第50話「伝ってくるもの」
左の机には、端のそろった紙と、きれいに折られた白い布が置かれていた。
僕はノートの端を押さえて、窓際の方へ寄った。開いたページがしなって、指で押さえた角だけが浅く曲がった。
そこは思っていたより詰まっていた。ファイルや筆箱が机の上に重なっていて、ノートを置けそうなのは、手前に残った場所だけだった。
「ちょっといい?」
「ん?」
「これ、そっちにも聞いとかないとだめそうで」
「嫌な予感しかしない」
岡田はそう言いながら、ペンを置いた。近くにいた男子が半歩下がる。僕は空いたところにノートを広げた。
「グラスとか、氷とか」
「あー……それは、まあ、こっちか」
岡田の声が一段落ちる。藤森はノートの下の方を覗き込んで、すぐには何も言わなかった。僕の書いた字は、飲み物の名前より下に寄っている。線も大きさも揃っていなくて、あとから押し込まれたものだけが残っていた。
西野さんが、ノートの端を見た。
「グラスって見たっけ?」
「カップはあった。家庭科室に」
「揃ってなかったやつ?」
「うん、柄も形もバラバラだったと思う」
「じゃあ、アイス用は別で見た方がよさそうだね」
西野さんはそこまで言って、視線を落とした。何かを書き込むというより、書ける場所があるかだけ確かめるみたいに、指先が余白の上で止まる。
岡田が小さく息を吐いた。
「家から持ってくるのは、なし?」
「大量に?」
「いや、言ってみただけ」
「割れたら怖いし、誰のか分かんなくなりそう」
西野さんの返しは早かった。声は強くない。けれど、その案は最初から机の上に長く置くものではなさそうだった。
「だよな」
岡田はそれ以上引っ張らなかった。家から、という響きだけが、ふっと浮いた。
藤森が、ノートの横を空ける。
「学校で借りられるか聞いて、無理なら買う方も見る?」
「たぶん」
「買うってなったら、先生にも言うやつだよね」
「そこは絶対そう」
岡田が、ペンの先を机に当てたまま止める。
「勝手にグラス買ってきたら、普通に怒られそう」
「普通に怒られると思う」
「普通って便利だな」
「今のは普通でいいでしょ」
藤森が笑いを含んだ声で返す。岡田も口元をゆるめた。そこだけは、机の上の字より軽かった。
「氷は?」
藤森の視線が、ノートの下へ落ちる。
「アイス出すならいると思う」
「どこ置くの、それ」
「クーラーボックスとか?」
「でも、ずっと入れてたら溶けるよね」
「溶ける」
「なくなってきたら終わりじゃん」
「終わらせないで」
藤森が軽く笑った。西野さんは、ファイルの上に指を置いたまま、ノートを見ている。『氷』という字は短いのに、そこだけで一度、話が止まった。
「予備、どっかで冷やせればいいけど」
「家庭科室って、冷凍庫使えるのかな?」
「そこは聞いてない」
「じゃあ、それも確認か」
「クーラーボックスは?」
「準備室とかにないかな?」
「それもか」
「…多くない?」
「多いね」
岡田は小さく息を吐いた。机の上に置かれたノートの端が、誰かの袖でかすかに揺れた。
左の方で、何かをずらす音がした。
木下さんの前には、さっきの『白系クロス』と書かれたメモと、折られた布が置かれていた。布はまだ広げられていない。
「グラスは、普通のでいいと思う」
「普通?」
岡田がそちらを見る。
「透明で、変な形じゃないやつ」
「それ、普通って言われると分かんなくなるな」
「分かる」
藤森がすぐに乗る。
「喫茶店にありそうなやつ、って言われても広い」
「広いね」
木下さんが薄く笑った。西野さんも、ファイルの上に指を置いたまま口元をゆるめる。
「でも、変に探さなくていいってことだよね」
「うん。揃ってて、使いやすいやつでいいと思う」
木下さんはそれだけ言って、手元のメモへ視線を戻した。
