第46話「紙の外へ」
机の上の紙は、まだ片づいていなかった。
誰かが書いた文字の横に、別の手が線を足した。丸をつける音はほとんどしないのに、シャーペンの先が紙を引っかくたび、そこだけ少し濃く見えた。ファイルの角が重なって、ノートの端が浮いていた。黒板の方では、別の係の声がまだ続いている。
僕の前の紙には、短い単語がいくつか残っていた。
カップ。砂糖。氷。
それから、少し離れて、マシン。
家の話として出てきたものが、紙の上ではただの項目になっていた。それでも、そこだけはまだ、さっきの声が残っている気がした。
杉浦は、その近くにいた。
椅子には座らず、机からも離れない。片手を机の端に置いたまま、ペンを転がしている。紙の上に残った『マシン』という文字だけが、まだ杉浦の方を向いているように見えた。
「マシンだけあっても、足りないよな」
「カップとか?」
「カップもだし、置く場所とか。あと、電源」
杉浦はそこで一度止めた。
「家で使うのと、学校で使うの、たぶん違うし」
言われてみれば、当たり前だった。家に置かれているものと、何十人分かを回すものは、同じ機械でも、たぶん違う。
藤森は少しだけ頷いた。
「じゃあ、学校にも期待しとく?」
「期待しすぎると怖い」
「それはそう」
杉浦の口元が少しだけ動いた。
僕はノートの端を押さえた。先生、という文字の横に、家庭科室、準備室、と短く並んでいた。
「先生に聞きに行く?」
言ってから、僕の声が思ったより小さかったことに気づいた。けれど、近くにいた二人には届いていた。
藤森が紙から指を離す。
「水野、ノート持ってきて」
「これ?」
「それ。俺、鍵借りる役するから」
「役って」
「今決めた」
井上は少し離れた机に肘をついて、こちらを見ていた。何かを言う気はなさそうだったが、僕がノートを閉じかけると、指先だけで机を軽く叩いた。
「閉じなくてよくない?」
「中、ぐちゃぐちゃだけど」
「どうせ増えるし」
それもそうだった。
ノートを開いたまま持つ。ページの端が指に当たって、少しだけ曲がった。
教室を出るときも、後ろの声は止まらなかった。紙をめくる音、誰かが短く笑う声、机の上で物を寄せる音。
職員室までの廊下は、教室より白かった。
九月の湿り気はまだ残っている。閉じた窓の下、壁際の空気だけが温い。蛍光灯の光は明るいのに、どこか乾ききらないまま床へ落ちていた。
藤森は少し前を歩き、杉浦はその横についた。僕は半歩後ろで、ノートを片手で押さえていた。足音は、うまく揃わなかった。誰かがわざと遅いわけでも、先に行きたいわけでもない。歩幅だけが、少し違っていた。
「学校にも、同じようなのあったら楽だよな」
「マシン?」
「うん。まぁ使えるかどうかは別だけど」
藤森が前を向いたまま、軽く息を吐く。
「学校の備品って、そこが怖いよな」
「置いてあるだけの可能性あるし」
「ありそう」
杉浦が少し嫌そうに言って、すぐ黙った。
廊下の先で、職員室の扉が開いているのが見えた。
先生は自分の机で書類を揃えていた。僕たちが近づくと、顔を上げる前に、手元の書類を一度机に置いた。
「どうした?」
「学園祭のことで、家庭科室にあるものを少し見てもいいですか?」
藤森が、横から少しだけ紙を見せた。
「カップとか、置き場所とか。あと、もし機械類があれば、それも見るだけ見たいです」
先生は紙を受け取らずに、そこに並んだ文字だけを見た。
「コーヒーのやつ?」
「たぶん、その辺です」
「たぶんで機械触るなよ」
先生はそう言って、少しだけ笑った。責める感じではなかった。
「家庭科室なら鍵あるから、見るのはいい。電源入れるのはなし。棚の奥のやつも、動かすなら呼べ」
「はい」
藤森が少しだけ頷いた。
「持ってくるかどうかは後で先生に言え。食器は数だけなら見ていいけど、出しっぱなしにするなよ。戻す場所、分かんなくなるから」
「戻します」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るな」
その言い方に、杉浦が少しだけ笑った。先生も深く追わなかった。
先生は職員室の壁際にある鍵掛けから、番号札のついた鍵をひとつ外した。
