第52話「現実」
窓の外で、同じ小節が何度か繰り返されていた。
金管のどこかが半拍ずれたのか、途中で止まって、また頭から戻る。放課後の校舎は教室ごとに別の音を抱えていて、それが廊下の方へ薄く溜まっている。グラウンドからは、短い掛け声が間を置いて上がってきた。冷房の音と混ざりきらないまま、どちらも教室の中に残っていた。
未だに、窓から差す光には夏が滲んでいる。机の上に落ちた四角い明るさが、午後の終わりに向かって少しずつ床の方へ伸びていた。冷房は効いているのに、その光に当たっているところだけ、背中が熱い。
教室は、もう普段の並びをしていなかった。机が寄せられて、いくつかの島ができている。僕たちのところにはドリンクのノートが開いたまま置かれていて、別の机にはメニューの下書きが重なっていた。窓に近いところでは、西野さんが段ボールの角を指で潰している。向こうの端で、誰かが椅子を引く音がした。同じ部屋なのに、どの机が何を考えているのか、なんとなく感じ取れるようになっていた。
木下さんたちの机の上に、一枚の図が置かれた。
僕は立ち上がって、そちらへ近づいた。教室の形が線で描かれている。戸口の横に大きめの四角があり、教室の後方には別の机の印があった。客席らしい四角がいくつも並んで、その間には細い白い部分が残っている。隅の方に、クロス(白地)、観葉植物、と薄く添えてあった。
図の右上に「28」と見えた。座席数だろうか。目を戻すと、客席らしい四角が思っていたより多く並んでいた。
「……ちゃんとしてる」
佐藤さんが図に顔を近づけた。木下さんは少し目を伏せて、紙の端を指で押さえている。
「まだ仮だけどね」
「仮でここまで出るのすごくない?うち、丸と線しか描けないよ」
「それはそれで見たい」
岡田が横から覗こうとして、佐藤さんがすぐ顔を上げた。
「見せない」
「なんでだよ」
「なんとなく」
近くで小さく笑いが起きる。木下さんはそれには混ざらず、口元だけ少しゆるめて、図へ視線を戻した。線は細いのに、迷って引いた感じがしなかった。戸口から入って、奥で出る。窓に近いところの席は、少し広く取ってある。
「二十八って、多くない?」
岡田の声は軽かった。でも、目は図の右上から動いていない。
「学園祭なら、それくらい欲しいでしょ」
「欲しいけど、教室そんな広かったっけ?」
「広くはないでしょ」
井上が、椅子の背にもたれたまま言った。やる気のなさそうな声なのに、図の真ん中だけはちゃんと見ている。宮本はその机の印へ視線を落として、ペンを持ったまま、まだ何も書いていなかった。
「実際にやってみたら分かるんじゃない?」
藤森が窓の近くから少し身を乗り出した。岡田が近くの机を見る。
「全部?」
「全部は無理でしょ。戻すの大変だし」
井上の声に、岡田がすぐ返す。
「動かす前から戻す話すんなよ」
「大事でしょ」
木下さんの指が、図の真ん中あたりを軽く押さえた。
「戸口と、机の間だけでも」
それ以上は言わなかった。けれど、線で描かれた四角と、教室にある実際の机を見比べれば、何をしたいのかは分かった。当日みたいに全部を並べるわけじゃない。図の線が、この部屋ではどこに重なるのかを少しだけ確かめることになった。
佐藤さんが立ち上がった。椅子の脚が床を擦って、思ったより高い音が鳴る。グラウンドの掛け声が一度途切れて、その音だけが残った。
「ここ、入るところ?」
引き戸の近くに立って、佐藤さんは図と戸口とを見比べる。大きいメニューの代わりに、木下さんが丸めてあった画用紙を広げて、戸口の横の机に立てかけた。
「これくらいの大きさかな?」
「みんな見るやつだよね」
「うん」
「じゃあ、ここで立ち止まる人もいそう」
佐藤さんが、自分でその画用紙の前に立ってみせた。鞄を持っているわけでもないのに、一人立つだけで戸口のあたりが少し細くなる。岡田が横を抜けようとして、肩をすぼめた。
「入口からちょっと狭いな」
「岡田が大きいからじゃない?」
「それで済ませるなよ」
また笑いが起きた。けれど、画用紙の前に人が立つと、その分だけ戸口の明るさが細くなるのは、笑っても変わらなかった。
机を二つ動かすだけで、教室の音が変わった。ほんの少し浮かせただけなのに、下に溜まっていた消しゴムのかすが、床の上に白く散った。椅子を四つ寄せると、図の四角が、少しだけ机と椅子の形に近づく。
「四人掛けはこれで一個分?」
杉浦が図と机を交互に見ながら言った。
「たぶん」
「たぶんなの、ちょっと怖いな」
「まだ仮案だから。一旦、大体でやってみよう」
木下さんはそう言って、手元に目を落とした。声は強くなかった。直さなきゃ、という焦りもない。
卓上メニューの代わりに、小さな紙が机の真ん中に置かれる。それだけで、机の上の見え方が少し変わった。誰かの筆箱が端に寄せられ、ノートが一冊閉じられる。布も何も敷いていないのに、机の上の空き方だけが変わっていった。
佐藤さんが、その机を覗き込んだ。
「クロス敷いたら、もう私物置けないね」
「だね。当日は全部しまうことになる」
「全部?」
