第48話「聞こえていたもの」
小テストの最後の一問は、書けた気もしたし、書けなかった気もした。
五限の英語は、黒板の文字を追っていても、頭が重い。問題用紙が配られてからしばらくすると、教室に残っていた昼のざわつきは、シャーペンの音に少しずつ押し込められていった。
「はい、そこまで」
先生の声で、紙を削る音が止まった。
すぐに背中を伸ばす人もいれば、ぎりぎりまで解答欄を見ている人もいる。前の方で、誰かが小さく息を吐いた。終わって安心したのか、諦めたのかは分からない。
僕は最後の単語を見直した。綴りが合っているのか、見れば見るほど分からなくなる。直すほどの確信もなくて、結局そのままシャーペンを筆箱の横に置いた。
机の端には、英語の教科書が開いたまま置いてある。昼休みのあと急いでめくったせいで、ページの角が少し折れていた。指で押さえる前に、小テストの紙を前へ送る。
「後ろから集めて」
紙が列ごとに前へ流れていく。何枚か重なったところで端がずれて、途中で一度止まった。
「そこ、向き揃えて」
「これでいいすか?」
「……まあ、いいか」
河田の声だった。すぐ前の席から、紙の束を叩く音がする。
「いや、ちょっと曲がってるわ」
「どっち?」
「そのままでいい。読めるし」
何人かが小さく吹き出した。河田が何か言ったけれど、椅子を引く音と重なって、こっちまでははっきり届かなかった。
紙の束が教卓へ集まっていく。黒板の右端には、さっき使った単語がまだ残っている。机の上には英語の教科書と筆箱があって、誰かが閉じたノートの角が、机に軽く当たった。
教室はまだ授業の形を残していた。けれど、小テストの紙が手元から離れたぶんだけ、音の戻り方が少し早かった。
先生は集まった束の端を軽くそろえてから、黒板の右端に残っていた単語を消した。黒板消しが横へ動き、白い粉が少し落ちて、薄い跡だけが残る。英語の授業は終わりかけていたけれど、教室の中はまだ完全には休み時間になっていなかった。
「…前よりは書けてる人、多い気がする」
前の方で、何人かが顔を上げた。
「ほんとですか?」
「見た感じ」
「見た感じかー」
「採点したら違うかもしれん」
「じゃあ言わないでくださいよ」
教卓の近くで声が漏れて、それ以上は広がらなかった。小テストの出来を今ここで確かめる空気ではなくて、点数になる前の軽さだけが、教室の端に少し残った。
先生は紙束を教卓の端へ置いたあと、教室をざっと見た。椅子を引きかけている人もいれば、机に伏せた教科書をそのままにしている人もいる。
「最近、昼休みとか放課後、ちょっと落ち着かないよね」
その言い方に、前の方の数人がすぐ反応した。
「あー」
「学園祭近いんで」
「それは先生たちも分かってる」
先生は黒板消しを置いた。
「君たちのクラスも、もう準備始まってるんでしょ?」
「始まってます」
「何やるの?」
「喫茶店です」
河田の声が前の方から届いた。先生は特に驚いた様子もなく、「ああ」と頷く。
「だから最近、放課後残ってる人多いんだ」
「見られてる」
岡田の声が右の方から混ざった。
「見えるよ、普通に。職員室行く途中で」
「悪いことはしてないです」
「してたら今ここで言わない」
近くで誰かが息を漏らし、少し離れた席からも小さな声が重なった。先生の声は軽いけれど、授業をしている人の声のまま、少しだけ休み時間に近づいていた。
僕の机の上には、まだ英語の教科書が開いたままある。小テストの紙を送ったあと、手元だけが少し空いていた。ページの角はまだ浮いている。喫茶店という言葉は、もう何度も聞いていたはずなのに、それは少し違って聞こえた。
「先生のクラスは何やるんですか?」
佐藤さんの声が、後ろの方から前へ抜けた。
「うちはダンス。昼休みとか曲流してるの、たまに聞こえない?」
「あれ先生のクラスですか」
「たぶんそれ。音量下げろって何回か言ってるんだけどな」
「めっちゃ聞こえてました」
「聞こえるんだよ、あれ」
先生は少し困ったように笑った。怒っているわけではなかった。
昼休みや放課後のどこかで聞こえていた曲の断片や、廊下を通るときに少しだけ見えた人の動きが、ふと浮かんだ。僕たちが家庭科室の棚を開けたり、机の上でカップの話をしていた間に、別の教室では曲を流していた。
「もう曲決まってるんですか?」
「決まってる。だから余計うるさい」
「練習してるから?」
「練習してるから」
「うちも音出ますよ、たぶん」
河田が言った。
「喫茶店で?」
「コーヒーの機械とか」
「それは、まぁ……授業中じゃなければ」
「鳴らしませんって」
「そこは信じたい」
岡田が小さく息を漏らした。大きく盛り上がるわけではない。ただ、先生のクラスの『ダンス』と、自分たちの『喫茶店』が同じ教室に並んでいた。
先生は小テストの束を取り、ちらっと時計を見た。
「まぁ、学園祭が近いのは分かるけど、授業中にまで引っ張りすぎないように」
「先生が引っ張ってます」
「今のは先生の管理下だから」
「管理下」
「そう。あとでちゃんと授業に戻す」
教室のあちこちで、声が小さくほどけた。先生は教室を出るわけではなく、教卓の前に残ったまま小テストの束の端をそろえる。廊下の方から、別のクラスの声が薄く入ってきた。誰かが机を動かすような音も、短く混ざった。
終わりのチャイムが鳴るころには、先生のクラスの話も、英語の授業の最後に混ざったまま教室に残っていた。先生が小テストの束を持って出ていくと、席を立つ人がいて、机に伏せたままの人がいて、英語の教科書を閉じる音が近くで鳴った。誰かが小さく「ダンスかー」と言った声が、机の間に残った。
僕は机の端に残っていた英語の教科書を閉じた。ページの角はまだ少し浮いていて、指で押さえてもすぐには平らにならなかった。シャーペンを筆箱に戻してファスナーを引くと、小さな金具の音がする。
「ダンスはダンスで大変そうだな」
宮本の声がした。
「絶対だるい」
「岡田、すぐそれだな」
「いや、喫茶店でいいだろ。座れるし」
「座れるとは限らないけどな」
何人かの声が重なって、すぐに鞄を開ける音に紛れた。
廊下の方から、別のクラスの声が入ってきた。誰かが笑って、机の脚が床を擦って、すぐにまた少し遠のいた。音楽は聞こえなかった。それでも、さっきまでただの休み時間の音だったものに、曲の前のざわつきみたいなものが混ざっている気がした。
英語の教科書を端に寄せて、次の教科書を出す。机の上は、ほとんど変わっていなかった。廊下の音だけが耳に残っていた。