「家庭科室、これだな」
短い金属音がした。
「終わったらちゃんと返しに来いよ」
「ありがとうございます」
藤森が鍵を受け取る。僕と杉浦も軽く頭を下げた。
職員室を出てから、藤森が手の中の鍵を見た。
「鍵借りる役、成功」
「役ってそれだけ?」
「今のところ」
「薄いな」
「水野のノート役よりは重い」
「いや、俺は役じゃない」
思ったよりすぐ返していた。藤森が少しだけ目を細める。
「じゃあ、ノート持ってる人?」
「雑」
「丁寧に言っても一緒でしょ」
杉浦が隣で小さく笑った。さっきまでより、少し歩く速度が近くなっていた。
家庭科室の前で、藤森が鍵を差した。一度目は、上手く回らなかった。
「逆じゃない?」
「今、確認してる」
「それ失敗した人の言い方」
藤森は返さず、鍵を差し直した。今度は短く音がして、扉が少し重く動く。
中に入る前に、匂いが変わった。
洗剤と金属。奥の方から、長くしまわれていた布のような匂いがする。教室の紙や人の声とは違う。人のいない場所に、物だけが残っている匂いだった。
藤森がスイッチを押す。
蛍光灯が少し遅れてついた。白い光が、作業台の角と流し台の傷を順番に浮かばせる。棚のガラスに、僕たちの制服が薄く映った。
「食器は…こっちか」
藤森が棚を開ける。
カップはいくつか並んでいた。柄も形も揃っていない。ソーサーらしい皿もあったが、ひと目で数える気にはならなかった。全部がきちんと揃っている棚ではなかった。
僕はノートを開く。けれど、数字はまだ書かなかった。
「あるにはある」
「揃ってはなさそう」
「うん」
しばらく、三人で棚を見ていた。
藤森が棚の扉を押さえたまま、少し奥を見る。
「あれ」
杉浦の視線が動いた。
棚の奥、段ボール箱と金属のボウルの間に、黒い機械が置かれていた。最初は影かと思った。けれど、目が慣れると、丸い取っ手と、細い銀色の管が見えた。
杉浦が半歩だけ近づいた。
「エスプレッソマシン、っぽい?」
声だけが、少し低くなった。
機械は、家庭用というには少し大きかった。店にあるものほどではない。側面には薄く埃がついていて、コードだけはきれいに巻かれていた。最後に使われた時期は分からなかった。
杉浦の手が、少しだけ上がって、すぐに止まった。
「…触らん方がいいか」
藤森は棚の扉を持ったまま頷く。
「先生、電源入れるなって言ってたし」
「電源どころか、動かすのも怖い」
杉浦はそう言って、手を下ろした。
僕はノートに、エスプレッソマシン、と書いた。その下に、何も書けないまま短い線だけ引く。ペン先の黒だけが、紙の上に少し濃く残った。
機械は棚の奥に置かれたままだった。動くのか、壊れているのか、誰がいつ使ったのか、分からない。分からないまま、そこにある。
「これ、使えたら」
杉浦はそこで止めた。棚の奥を見たまま、上げかけた手を少し握る。最後の言葉は出なかった。
藤森も急がなかった。棚の中を見たまま、少しだけ肩を落とす。
「まあ、使えたら、だな」
「使えるかは別」
僕はノートの端を指で押さえた。ページが少し浮く。ノートが、少し扱いにくかった。
家庭科室の中は静かだった。
棚の奥の機械は、隙間の向こうで動かないままだった。流し台の金属だけが蛍光灯を受けて白く光っている。窓の外の明るさはまだ夏の端に近くて、けれど教室より少し遠い。
藤森が棚の扉を閉める。完全には閉めなかった。指一本分ほどの隙間が残る。
「……戻るか」
杉浦は頷いた。棚の隙間をもう一度だけ見てから、何も触らずに一歩下がった。僕もノートを閉じた。ページの端が少しだけはみ出して、親指で押さえ直した。
廊下に出ると、扉が重く閉まった。
鍵を回す音が短く響く。藤森が鍵を抜く。手の中で、金属が小さく鳴った。
藤森が歩き始めた。
「思ったより、色々あったな」
「使えるかは別」
「そればっかりじゃん」
「便利だし」
「便利で済ますな」
そのくらいの軽さで、廊下を戻った。
角を曲がると、教室の声が聞こえてきた。まだ、同じ時間が続いていた。紙に何かを書き足す声と、それを覗き込む声が、扉の向こうで重なっていた。
藤森の手の中で、もう一度鍵が鳴った。
僕はノートの端を押さえたまま、その音を持って教室へ戻った。