「全部」
佐藤さんが椅子を一つ引いた。座るのではなく、座った人がいたらという位置まで後ろへ下げる。椅子の背が、思ったよりも通路にはみ出した。
井上がその後ろを抜けようとして、身体を横にした。
「ここ、通れなくはないけど…」
「けど?」
「狭い」
岡田が笑って、自分でも通ってみた。
「……ほんとだな」
「でしょ」
井上は勝った顔もせず、椅子の背を指で押して、少しだけ内側へ戻した。戻した分、座る人の膝のあたりが詰まる。机を動かしても、椅子を動かしても、片方を空ければ片方が狭くなった。
岡田が、自分の鞄を床に置いた。机の下ではなく、通り道の端だった。
「これ、何か置いたことにしよう」
「雑だなあ」
「何も置かないわけにはいかないだろ」
「それはそう」
鞄一つなのに、そこに置かれると、足を置ける場所が少し減った。宮本がそれを見て、少し眉を寄せる。
「当日、その辺に物置いたら邪魔になるな」
「だから仮だって」
「仮でも邪魔なものは邪魔だろ」
宮本の声に、岡田は言い返しかけて、床の鞄を見た。それから、靴先で少しだけ自分の方へ引いた。鞄が床を擦って、机の脚に当たる。音がした分だけ、そこに置かれているものの大きさがはっきりした。
図にあった印のあたりへ机を一つ置き、宮本がその後ろに立った。その机の前にもう一人立つと、抜ける場所がまた少し細くなる。ただ、それ以上は誰も広げなかった。図の上で白かった部分が、実際には人の足や椅子の背で少しずつ削られていった。
前方の扉の前で、藤森がふと手を止めた。
「こっちも空けとかないとだよね?」
何人かがそちらを見る。扉は閉まったままだった。
「ここから運ぶってこと?」
杉浦が扉を見ながら言った。
「隣が使えたら、だけどね」
扉の前に集まっていた視線が、少しずつほどけた。
「トレー無いし、これで持ってることにしてみる?」
佐藤さんが机の上のノートを一冊持ち上げた。表紙の端が湿気で少し反っている。
「ノートじゃん」
「今だけ。問題なく歩けるか試したい」
佐藤さんはノートを両手で支えた。ふざけているようで、持ち方だけは妙にちゃんとしている。肘を少し張ると、身体を横へ逃がしにくくなった。何も乗っていないのに、もう片手は使えない。
「じゃあ、こっちから行くね」
扉の前に立って、さっき作った四人掛けの方へ歩き出す。椅子を引いたままの場所に差しかかったところで、腿が椅子の背に当たった。
「……思ったより狭い」
声は大きくなかった。でも、その場の音が少し減った。
僕は反対側から、佐藤さんが止まった場所を見ていた。紙の上では、そこはちゃんと通れる場所だった。
何も持っていないのに、僕の指の間だけが少し開いていた。
「当日は、もっと手元不安定だよな」
宮本が、置いた机の後ろから言った。責める感じはない。ただ、その一言で、ノートの上に何も乗っていないことの方が、かえって目立った。
「色々乗ってる状態でこれは……ちょっと怖いかも」
「だよな」
「やってみないと分かんないもんだね、これ」
岡田が小さく笑って、足で鞄をまた引いた。さっきよりもゆっくりだった。
木下さんは机へと戻っていた。シャーペンの先が一度だけ止まった。大きく直すのではなく、さっき佐藤さんが止まったあたりに小さく印をつけた。紙の上の線はそのままなのに、見なければいけない場所だけが増えたように見えた。
「ここ、席ずらせば通れる?」
杉浦が図を指さす。
「ずらしたら、今度はこっちが狭くなる」
「じゃあ、二人掛けの方を寄せて……」
岡田が言いかけて、図を見た。一つ動かせば、別の一つが動く。言い切る前に、それが見えたみたいだった。
「……これ、どこ動かしても、どっかが詰まるな」
「パズルだね」
「パズルよりも面倒なやつ」
誰もすぐには返さなかった。
佐藤さんがノートを机に戻すと、表紙が軽く鳴った。それだけで、持っていたものはただのノートに戻る。
誰かが動かした椅子の脚だけが、少し斜めを向いていた。
「……今のままだと厳しいかもね」
その言葉は、教室の中に静かに残った。
木下さんのシャーペンを持つ手は、仮案の紙の上で止まったままだった。周りにいた何人かも、そこから目を離さなかった。
「一旦、考え直してみる」
木下さんが言った。誰も反対しなかった。何席にするかという話には、まだ誰も触れない。
藤森が、まだ少し斜めになっている机に手をかけた。岡田が鞄を引き寄せる。井上が椅子を元の位置へ戻す。床を擦る音がいくつか重なって、冷房の音が一瞬だけ遠くなった。
窓の外は茜色に染まっていた。机に落ちていた四角い明るさが色を変えて、教室の奥まで伸びている。背中の熱さは既に消えていて、吹奏楽もいつの間にか止んでいた。グラウンドから聞こえる掛け声だけが、まだ続いている。
僕は、図と、まだ少し斜めになったままの机を見比べた。ノートはトレーじゃなく、鞄もただの鞄に戻っている。それでも、佐藤さんが腿をぶつけたあたりだけ、少し狭く見えた。
木下さんが図の端を押さえる。冷房の風で浮きかけた紙が机の上へ戻り、シャーペンでつけた印だけが小さく残った。




