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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第51話「戻る放課後」

 廊下を伝って、曲がまだ少し聞こえていた。


 教室の中には、帰る人の声と椅子を戻す音が、まだ薄く残っていた。誰かが鞄を持ち上げ、別の机で椅子が引かれる。床に脚が擦れるたび、机の端に残っていた紙が微かに動いた。


 白い布の端、メニューの下書き、誰かが置きっぱなしにしたペン。まとめたつもりのものが、机の上にまだ散っている。帰る人の声は戸口の方へ流れていくのに、教室の内側だけは、さっきまでの話の形をすぐには手放せないでいた。


 僕は、閉じたノートに手を置いたまま、その表紙を見ていた。


 グラス、氷、隣教室。線で区切った字は、最後の方だけ少し詰まっている。もう一度開けば、まだ何か足せそうな気もした。けれど、シャーペンは握らなかった。握ったところで、今はたぶん、同じところをなぞるだけになる。


 戸口の方で、岡田が鞄を肩にかけ直した。宮本は閉じたファイルを片手に持って、こちらへ少し視線を向ける。


「水野、まだ残るん?」

「たぶん」

「たぶんって言ってる時点で、だいたい残るよな」

「もう少し日が落ちてから帰る」

「あーね、まだ暑いもんな」


 岡田が笑って、片手を上げた。宮本も鞄を持ち直す。


「まぁ、ほどほどにな」

「うん」

「明日もあるし」


 二人の声は、そのまま廊下の方へ流れていった。鞄の音、椅子を戻す音、廊下へ抜けていく短い笑い声だけが残る。


 人が減ると、冷房の音が前に出た。さっきまで近かった声は、戸口の向こうへ少しずつ薄くなっていく。


 木下さんの方で机が少し動いた。布の端を押さえて、折り目を崩さないように重ねる。下書きの用紙が横へずれて、佐藤さんは椅子の背にかけていた鞄を下ろしただけで、まだ肩にはかけなかった。


 井上は、席に座ったままだった。机の端には数学の問題集が開きっぱなしになっている。準備中に押されたのか、ページの真ん中に浅い跡がついていた。井上はその跡を指で伸ばして、すぐにやめた。


 佐藤さんが、机の上に残っていた紙をまとめて端へ寄せた。


「……今日、まだやる?」

「そのつもりで残ってるんじゃないの?」

「残ってるだけかもしれない」

「それはちょっと分かる」


 佐藤さんが笑って、鞄からクリアファイルを出した。中のプリントが数枚ずれて、端が机に当たる。木下さんの机でも紙の音がして、準備の紙とは違う白さがそこに重なった。


 机の上は片づいてきているのに、勉強道具を置く場所だけがまだ落ち着かなかった。


 僕も自分の机を少し引いた。脚が床を擦って、思ったより大きな音がする。机の角を隣に合わせてから、準備用のノートを閉じて机の中へ入れた。鞄から英語の教科書を出す。続けて筆箱を置くと、ファスナーの金具が机に当たった。


 教科書を開いても、なかなか頭に入ってこなかった。本文の横に、授業中に引いた線が残っている。シャーペンを持ったまま、一行目の途中で指が止まった。


「英語って、続きどこからだっけ?」

「たぶん、百二十六ページから」


 木下さんが、自分の教科書を見ながら短く答えた。


「百二十六か」

「うん。前回、そこまでだったと思う」

「じゃあ、ここで合ってるか」


 僕は教科書の端を押さえながら、横に置く文法プリントを探した。クリアファイルの間に、薄い紙が一枚挟まっていた。端が少し折れている。


 プリントを教科書の横に置くと、木下さんの声がした。


「水野くん、それ、前回のプリント?」

「うん。助動詞のやつ」

「それで合ってると思う」

「じゃあ、こっちも出しとく」

「うん」


 プリントを教科書の横に置いたところで、井上が鞄の中を探り始めた。


「俺、それ無いかも」

「また?」

「またって言われるほど失くしてない」

「じゃあ、ちゃんと探して」

「探してる」

「ファイルの中とかは?」


 井上がファイルを開く。数学のプリントが出てきて、すぐ戻された。次に、折れた英文のプリントが一枚出てくる。


「あった」

「しわしわじゃん」

「読めればいいでしょ」

「よくはない」


 佐藤さんが短く笑った。ページをめくる音がした。僕は自分の教科書へ目を戻し、シャーペンの先を本文の横で止めた。


 教科書とプリントの音が、机のあちこちで少しずつ重なり始めていた。僕もその音に遅れて、一問目の空欄へ目を落とす。


 空欄のあとには、『have』と過去分詞が並んでいた。


 形は分かる。見たこともある。けれど、本文の中に置こうとすると、訳の強さだけが少し余った。「に違いない」と書くと強く出すぎる気がして、「はずだ」だと、今度は少しだけ軽く見える。


