第47話「混ざる」
四時間目のチャイムが鳴る少し前から、机の下が少しずつ騒がしくなった。
先生はまだ前で話している。黒板には、さっき書かれた板書が残っている。けれど、教室のあちこちで、鞄のファスナーや筆箱の音が小さく混ざり始めていた。ノートを閉じるには早いから、端だけを揃えて待っている人もいる。
僕も机の中に手を入れて、財布があるのを確かめた。
出すにはまだ早い。でも、一度触ってしまうと、もう授業の方へ気持ちを戻すのは難しかった。指先だけが財布の角を覚えたまま、残りの数分を待つ。
チャイムが鳴った。
挨拶が終わると、椅子の脚がいくつも床を擦った。
「やっと終わった~」
「マジで腹減った」
「日替わり何?」
「知らん。とりあえず早く行こうぜ」
前の方で出た声に、別の机から短い笑いが返った。まだノートに何かを書いている人の横で、財布だけを持って立つ人がいる。机の上では、教科書の隣に弁当箱が出され、閉じかけの筆箱がそのまま端へ寄せられていた。
財布をポケットに入れて立つ。
井上はまだ鞄の中を探っていた。岡田は引き戸の近くで、廊下の方を見ている。宮本は机の端に寄せていた教科書を鞄へしまった。誰かの「腹減った」がもう一度聞こえたけれど、廊下へ出る足音に混ざって、どの声だったか分からなくなった。
廊下へ出ると、隣のクラスから出てきた人たちとすぐに混ざった。
階段へ向かう背中は、列というほど整っていない。少し急ぐ人がいて、その横で立ち止まりかける人がいる。肩が触れそうになるたび、誰かが半歩だけずれる。上履きの音はばらばらなのに、流れだけは同じ方へ寄っていた。
教室の冷房で少し冷えていた腕に、廊下のぬるい空気が戻ってくる。
食堂の入口が近づくと、油と味噌汁の匂いの奥に、洗剤の匂いがうっすらあった。
扉が開くたび、トレーを引く音が外まで漏れる。券売機の前にはもう列ができていて、同じクラスの男子の固まりが、その後ろで少し横に膨らんでいた。
僕はポケットの上から財布を押さえて、列の後ろへ入った。
列は、思ったより早く進んだ。
券売機の前で少し止まる人はいるけれど、長くは止まらない。硬貨の落ちる音、ボタンを押す音、食券が出てくる音が順番に鳴って、そのたびに前の背中が一つずつずれた。
河田は写真を見て少し迷ったあと、結局あまり見ていなかった下の方のボタンを押した。
「それなん?」
「分からん」
「分からんのに押したん?」
「写真がうまそうだった」
それ以上は続かなかった。後ろが詰まりかけて、河田は食券を取って横へずれる。井上も画面を一度見て、いつものあたりを押した。僕もほとんど同じだった。迷う時間だけはあって、押す場所はだいたい決まっていた。
食券を取って、受け取り口へずれる。
トレーの表面は少し湿っていた。隣のトレーと角が触れて、乾いた音がする。奥では皿が置かれ、味噌汁の蓋が鳴っている。カウンターの前は券売機より詰まっていて、人の肩やトレーの端が少しずつ前へ押し出されていた。
皿を受け取って、席へ向かう。
窓から少し離れたところに、同じクラスの固まりがいくつかできていた。もう食べ始めているところもあれば、まだ椅子を引いているところもある。僕らは、その間に空いた席へ入った。
トレーを置くと、味噌汁の蓋が小さく鳴った。
箸袋を破る音が近くで続く。向こうのテーブルでは、日替わりが思ったより薄いとか、逆にこれくらいでいいとか、そういう話をしていた。受け取り口の声はまだ後ろから届いていて、箸袋を破る音や椅子を引く音が、近くで何度も重なった。
僕は箸を割った。片方が少し細くなったけれど、そのまま使う。味噌汁の蓋を外すと、内側についていた水滴がトレーに落ちた。
