から戻る。放課後の校舎は教室ごとに別の音を抱えていて、それが廊下の方へ薄く溜まっている。グラウンドからは、短い掛け声が間を置いて上がってきた。冷房の音と混ざりきらないまま、どちらも教室の中に残っていた。


 未だに、窓から差す光には夏が滲んでいる。机の上に落ちた四角い明るさが、午後の終わりに向かって少しずつ床の方へ伸びていた。冷房は効いているのに、その光に当たっているところだけ、背中が熱い。


 教室は、もう普段の並びをしていなかった。机が寄せられて、いくつかの島ができている。僕たちのところにはドリンクのノートが開いたまま置かれていて、別の机にはメニューの下書きが重なっていた。窓に近いところでは、西野さんが段ボールの角を指で潰している。向こうの端で、誰かが椅子を引く音がした。同じ部屋なのに、どの机が何を考えているのか、なんとなく感じ取れるようになっていた。


 木下さんたちの机の上に、一枚の図が置かれた。


 僕は立ち上がって、そちらへ近づいた。教室の形が線で描かれている。戸口の横に大きめの四角があり、教室の後方には別の机の印があった。客席らしい四角がいくつも並んで、その間には細い白い部分が残っている。隅の方に、クロス(白地)、観葉植物、と薄く添えてあった。


 図の右上に「28」と見えた。座席数だろうか。目を戻すと、客席らしい四角が思っていたより多く並んでいた。


「……ちゃんとしてる」


 佐藤さんが図に顔を近づけた。木下さんは少し目を伏せて、紙の端を指で押さえている。


「まだ仮だけどね」

「仮でここまで出るのすごくない?うち、丸と線しか描けないよ」

「それはそれで見たい」


 岡田が横から覗こうとして、佐藤さんがすぐ顔を上げた。


「見せない」

「なんでだよ」

「なんとなく」


 近くで小さく笑いが起きる。木下さんはそれには混ざらず、口元だけ少しゆるめて、図へ視線を戻した。線は細いのに、迷って引いた感じがしなかった。戸口から入って、奥で出る。窓に近いところの席は、少し広く取ってある。


「二十八って、多くない?」


 岡田の声は軽かった。でも、目は図の右上から動いていない。


「学園祭なら、それくらい欲しいでしょ」

「欲しいけど、教室そんな広かったっけ?」

「広くはないでしょ」


 井上が、椅子の背にもたれたまま言った。やる気のなさそうな声なのに、図の真ん中だけはちゃんと見ている。宮本はその机の印へ視線を落として、ペンを持ったまま、まだ何も書いていなかった。


「実際にやってみたら分かるんじゃない?」


 藤森が窓の近くから少し身を乗り出した。岡田が近くの机を見る。


「全部?」

「全部は無理でしょ。戻すの大変だし」


 井上の声に、岡田がすぐ返す。


「動かす前から戻す話すんなよ」

「大事でしょ」


 木下さんの指が、図の真ん中あたりを軽く押さえた。


「戸口と、机の間だけでも」


 それ以上は言わなかった。けれど、線で描かれた四角と、教室にある実際の机を見比べれば、何をしたいのかは分かった。当日みたいに全部を並べるわけじゃない。図の線が、この部屋ではどこに重なるのかを少しだけ確かめることになった。


 佐藤さんが立ち上がった。椅子の脚が床を擦って、思ったより高い音が鳴る。グラウンドの掛け声が一度途切れて、その音だけが残った。


「ここ、入るところ?」


 引き戸の近くに立って、佐藤さんは図と戸口とを見比べる。大きいメニューの代わりに、木下さんが丸めてあった画用紙を広げて、戸口の横の机に立てかけた。


「これくらいの大きさかな?」

「みんな見るやつだよね」

「うん」

「じゃあ、ここで立ち止まる人もいそう」


 佐藤さんが、自分でその画用紙の前に立ってみせた。鞄を持っているわけでもないのに、一人立つだけで戸口のあたりが少し細くなる。岡田が横を抜けようとして、肩をすぼめた。


「入口からちょっと狭いな」

「岡田が大きいからじゃない?」

「それで済ませるなよ」


 また笑いが起きた。けれど、画用紙の前に人が立つと、その分だけ戸口の明るさが細くなるのは、笑っても変わらなかった。


 机を二つ動かすだけで、教室の音が変わった。ほんの少し浮かせただけなのに、下に溜まっていた消しゴムのかすが、床の上に白く散った。椅子を四つ寄せると、図の四角が、少しだけ机と椅子の形に近づく。


「四人掛けはこれで一個分?」


 杉浦が図と机を交互に見ながら言った。


「たぶん」

「たぶんなの、ちょっと怖いな」

「まだ仮案だから。一旦、大体でやってみよう」


 木下さんはそう言って、手元に目を落とした。声は強くなかった。直さなきゃ、という焦りもない。


 卓上メニューの代わりに、小さな紙が机の真ん中に置かれる。それだけで、机の上の見え方が少し変わった。誰かの筆箱が端に寄せられ、ノートが一冊閉じられる。布も何も敷いていないのに、机の上の空き方だけが変わっていった。


 佐藤さんが、その机を覗き込んだ。


「クロス敷いたら、もう私物置けないね」

「だね。当日は全部しまうことになる」

「全部?」

「全部」


 佐藤さんが椅子を一つ引いた。座るのではなく、座(・)っ(・)た(・)人(・)が(・)い(・)た(・)ら(・)という位置まで後ろへ下げる。椅子の背が、思ったよりも通路にはみ出した。