 シャーペンの先を空欄の横で止めたまま、もう一度前の文へ戻る。


「この『must have been』って、強めに取るところだよね?」

「うん。たぶん、確信が強い方」

「でも、『に違いない』って書くと、ちょっと浮かない?」

「浮く?」

「なんか、本文より訳の方が強い」


 すぐには返事がなかった。紙をめくる音がして、それから木下さんが短く言う。


「『だったはずだ』くらいでもいいと思う」

「……なるほど」

「弱くはしないけど、言いすぎない感じ」


 少し間を置いて、佐藤さんの声がした。


「今の、もう日本語の話じゃない?」

「半分くらい」

「英語なのに?」

「英語だからじゃない?」


 井上が、小さく息を漏らした。


「一問目からそこまで考える?」

「後々困るでしょ」

「俺、もう『はずだ』って書いた」

「早いな」

「考えたら負けそうだった」


 佐藤さんが短く笑う。ページをめくる音が重なって、僕は空欄の横に『だったはずだ』と小さく書いた。字は少し斜めになったけれど、消すほどではない。横に置いた教科書の本文へ目を戻すと、さっきより少しだけ文の流れが止まらなかった。


「水野くん」

「うん?」

「その前の文も、たぶん同じ人の話」

「あ、ほんとだ」


 もう一度前へ戻る。主語を追い直すと、空欄だけで止まっていた文が、前の文と少し繋がった。


「じゃあ、『だったはずだ』で通るか」

「うん。そっちの方が自然だと思う」


 返事のあと、紙の音だけが残った。


 井上が、少し遅れて空欄に書き込む音がした。少し間を置いて、別の机でもプリントの紙が小さく鳴る。誰かが廊下を通って、引き戸の向こうで足音が伸びた。教室の中には、さっきより紙の音が増えていた。


 二問目は、最初より少しだけ早く進んだ。


 それでも、すぐに静かになるわけではなかった。井上は途中式でもないのに英語の余白を広く使って、佐藤さんに「それ数学じゃないよ」と言われていた。木下さんは時々短く補って、僕はその度に、自分の言葉で一度置き直した。


 シャーペンの芯が、紙の上で一度だけ引っかかった。


 筆箱から替えの芯を出すほどではなくて、先を少しだけ回して書き直す。机の上では、英語の教科書と文法プリントがようやく場所を取っていた。準備用のノートは机の中にしまっても、その分の空きだけが、しばらく残っていた。


「三問目も同じやつ?」


 佐藤さんの声が届いた。


「たぶん」

「たぶん多い」

「水野にも言って」

「俺は今減らしてる」


 自分で言ってから、少しだけおかしくなった。佐藤さんが笑って、井上も遅れて息を漏らす。


 ページをめくる音がした。少し間を置いて、木下さんの声が届く。


「今言った方の訳、自然だと思う」

「短い方?」

「うん。そっち」


 僕は自分のプリントを見直した。四問目の横には、最初に書いた訳と、あとから小さく直した訳が並んでいる。どちらも間違いではなさそうだったけれど、短い方を読むと、文の流れが自然になる。


「あぁ……じゃあ、こっちにする」

「うん」


 消しゴムを使うと、机の上に小さなカスが残った。指で寄せて、プリントの端に避ける。そうしている間に、廊下を伝っていた曲は聞こえなくなっていた。代わりに、冷房と紙の音の向こうで、窓の外から短い掛け声が薄く入ってきた。


 明日になれば、また学園祭の話に戻るのだろう。けれど今、机の上を占めているのは、英語の教科書と薄いプリントだった。


 佐藤さんが、少し声を落として言った。


「これ、今日中に終わるかな?」

「終わらないに一票」

「井上、そういうのいらない」

「現実的でしょ」

「葵は?」

「……半分くらいまではいけるんじゃない?」

「微妙だね」

「でも、ゼロよりはいい」


 紙が一枚ずれる音だけがして、それきりだった。


 僕はシャーペンを持ち直して、次の空欄の前後を読む。さっきよりも、英文の行を追う目が止まりにくくなっていた。声が途切れたあとも、プリントの端を押さえる指には、さっきまでの熱が少し残っていた。


 外の明るさは、まだ完全には落ちていなかった。窓の方から入る光は少し弱くなっていて、教科書の白さだけが薄く浮いている。


 四問目の答えを書き終えて、僕は一度だけ手を止めた。井上が小さくぼやいて、佐藤さんの短い笑い声が返る。


 ペン先を五問目の空欄に置く。


 教室は、まだ完全には静かにならない。その中で、シャーペンの音だけが少しずつ増えていった。

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