岡田が一口食べる前に、皿の上を見た。
「これ、放課後までもつかな?」
「今それ考える?」
「腹減るじゃん」
「じゃあ足りないんじゃね」
「雑」
宮本が飯を一口運んでから、岡田の皿を見た。
「岡田、何食ってもあとで腹減ったって言うだろ」
「否定はしない」
「しろよ」
近くの席で吹き出す声がして、向こうのテーブルでは椅子の脚が鳴った。岡田の返事の端が、その中で少し聞こえにくくなった。
藤森が水のコップを置いた。
「でも、どうせそんな残れないでしょ」
「部活あるしな」
「じゃあ今のでいいじゃん」
岡田は皿の端を箸で寄せた。
「……五限終わったら分からん」
「もう昼飯の話じゃない」
「昼飯の続きの話」
井上が箸を止めて、顔だけ上げた。
「五限、英語だっけ?」
「英語」
「小テストある?」
「あるよ」
「……聞いてない」
「知ってると思ってた」
その返事のあと、近くの席から短い笑いが漏れた。
そこで受け取り口の方から、大きめの声が伸びた。近くの席の一人がそちらを振り返る。机の下で椅子の脚が鳴って、話は一度そこで切れた。
僕は一口目を食べた。
まだ熱が残っていて、喉を通るまで少しだけ時間がかかった。午前中の授業で固まっていた身体が、遅れてほどける。目の前では岡田がもう次の一口を運んでいて、河田はさっき選んだ皿を見ながら、何も言わずに箸を進めていた。
向こうの席で、日替わりの話がまだ続いている。受け取り口の声は少し遠くなって、返却口の方では早い人の皿の音が鳴り始めていた。
味噌汁を飲むと、椀の縁についた水滴が指に触れた。隣の席では、部活の集合時間の話が始まっている。向こうではまだ肉が薄いとか厚いとか言っている。
食べ終わる頃には、返却口の方の音が増えていた。
椅子を引く音が、近くと遠くでずれて鳴る。トレーを持って立つ人が何人かいて、そのたびに机の間を抜ける人が少し身をよけた。向こうの席では、まだ日替わりの話をしている。さっきより声は小さくなっていたけれど、終わった感じはなかった。
岡田が最後の一口を飲み込んで、箸を置いた。
「やっぱ購買寄るかも」
「もう?」
「五限のあと」
「早いな」
その返事は、返却口から響いた皿の音に少し削られた。岡田はもうトレーを持って立っている。河田も続いて立ち、椅子の脚が床に引っかかって短く鳴った。
僕もトレーを持った。
皿の熱はもうほとんど残っていない。味噌汁の椀の底だけが少し温かかった。席を離れると、さっきまでいた場所がすぐ別の声で埋まる。
返却口の前は、列というほどではないが、少し詰まっていた。
前の人がトレーを滑らせる。皿が重なり、奥で水の流れる音がする。僕もその隣へトレーを置いた。手を離すと、指先に残っていた重さが急になくなった。
食堂を出ると、廊下の音が少し遠くなった。
油と洗剤の匂いが、制服の袖に少しだけ残っている気がする。階段へ向かう人の流れは、来たときよりもばらけていた。急いで戻る人、自販機の前で止まる人、まだ何かを話しながら歩く人。足音は一つに揃わないまま、上へ向かっていく。
教室に戻ると、前の方で弁当箱をしまう音が鳴っていた。窓際では、教科書を出したまま机に伏せている人がいる。黒板には四時間目の跡が薄く残っているだけで、学園祭の文字はどこにもない。チョークの粉が下の溝に溜まっていた。
僕は自分の席に戻って、英語の教科書を机に置いた。
ページを開く前に、ポケットの中の財布を奥へ押し込む。指先には、返却口で触れたトレーの冷たさが少し残っていた。
予鈴は、まだ鳴っていなかった。