「じゃあ、グラスは学校にあるか聞く。無理なら買う方向で。氷は、家庭科室の冷凍庫使えるかと、準備室にクーラーボックスあるか、確認取る感じ?」
「ざっくり」
「ざっくりじゃないと終わらん」
藤森がそこで笑った。西野さんのペン先が、手元で短く動く。僕はノートを自分の方へ引き寄せた。
「それ、置くスペースもいるよな」
宮本は、開いたファイルにペン先を置いたまま止まっていた。
「グラス?」
「グラスもだけど、氷とか。クーラーボックス置くなら、そこもいる」
「そこ来たか」
岡田が、机の端に置いたペンを指で押さえた。
「ずっと怪しかったやつじゃん」
「見ないふりしてた感じはある」
宮本は笑わずに、ファイルへ目を戻す。
「見ないふりっていうか、まだ動かせるもん少なかったし」
「出口側に会計、って話はしてたけど」
「マシンとかカップも置くしね」
「あと氷」
「氷、邪魔そう」
「邪魔って言うな」
藤森が笑いかけて、すぐに自分の手元へ視線を戻した。誰かが机の間を通ろうとして、床に出ていた鞄の持ち手に靴を引っかける。
一瞬だけ、話がそっちへ寄った。鞄を奥へ押しやる音がして、机の脚に何かが当たった。
木下さんの机では、白い布の横に、卓上メニューの下書きが重なっていた。木下さんは畳まれた布の端を押さえたまま、宮本の方を見た。
「机、どれ使うか見ないと、クロスの枚数も出ないかも」
「卓上メニューも?」
「席数が決まらないと、たぶん」
その言い方は、困っているというより、まだそこまで数えられない、という感じだった。
岡田が自分の机の下を見た。鞄を奥へ押しやってから、顔だけを上げる。
「席って、何席の予定なの?」
「そこ、まだふわっとしてる」
「ふわっとしたものばっかじゃん」
「言い方」
「でも、だいたい合ってるでしょ」
「配置決めないと、席数まで出ないと思う」
藤森の返しに、岡田が何か言い返そうとした。その前に、廊下を伝って曲が聞こえてきた。
最初は、どこかで誰かがスマホを鳴らしたのかと思った。すぐに止まって、また同じところから流れる。遅れて、床を踏むような音も混ざった。廊下の声が一瞬薄くなって、その音だけが残る。
僕はノートの端を押さえたまま、廊下の方を見た。
「……隣ってダンスだったよね?」
言ってから、すぐには先へ進まなかった。
「言ってたね」
「それがどうしたの?」
「当日、教室って使うのかな?」
そこまで言って、ようやく言いたいことの形がぼんやり見えた気がした。
「……あー」
「そういうこと?」
「全部じゃなくても、機械とか備品とかだけでも置けないかな?」
「カップとか、氷とか?」
「クーラーボックスも」
「それ、できたらだいぶ違くない?」
藤森の声が少し明るくなった。岡田も、机の下に押しやった鞄を見るのをやめて、廊下の方を見た。
「いや、めっちゃ違う」
「でも、勝手には無理じゃない?」
「それはそう」
「聞くなら先生だな」
宮本がペンを置いた。木下さんの手も、白い布の横で止まっていた。西野さんはファイルの角に指を置いたまま、廊下の方を見ている。
曲はまだ小さく続いていた。途中で誰かの笑い声が重なって、すぐに分からなくなった。
ノートの下の方も、いつの間にか埋まっていた。
岡田が、机の下に押しやった鞄をもう一度見た。
「確認取るもの、減らねぇな」
「むしろ増えてる」
「言うなよ」
藤森が肩を揺らした。誰かが椅子を引き、机の脚が床を擦る。一つに寄っていた声が、またそれぞれの手元へ戻っていった。
そこでまた、廊下を伝って曲が少し大きく聞こえた。誰かがリズムを外したみたいに床を鳴らして、近くの机で短く笑いが起きる。
僕はノートに目を戻しきれないまま、しばらくそれを聞いていた。




