第45話「朝の音、棚の皿」
終礼のあと、教室はすぐには軽くならなかった。
席を立つ音はいつも通りあった。椅子の脚が床を擦って、部活へ向かう鞄が肩に掛けられて、廊下へ出ていく声が少しずつ遠くなる。けれど、全員が同じ方向へ流れていくわけではなかった。残る人たちの机には、教科書とは別のファイルや、前に使ったメモが出てくる。筆箱のファスナーが短く鳴って、誰かが椅子を後ろ向きに引き寄せた。
僕の机の周りにも、自然に何人かが残った。
井上は近くの席から身体だけこちらへ向けて、肘をつく手前みたいな姿勢で机を見ていた。ドリンクの話をするなら、結局ここになるらしい。僕は鞄を動かさないまま、机の端に開いたファイルを押さえた。
「全自動のやつ、家で見てきた」
向かいに立った男子が、鞄の肩紐を片方だけ掛け直しながら言った。
「持ってこられそうなん?」
「たぶん。親に聞いたら『壊さないならいい』って」
「それ、いいって言ってる?」
「条件付きでいいってことにしといて」
井上が薄く息を漏らした。
「壊さないならって、一番怖いやつじゃん」
「だから、先に写真撮ってくる。あと説明書も探す」
「杉浦、説明書あるん?」
「父親がそういうの捨てない人なんだよ。箱とかも取ってる」
僕はペンを持ったまま、その言葉のところで少し止まった。箱まで取ってある全自動マシン、というのが、教室には少し似合わない。けれど、その言い方には大げさな感じがなかった。
「ていうか、家に全自動のマシンあるの、普通にすごいな」
「父親がコーヒー好きでさ。朝、台所でずっと鳴ってる」
「勝手に?」
「豆挽く音。うるっさいやつ」
「朝からそれは強い」
「慣れると目覚ましみたいになる」
井上が「嫌な目覚まし」と小さく言うと、近くで笑いが少しだけ起きた。
笑いが少し混じっても、話は軽くなりきらなかった。家から持ってこられるかもしれない、というだけで、使えるものが増えたわけではない。何杯続けて出せるのか、ラテ系までできるのか、学校で使っていいのか。考えることは、言葉にするとすぐ増えた。
「カフェラテとか、いけそう?」
「ボタンはあった気がする。でも、父親がブラックしか飲まんから、ちゃんと使えるかは分からん」
「じゃあ、そこはまだ確定じゃないな」
「うん。牛乳使うやつ、掃除面倒とか言ってた気もする」
「掃除」
「そこ一番大事かもね」
井上が、急に面倒そうな顔をした。けれど、その顔のまま逃げるわけではない。ファイルの端を指で押さえて、必要そうなところだけ目で拾っている。
窓際で、岡田の声が少し大きくなった。
「トレーそんなあるん?」
その一言で、こちらの机でも何人かが顔を上げた。岡田の向かいで、女子が手元の紙を押さえたまま首を傾ける。横にいる藤森は、椅子の背に軽く手を置いたまま、岡田の勢いをそのまま受けていた。
「ちゃんと数えたら違うかもだけど、トレーは六枚か七枚くらい。スタンドは三つ、もしかしたら四つ」
「西野さんち、店でもやってる?」
「やってない」
「いや、家にある量じゃなくない?」
「お母さんが人呼ぶときに出すの好きなんだよね。紅茶とか、お菓子とか。棚に入ってる」
「棚にケーキスタンド入ってる家、初めて聞いた」
「わたしも普通だとは思ってない」
西野さんの声が、少しだけ照れたように低くなった。自慢しているのではなく、家にあるものを言っているだけだった。けれど、その「家にあるもの」の形が、僕の家の感覚とは少し違う。
「でも、三つ四つあっても足りないよね?」
「全部の机に置くなら足りない。見本置くところとか、入口側だけなら使えるかも」
「木下さん、それって内装の方でもいる?」
藤森の声は強くなかった。話をまとめるというより、近くの机へ自然に渡すくらいの温度だった。
反対側では、木下さんがノートを見ていた。何人かと一緒に、卓上メニューの大きさを比べている。呼ばれてから顔を上げるまでに、ほんの短い間があった。
「全部の席には、なくてもいいと思う。置くなら入口の見本とか、窓側のところとか」
「窓側?」
「休む席を作るなら、そこだけ少し見た目を変えてもいいかなって」
言い終えると、木下さんはまたノートの方へ視線を落とした。自分が前に出る声ではなかった。見ていたものから、必要な分だけ出てきた言葉だった。
