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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第44話「変わる放課後」

 終礼前の教室には、久しぶりに重さが残っていた。


 午前だけで帰っていた一週間と、まだどこか浮いた夏休みのあとでは、七時間分の授業が思っていたより深く身体に残る。


 最後の授業で使った教科書は机の端に寄せられ、ノートの上には消しゴムの屑が細く散っていた。筆箱のファスナーを引く音も、いつもより少し遅い。閉じる、仕舞う、鞄に入れる。その一つ一つが、午後の終わりに引っかかっていた。


 窓の外はまだ明るい。九月に入ったのに、光だけは夏の方に残っている。冷房の風は天井の方から落ちてくるけれど、人の多い教室の底には、抜け切らない熱がある。椅子に背中を預けると、制服の布越しに、朝から座り続けた硬さが戻ってきた。


 僕はノートの端にある文字を見た。


 ドリンク。


 午前中から、その文字は何度か見え隠れしていた。授業が変わるたびに教科書を入れ替えて、ノートを閉じて、また開く。そのたびに、ページの端に小さく書いた係名が目に入った。係決めの時間はとっくに過ぎている。黒板も授業のたびに塗り替えられ、朝の字など残っていない。それでも、自分の手元だけには、その時間の続きがまだ薄く残っていた。


 先生が教卓の前に立つと、教室の声がゆるく下がった。すぐに静まりきるほどではなく、疲れた声の端だけが机の間に残る。


「授業中にも言ったけど、今日からは放課後も学園祭の準備を進める」


 先生の声は短く、教室に落ちた。


「まぁでも今日は、係ごとに確認くらいでいい。まだやれることも多くないだろうしな」


 何人かが、自分のノートやファイルを見た。黒板ではなく、手元を見る人が多かった。朝のうちに書いたメモを探しているのか、隣の席の人に小さく聞いているのか、視線が前ではなく横へ流れていく。


「部活あるやつは、ちゃんと顧問に確認して動けよ。勝手に遅れて怒られるな。どうしても出られないやつは、同じ係にあとで聞いとくように」


 先生はそこで教室を一度見回した。


「じゃあ終礼終わり。机動かすなら、周り見てからな」


 椅子を引く音が広がった。


 いつもなら、それは教室から外へ向かっていく。鞄を持つ音、引き戸が開く音、廊下へ流れていく声。それが少しずつ重なって、教室の中が薄くなる。でも今日は、椅子を引いた人の多くが、立ち上がったあともその場に残った。鞄を肩にかけるより先に、ノートやファイルだけを持つ。机の横へ置き直した鞄の紐が、床に触れて短く鳴った。


 疲れているのに、帰る空気ではなかった。


 それが少し不思議だった。みんな眠そうな顔をしている。午後まで授業を受けたあとの目の重さは、誰の顔にも薄くある。欠伸を嚙み殺している人もいたし、机に手をついたまま暫く動かない人もいた。それでも、教室から人が減っていく感じはしない。終礼が終わったことで、別の用事へ向きを変えていた。


「ドリンクってどこ?」

「後ろの方でよくない?」

「接客、前使う?」

「仕入れの人、誰いる?」

「会計、出入口見た方がよさそうじゃない?」


 そんな声が、あちこちから上がった。誰か一人が前に出て仕切るわけではない。朝に決まった係を、それぞれが自分のノートや記憶から引っ張り出して、近くの人へ声をかけている。机を大きく動かすほどの元気はまだないけれど、椅子の向きが少しずつ変わり、ファイルを持った人が二、三歩だけ移動する。それだけで、前を向いていた教室が、いくつかの小さな輪にほどけていった。


 廊下からも、似たような音が聞こえた。隣のクラスで机の脚が床を擦り、誰かが笑う。部活へ行くのか、鞄を肩にかけたまま廊下を通る生徒の足音も混ざる。けれど、学校全体が一斉に外へ流れていく感じではない。教室ごとに少しずつ、人の熱が残っている。


 僕はノートを閉じずに、机の上へ置いたままにした。


 近くで井上が椅子の向きを斜めに変える。頬杖をつきかけて、すぐに止めた。眠そうではある。でも帰る動きではない。机の端に置いたファイルを指で少しだけずらして、僕のノートを見た。


「ドリンク、ここでいいん?」

「たぶん。誰か後ろって言ってたし」

「誰か」

「分からん。声だけ」

「水野っぽい」

「何が」

「確認が雑」

「じゃあ井上が確認して」

「それは違う」


 気力があるのかないのか分からない声だった。けれど、席を立つでもなく、机の上に肘を置いている。


 隣の列から、ノートを持った女子が一人寄ってきた。少し遅れて、ファイルを抱えた男子も椅子を引く。授業中はそれぞれ別の席に向いていた人たちが、係の名前で同じ机の周りに集まってくる。四月の頃なら、同じ係になっても、声をかけるまでにもう少し時間がかかったと思う。今は、誰かが一言置くと、そのまま輪の端に入ってくる。