 井上がその後ろを抜けようとして、身体を横にした。


「ここ、通れなくはないけど…」

「けど?」

「狭い」


 岡田が笑って、自分でも通ってみた。


「……ほんとだな」

「でしょ」


 井上は勝った顔もせず、椅子の背を指で押して、少しだけ内側へ戻した。戻した分、座る人の膝のあたりが詰まる。机を動かしても、椅子を動かしても、片方を空ければ片方が狭くなった。


 岡田が、自分の鞄を床に置いた。机の下ではなく、通り道の端だった。


「これ、何か置いたことにしよう」

「雑だなあ」

「何も置かないわけにはいかないだろ」

「それはそう」


 鞄一つなのに、そこに置かれると、足を置ける場所が少し減った。宮本がそれを見て、少し眉を寄せる。


「当日、その辺に物置いたら邪魔になるな」

「だから仮だって」

「仮でも邪魔なものは邪魔だろ」


 宮本の声に、岡田は言い返しかけて、床の鞄を見た。それから、靴先で少しだけ自分の方へ引いた。鞄が床を擦って、机の脚に当たる。音がした分だけ、そこに置かれているものの大きさがはっきりした。


 図にあった印のあたりへ机を一つ置き、宮本がその後ろに立った。その机の前にもう一人立つと、抜ける場所がまた少し細くなる。ただ、それ以上は誰も広げなかった。図の上で白かった部分が、実際には人の足や椅子の背で少しずつ削られていった。


 前方の扉の前で、藤森がふと手を止めた。


「こっちも空けとかないとだよね?」


 何人かがそちらを見る。扉は閉まったままだった。


「ここから運ぶってこと?」


 杉浦が扉を見ながら言った。


「隣が使えたら、だけどね」


 扉の前に集まっていた視線が、少しずつほどけた。


「トレー無いし、これで持ってることにしてみる?」


 佐藤さんが机の上のノートを一冊持ち上げた。表紙の端が湿気で少し反っている。


「ノートじゃん」

「今だけ。問題なく歩けるか試したい」


 佐藤さんはノートを両手で支えた。ふざけているようで、持ち方だけは妙にちゃんとしている。肘を少し張ると、身体を横へ逃がしにくくなった。何も乗っていないのに、もう片手は使えない。


「じゃあ、こっちから行くね」


 扉の前に立って、さっき作った四人掛けの方へ歩き出す。椅子を引いたままの場所に差しかかったところで、腿(もも)が椅子の背に当たった。


「……思ったより狭い」


 声は大きくなかった。でも、その場の音が少し減った。


 僕は反対側から、佐藤さんが止まった場所を見ていた。紙の上では、そこはちゃんと通れる場所だった。


 何も持っていないのに、僕の指の間だけが少し開いていた。


「当日は、もっと手元不安定だよな」


 宮本が、置いた机の後ろから言った。責める感じはない。ただ、その一言で、ノートの上に何も乗っていないことの方が、かえって目立った。


「色々乗ってる状態でこれは……ちょっと怖いかも」

「だよな」

「やってみないと分かんないもんだね、これ」


 岡田が小さく笑って、足で鞄をまた引いた。さっきよりもゆっくりだった。


 木下さんは机へと戻っていた。シャーペンの先が一度だけ止まった。大きく直すのではなく、さっき佐藤さんが止まったあたりに小さく印をつけた。紙の上の線はそのままなのに、見なければいけない場所だけが増えたように見えた。


「ここ、席ずらせば通れる?」


 杉浦が図を指さす。


「ずらしたら、今度はこっちが狭くなる」

「じゃあ、二人掛けの方を寄せて……」


 岡田が言いかけて、図を見た。一つ動かせば、別の一つが動く。言い切る前に、それが見えたみたいだった。


「……これ、どこ動かしても、どっかが詰まるな」

「パズルだね」

「パズルよりも面倒なやつ」


 誰もすぐには返さなかった。


 佐藤さんがノートを机に戻すと、表紙が軽く鳴った。それだけで、持っていたものはただのノートに戻る。


 誰かが動かした椅子の脚だけが、少し斜めを向いていた。


「……今のままだと厳しいかもね」


 その言葉は、教室の中に静かに残った。


 木下さんのシャーペンを持つ手は、仮案の紙の上で止まったままだった。周りにいた何人かも、そこから目を離さなかった。


「一旦、考え直してみる」


 木下さんが言った。誰も反対しなかった。何席にするかという話には、まだ誰も触れない。


 藤森が、まだ少し斜めになっている机に手をかけた。岡田が鞄を引き寄せる。井上が椅子を元の位置へ戻す。床を擦る音がいくつか重なって、冷房の音が一瞬だけ遠くなった。


 窓の外は茜色に染まっていた。机に落ちていた四角い明るさが色を変えて、教室の奥まで伸びている。背中の熱さは既に消えていて、吹奏楽もいつの間にか止んでいた。グラウンドから聞こえる掛け声だけが、まだ続いている。


 僕は、図と、まだ少し斜めになったままの机を見比べた。ノートはトレーじゃなく、鞄もただの鞄に戻っている。それでも、佐藤さんが腿(もも)をぶつけたあたりだけ、少し狭く見えた。


 木下さんが図の端を押さえる。冷房の風で浮きかけた紙が机の上へ戻り、シャーペンでつけた印だけが小さく残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。