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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第49話「机上の橋」

 放課後の教室は、授業中よりも机の間が広く見える。実際には何も動いていないはずなのに、鞄が床に置かれたり、椅子が斜めに引かれたりするだけで、同じ場所の使われ方だけが変わる。


 僕は寄せた机のひとつにノートを広げた。ページの上には、前に書いたままの候補が並んでいる。コーヒー、紅茶、ジュース。その下に、カフェラテ、カプチーノ、カフェモカ。字だけなら、どれも同じ重さでそこに並んでいた。


 杉浦が鞄の中を探っていた。教科書の角とファイルがこすれる音がして、少し遅れて、厚みのある紙の束が出てくる。


「持ってきた」


 机の上に置かれたそれは、思っていたよりも普通の説明書だった。表紙の端が少し曲がっていて、家の棚に長く挟まっていたような跡がある。新品でも、学校のプリントでもない。


 井上が椅子の背にもたれたまま、首だけを前に出した。


「ほんとに持ってきたんだ」

「昨日、親が出しといてくれた」

「助かる~」


 杉浦は表紙を一枚めくった。薄い紙が擦れて、机の上で小さく鳴る。写真つきのページには、機械の正面と、取り外せる部品の名前が並んでいた。横にいた一人が、身を乗り出す。


「ちゃんとしてるやつじゃん」

「写真だと、普通にお店のやつみたい」

「前使ってたやつだから、まあ」

「前のでこれ?」

「性能だけなら、結構いいやつらしい」


 杉浦の言い方は少し曖昧だった。自分が毎日使っていたものというより、家にあったものを持ってきた側の距離が残っている。


 何枚かページをめくると、飲み物の写真が並んだところで手が止まった。コーヒー、エスプレッソ、カフェラテ、カプチーノ。その少し下には、カフェモカに近い名前もある。


「ラテ系も載ってる」

「カプチーノもあるな」

「モカもこれっぽい」

「写真あると、メニューに載せたくなるね」

「いや、まだ早いでしょ」

「分かってるけど、見た目はいいよね」


 誰かの声が少し弾んだ。僕はノートの候補欄を見る。カフェラテ、カプチーノ、カフェモカ。前に書いた字が、そのまま残っていた。


 井上が説明書の下の方を指で押さえる。


「でも、これにどこまで任せられるかじゃない?」

「そこだよね」

「ミルク使うやつ、手入れ大変そう」

「後ろの方に、手入れのページあった気がする」


 杉浦が説明書の後半をめくった。部品を外している写真と、細かい注意書きが出てくる。近くにいた一人が顔をしかめた。


「うわ、文字多い」

「これ、ちゃんと手入れしないと詰まるやつ?」

「たぶん。ミルクのとこは放置するとまずいと思う」

「当日止まったらだるいな」

「だるいで済むかな?」

「済まないかも」


 そこで笑いが起きた。大きくはない。説明書の上に顔を寄せたまま、みんな口元をゆるめるくらいだった。


 僕はカフェラテの横に、ミルク、と書いた。間を空けて、手入れ。カプチーノの横にも同じ言葉が増えてから、説明書の写真へ目を戻す。写真だけなら、全部ボタンで出てきそうに見える。でも、学園祭で使うなら、一杯作れればいいわけではなかった。


「これ一台で回すの、きつくない?」

「並んだら遅そう」

「ミルク系続いたら、余計遅いかも」

「家庭科室で見たやつ使えたら分けられる?」

「使えたら、な」

「まだ申請中だよね?」

「そっちは触る人決めとかないと危ないと思う」


 杉浦が説明書のページを戻す。家の機械の写真と、家庭科室で見た機械の記憶が、頭の中で別々に並んだ。こっちは家から持ってこられそうなもの。あっちは学校にあるかもしれないけれど、使えるとはまだ決まっていないもの。似たような飲み物につながっていても、扱いは同じではない。


 全自動。下に、家庭科室。横に、使用確認、担当。カプチーノの横には、泡と練習。


「モカはチョコいるよな」

「シロップか、パウダーか」

「そのへん、仕入れにも聞くやつじゃない?」


 その言い方で、カフェモカの横に並ぶものが少し増えた。チョコをどう用意するのか、どれくらい使うのか、誰が管理するのか。名前の短さとは別に、出すための手間だけが先に見えてくる。


「でも、モカあったら選ぶ人多そう」

「分かる」

「名前だけでちょっと頼みたくなる」

「名前だけで増やすと後で詰むでしょ」


 井上の声に、近くでまた小さく笑いが混じった。井上は、面倒なところをそのまま口にしただけみたいな顔をしている。


 僕はシャーペンを持ったまま、説明書の写真を見た。カフェラテも、カプチーノも、カフェモカも、写真の中ではきれいに収まっている。けれど、ノートの横にはもう、ミルク、手入れ、家庭科室、使用確認、担当、泡、練習、チョコ、仕入れ、という字が並んでいた。