「ドリンク、何から確認する?」

「前に出たやつ、結構多かったよね」

「コーヒーと紅茶は決まりっぽいけど」

「ジュースもいるでしょ。小さい子も来るだろうし」

「ラテとカプチーノって、機械の確認いるよね」

「全自動のやつ、何台使えるかじゃない?」

「一台だと詰まるって話、前してなかった?」


 前に出ていたものが、少しずつ机の上へ戻ってくる。コーヒー、紅茶、ジュース。ラテ、カプチーノ。ミルクティー、レモンティー。カフェモカは、できたら、という言い方で誰かが口にした。


「エスプレッソマシンって、学校にあるか聞くみたいな話じゃなかった?」

「全自動だけで足りるかも確認じゃない?」

「ラテ系続いたら待つって話あったし」

「じゃあ、機械の台数と、使えるメニュー?」

「あと、誰が使うか」

「練習いるよね、普通に」


 井上が、僕のノートを顎で示す。


「書いとけば?」

「俺が?」

「もう書いてるし」

「係名だけな」

「じゃあ続き」

「お前な…」


 雑な押しつけ方だった。でも、断るほどでもない。僕はページの端に、朝書いた『ドリンク』の下へ少し間を空けて、機械台数、使えるメニュー、練習、と書いた。


 文字にすると、飲み物の名前よりもずっと現実的に見えた。喫茶店という言葉には少しだけ綺麗な響きがあるのに、実際に近づくと、机の上に出てくるのは台数とか練習とか、そういうものばかりだった。


「氷は?」

「冷たいの出すならいるんじゃない?」

「管理めんどそ~」

「それ備品と相談?」

「カップとか砂糖とかミルクも、備品と分けるやつだよね」

「でもドリンクで使うし」

「じゃあ、備品に聞くことにしとけばよくない?」


 聞くこと、という欄を作って、カップ、砂糖、ミルク、氷、と書く。どれも自分たちだけでは決められない。けれど、何を聞けばいいか分かるだけで、少しだけ前へ進んだ気がした。


 前の方で、河田の声がした。


「落ち着いた接客って、つまり何?」

「声の大きさじゃない?」

「俺、声の大きさならいけるけど」

「いや、河田とは真逆の意味ね」

「ひど」

「注文聞く人と、席見る人は分けた方がよくない?」


 佐藤さんの声がそこへ入る。


「最初に言うこと決めとけば? いらっしゃいませ、とか、注文伺います、とか」

「うわ、接客っぽい」

「接客係だし」

「河田は?」

「俺は雰囲気担当」

「一番向いてないじゃん」

「なんでだよ」


 前の方で笑いが起きた。けれど、そこには佐藤さんと河田だけではなく、他の男子も女子もいた。注文をどこで聞くか、席に案内する人を置くか、紙に書くか。言葉はまだ揃わない。でも、前に出ていた「落ち着いた接客」という言葉が、少しずつ動きの話へ変わり始めている。


 その声から少し左へ目を移すと、廊下側の机周辺で、宮本たちが出入口の方を見ていた。宮本はその中にいて、机に片手を置いたまま、周りの話を聞いている。腕を組んで仕切る感じではない。けれど、他の人より少し落ち着いて見えた。


「前に出た通り、入口と出口は分けるとして…」

「出口側に会計置くなら、この辺?」

「ここ、机置いたら狭くない?」

「注文と会計が近いと詰まりそう」

「入口でメニュー見て、席で注文?」

「でも席まで行く人いるよね」


 宮本の低い声が、短く入る。


「出口側に会計置くなら、人が止まる場所だけ見といた方がいいな」

「止まる場所?」

「払う人が並ぶところ。入口とぶつかると面倒そう」

「じゃあ、今日決めるより、教室の机の数出してから?」

「その方がよさそう」


 宮本はそれ以上、全体をまとめようとはしなかった。見えたことを一つ置くと、また周りの話に目を戻した。


 その後ろでは、木下さんたちが机の上に紙を広げていた。誰かがノートの端に四角を描いている。入口に置く大きいメニューと、机に置くメニュー。その二つの話をしているらしかった。


「入口の大きいやつは、全体が分かればいいんだよね」

「卓上は細かい値段とか、セットとか?」

「何枚いる?」

「席数決まらないと分かんなくない?」

「でも、だいたいの形だけ先に作れそう」


 木下さんは、すぐに前へ出るわけではなかった。紙の上を見て、それから短く声を置く。


「入口の方は、見やすさ優先でいいと思う」

「卓上は?」

「席で見るなら、あまり詰めすぎない方がいいかな」


 その言い方は、全体を動かすものではなかった。けれど、輪の中に置かれた言葉としては十分だったらしく、近くの女子が「たしかに」と返す。誰かが紙の端に小さく書き始めた。


 クロスの色は白系でいいのか、スタンドは何個いるのか、席の配置や装飾はどうするのか。観葉植物という言葉が聞こえて、誰かが「学校にある?」と笑いながら言った。木下さんはその笑いに大きく乗るわけではない。ただ、紙の上に目を落としたまま、少しだけ口元をやわらげていた。