「じゃあ、足りない分は学校にあるか聞く?」
「家庭科室とか?」
「用務室も?」
「いきなり行くより、先生に聞いた方が早くない?」
岡田がペンを指で回そうとして、落としかけた。机に当たる前に掴み直して、「あぶな」と小さく言う。藤森がそれを見て、目元だけで笑った。
「岡田、備品より先にペン壊しそう」
「今のは守っただろ」
「守ったって言うほどでもない」
「判定厳し」
そのやり取りの向こうで、佐藤さんの声が一度だけ明るく通った。
「河田、今の言い方だと注文じゃなくて呼び込み」
少し間があって、河田の声が返る。
「いや、元気ある方がよくない?」
「元気と圧は違う」
「圧って言うな」
接客の練習をしているらしい机の周りで、小さな笑いが起きる。教室全体が一つにまとまって騒ぐのではなく、それぞれの机で別々の笑いが生まれて、少しだけ重なった。
僕は、自分の机に戻るように視線を落とした。
ファイルの端に、カップ、ソーサー、砂糖、ミルク、氷と並んでいる。そこへ、マシンの写真、説明書、学校の許可、という言葉が増える。文字だけ見れば事務的なのに、さっきの会話がくっつくと、ただの確認事項には見えなかった。
「水野、カップって、マシンのやつと合わせないとだめ?」
「たぶん。高さ入らなかったら使えないし」
「高さ?」
「注ぎ口の下に入るかどうか」
「あー、そこあるか」
「写真あれば分かるかも」
杉浦が、自分のスマホを一度見てから、画面を伏せる。
「帰ったら撮るわ。父親に勝手に触るなって言われそうだけど」
「そこはちゃんと許可取って」
「取るよ。俺も壊したくないし」
井上が、机の上のファイルを指先で少しだけ押した。
「持ってくる前に、学校で使えるか聞くの先じゃない?」
「だね。コンセントとか、置く場所とか」
「あと、匂いとか大丈夫なん?」
「コーヒーの?」
「教室、思ったより残るんじゃない」
「それも聞く?」
考えるほど、すぐに答えが出ないものばかりだった。けれど、その答えのなさは、前より嫌ではなかった。決められないから止まるのではなく、ただ確かめる場所が増えていく。
窓際では、トレーの枚数を数える声が続いている。
「スタンド三つなら、ひとつは見本で使って、残りはスイーツ置くところ?」
「でも、実際に食べ物乗せるなら衛生面もあるよね」
「家のやつ、そのまま使っていいのかな?」
「洗えばよくない?」
「いや、学校で使うなら先生に確認いると思う」
西野さんの声が、少しだけ慎重になる。母親に聞く、という言葉も出た。持ってこられるかもしれないものが、そこで少しだけ家へ戻っていく。
「お母さんに学園祭で使うって言ったら、何て言われるん?」
「普通に、『割らないでね』って言われると思う」
「そりゃそうか」
「割ったら終わりだし」
「終わるな」
「岡田、持つ側じゃなくてよかったね」
「俺そんな信用ない?」
「ないとは言ってない」
「言ってるようなもんじゃん」
また笑いが起きた。大きすぎない笑いだった。教室に残った人の数に合うくらいの、机の周りでほどける笑い。
窓の外はまだ明るかった。九月の光は、夏のまま居座っているようで、少しだけ薄くなっている。廊下を走る声はもう遠く、教室に残った音だけが、机の高さに低く集まっていた。
木下さんの方では、ノートの上に小さく線が引かれている。佐藤さんは河田に何か言いながら、注文を取るときの言葉をもう一度言わせている。藤森は岡田の軽口を受け流しながら、向かいの紙に目を落としている。井上は面倒そうな顔のまま、必要なところだけはちゃんと聞いていた。
僕はペン先を止めたまま、少しだけ耳を澄ませた。
教室の中で聞こえているのは、学園祭の話だけではなかった。いつもの朝の情景。親の趣味嗜好。そういう小さな生活の端が、机の上に少しずつ置かれていく。
「写真、明日でいい?」
「いいと思う」
「説明書も?」
「あるなら」
「なかったら?」
「父親に聞く」
杉浦の答えに、井上が短く笑った。
「最終的に父親頼みじゃん」
「うちの父親、コーヒーだけは詳しいから」
「だけは」
「『だけ』は余計」
その声に、近くの机でまた笑いが混じった。
僕は、書きかけていた線を一度だけ引き直した。窓から入った風で、机の端に置いていた紙がわずかに浮く。隣の席の誰かが手を伸ばして、それを押さえた。