「ラテアートは?」


 その一言で、さっき書いた家庭科室と練習の字に、みんなの目が戻った。


「……そこまでやる?」

「できたらじゃない?」

「できるなら見た目はいいよね」

「メニューに書くのはまだ無理じゃない?」

「端に残すくらいか」


 ノートの端に、ラテアート、と書いた。横に疑問符をつける。その下に練習と書こうとして、もう少し上に同じ字があるのに気づいた。


 説明書のページは、まだ半分も見られていなかった。


 杉浦が親指でページの端を押さえたまま、後ろをめくる。掃除の仕方、部品の外し方、異常が出たときの表示。飲み物の写真が並んでいたページより、文字の量が急に増えていた。


「これ、エラー出たらどうすんの?」

「一回止めるしかないんじゃない?」

「当日そうなったら後ろ詰まるな」

「詰まるって言い方やめろ」

「でも、止まったら困るでしょ」


 笑いが起きたあとも、杉浦は説明書のそのページを見ていた。止まった時、対応。ノートの端に小さく残る。


「エラー番号は出るっぽい。ここ見れば分かる」

「じゃあ、当日も説明書置いとく?」

「置いといた方がよさそう」


 誰かが机の端にあったペットボトルをずらした。説明書を開いておく場所だけで、机の上が思ったより埋まる。ノート、筆箱、説明書、誰かのスマホ、ペットボトル。まだ機械本体も、カップも、材料もないのに、机はもう狭かった。


「本体来たら、ここに置けないよな」

「置けても作業しにくそう」

「水とかミルクも近くにいるし」

「こぼしたら終わりじゃん」

「終わりではないけど、だいぶ嫌」


 置き場所。近くに置くもの。ミルク、カップ、砂糖。一拍置いて、氷。アイスを出すなら、たぶん避けられない。けれど、氷のことまで考え始めると、もう説明書だけで済む話ではなかった。


「ホットだけ?」

「九月に?」

「……無しだな」

「アイスラテは? 作るのは楽そうじゃない?」

「氷とミルク入れて、エスプレッソ」

「急に知ってる人みたいに言うじゃん」

「たぶんそう」

「でも、ホットがちゃんとしたカップなら、アイスもグラスの方がよくない?」

「洗うの増えるけど」

「割れるしね」

「割る前提やめろ」


 笑いが混じった。僕はノートの下の方に、ホット/アイス、と書いた。ホットの横には、スチーム、手入れ。アイスの横には、氷、グラス、洗い物、割れ物。どちらも確認はいる。でも、同じラテでも、面倒な場所は少し違う。


「カプチーノはホット寄りだよね」

「じゃあ、ラテとは分けて考えた方がいいか」

「モカも、アイスでいけるならだいぶ違う?」

「チョコが溶けるかとか、混ざるかとかあるけど」

「そこは試さないと分かんないな」


 杉浦が説明書の後ろの方を軽く叩いた。


「とりあえず、これで作れるやつと確認いるやつを分けた方がよくない?」

「確定と、まだのやつ?」

「アイスなら残せそうなのはある」

「ホットはちょっと面倒そう」

「あと、許可次第のやつ」


 僕はノートのページを少し空けて、線を引いた。コーヒー、紅茶、ジュース。そこまでは安定しているように見える。カフェラテは、アイスなら残しやすい。ホットにすると、手入れやスチームの話がついてくる。カプチーノはホット寄り。カフェモカは、チョコをどう混ぜるかで変わる。ラテアートは端に置いたまま、まだ疑問符がついていた。


「これ、メニューにそのまま載せるには早いよな」

「早い」

「出したい候補、くらいなら」

「それなら残せる」


 誰かのシャーペンが、机の上で短く転がった。拾った手が、そのまま説明書のページを押さえる。


 候補。その下に、確認後。名前だけだったものが、少しだけ重くなる。消したわけではない。むしろ、残すために横へ言葉を増やしている。


「これ、こっちだけで決める話じゃなくない?」


 井上が、ノートの端を見ながら言った。


 誰もすぐには返さなかった。カップ、ミルク、氷、チョコ、置き場所。飲み物の名前の横に増えたものは、もうその名前だけでは収まらなかった。


 僕はシャーペンの先をノートに置いたまま、左の方を見た。メニューの紙が置かれている机が、視界の端に入る。


 まだ何も渡していないのに、渡すものだけは先に増えていた。

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