 視線を前へ戻すと、窓側の方で岡田が鞄を遊ばせながら話していた。藤森は少し横で、岡田の軽口を受けながら、周りの話を聞いている。


「仕入れ・備品て、地味に一番めんどいやつじゃね?」

「でも、ないと何もできないやつでしょ」

「正論やめろ」

「カップ、ソーサー、クロス、スタンド」

「マシンとか、機械系もこっち?」

「ドリンクと一緒に確認じゃない?」

「じゃあ備品とドリンクで話すやつか」

「もう既に面倒」

「係だからね」


 藤森が言うと、近くの人が小さく笑った。ファイルを開いた男子が、備品の名前の横に小さく丸をつける。別の女子は、クロスとスタンドのところだけ線を引いていた。


 少しずつ、部活へ向かう人たちが動き始めた。


 先に動いた男子が一人、鞄を肩にかけたまま、同じ係の人に「ごめん、また明日聞かせて」と短く言って廊下へ出ていった。他にも何人かが、完全に抜けるというより、今日の確認を聞いてから輪の端を離れていく。出られるところまでは出て、部活へ向かう。そういう動きだった。


 岡田が鞄を持ち直す。


「俺らもそろそろ行くわ」


 窓側の方から声が上がった。


「明日、学校にあるもの聞けたら聞いといて」

「誰に?」

「先生とか、用務室とか」

「急に具体的」

「係だから」

「係、急に重いな」


 藤森が少し笑って、岡田の隣に立つ。


「とりあえず、分かる範囲でいいんじゃない」

「藤森が言うと逃げ道ある感じするな」

「逃げ道じゃなくて現実的って言って」

「はいはい、現実的」


 岡田は軽く手を上げて、廊下へ向かった。藤森もその少し後ろをついていく。引き戸の音がして、二人の声が廊下の騒めきに混ざった。


 河田も少し遅れて、前の方の輪から鞄を持ち上げた。


「俺も行くわ。接客の神、部活です」

「神なら最後までいろよ」


 近くの男子が言うと、佐藤さんがすぐに続けた。


「ほんとそれ。神、確認だけして帰らんで」

「神にも部活があるんよ」

「普通に人じゃん」

「神と人の兼業」

「戻ってきたら、落ち着いた接客の練習ね」

「それ俺に一番向いてないやつでは?」


 河田の声に、周りが笑った。けれど、その笑いは長く引っ張られなかった。河田が抜けても、接客の輪は残っている。接客時の言葉や口調という話が、そのまま続いていく。


 何人かが抜けたあと、教室の音は一段だけ落ちた。


 静かになったわけではない。残っている人数はまだ多い。ただ、部活へ向かう人たちの鞄の音や、廊下へ抜ける声が減った分、机の高さで続く話が聞こえやすくなった。ファイルをめくる音、ノートに何かを書き足す音、椅子の脚が短く床を擦る音。疲れた身体の底で、別の時間が始まっていた。


 井上が僕のノートを横から覗く。


「結局、ドリンクだけで確認多くない?」

「多い」

「機械、メニュー、備品、練習」

「あと氷」

「氷、忘れそう」

「書いた」

「えら」


 軽すぎる褒め方だった。僕は返事をせず、ノートの端にもう一つ線を引く。ドリンク係で決めることと、他の係に確認することが、少しずつ分かれてきた。全自動マシンの台数。ラテ系をどこまで出すか。カフェモカはいけるのか。カップやソーサー、砂糖やミルク、氷は備品側と確認。練習が必要なら、いつやるか。


 まだ何も決まっていない。


 けれど、前に出ていた言葉が、少しずつ手元の作業へ移っている。


「思ったより、ちゃんと喫茶店だな」


 机の向こうの男子が言った。


「今さら?」

「いや、なんか、話してる時はふわふわしてたけど」

「係になると急に現実っぽいよね」

「現実っぽい、だるい」

「だるい言うな」


 井上が低く言って、誰かが笑った。


 僕も少しだけ笑いそうになった。でも、声にはならなかった。ノートの端に増えていく言葉を見る。機械台数。練習。備品確認。ラテ系。カフェモカ。氷。管理。どれもまだ決まったものではなく、むしろ決める前に確かめるものばかりだった。


 それでも、その文字が増えるたびに、少しずつ実感が湧いてくる。


 教室のあちこちで、同じようなことが起きていた。入口の大きいメニューと卓上メニューの役割が紙の上で分けられ、接客での言葉が確かめられ、出口側の机の位置が何度も見られ、明日聞くことを誰かのノートにまとめていた。


 誰か一人の声で動いているわけではないのに、教室は少しずつ動いていた。みんな疲れているはずなのに、終礼後の教室がそのまま終わりへは向かわない。夏休み明けの身体の重さを抱えたまま、少しずつ机の向きを変えて、既に出ていた案を自分たちの手元へ引き寄せている。


 窓の外の白さは、まだ夏の方に寄っていた。冷房の風でノートの端がわずかに浮き、僕は指先で押さえる。


 終礼はもう終わっている。


 それでも、教室での時間はまだ終わらない。


 ノートの端に書いた『ドリンク』の下には、決まったものではなく、これから確かめるものばかりが並んでいた。どれも、かすれそうなほど薄い字だった。


 それなのに、その字から目が離せなかった。

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