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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第43話「手元に残る」

 教科書は、開いたままだった。


 活字はきれいに揃っているのに、教室の中で動いているものはそこではなかった。先生のチョークが黒板に触れて、さっき書かれた「学園祭」の下に、新しい線が引かれる。


 蛍光灯の白さの中に、窓から外の熱だけが薄く入ってくる。廊下の方から、別の教室の笑い声が短く流れてきた。授業中のはずなのに、学校全体が別の時間へ傾いているみたいだった。


 黒板の字は、やっぱり前より遠い。


 席が変わっただけで、教室の広さまで少し変わって見えた。前の方でチョークの粉が落ちる。その白さが見えているのに、音だけが一拍遅れて届く。


 先生が、教卓の端に置いた教科書を閉じた。


「今日は、係まで決めるぞ。学園祭まで、もうそんなに余裕ないからな」


 教室のあちこちで、椅子の脚が床を擦った。机の上に置かれたノートやファイルが少しずれて、誰かが小さく息を吐く。


「出すものとか、教室の使い方はだいぶ見えてきた。だから今日は、誰がどこを担当するかまで決める」


 黒板に、先生の字が並んでいく。


 ドリンク。

 メニュー・内装。

 接客・注文。

 会計・導線。

 仕入れ・備品。


 一つずつ書かれるたび、ただの案だったものが、少しずつ逃げ場のない形を持っていく。文字になっただけなのに、それぞれの下に誰かの名前が入るのだと分かると、教室の空気が一度、固まった。


「ドリンクって何するんですか?」


 前の方から声が上がった。


「コーヒー、紅茶、ラテ系、その辺りだな。あとは当日の提供まわり。細かいことは、担当になった人たちで詰めてもらう」

「ラテ系、練習いるやつじゃん」

「カプチーノとか、名前だけで難しそう」

「ラテ系やってみたい、わたし」

「コーヒー無理、苦いし」

「いや、自分らが飲むわけじゃないから」

「練習って放課後になるの?」


 声が重なって、すぐにほどけた。前の席の間で笑いが起きる。誰かが机を軽く叩いて、その音だけが短く残った。


 僕は開いた教科書の端に目を落とした。ドリンク、という字が頭の中に残ったまま、椅子の軋む音がした。


「水野、ドリンクじゃない?」


 顔を上げると、宮本が少しだけこちらに体を向けていた。席が変わってからまだ慣れていない距離だったけれど、声は無理なく届いた。


「なんで?」

「接客とか会計よりは、そっちだろ」


 短い言い方だった。けれど、それだけでだいたい分かってしまうのが、少し嫌だった。


「……まあ」


 近くで、宮本が小さく笑った気配がした。声にはならない。向こうも、それ以上は言わなかった。


 井上の声が入った。


「俺もそこにしよ。前出なくていいなら」

「言うて、結構前出そうじゃない?」


 岡田の声が重なる。軽い笑いが周囲に広がった。


「でも接客よりマシでしょ」

「それはそう」

「水野、ラテとかできんの?」


 岡田の声がこっちまで届いて、何人かが笑った。僕は教科書の端を指で押さえたまま、黒板を見た。


「できるわけないだろ」

「今からできるようになるんだろ、知らんけど」

「雑」

「水野、向いてそうじゃん」

「偏見」


 そこで笑いが少し大きくなった。けれど、長くは続かなかった。先生が黒板の前でチョークを持ち直して、ドリンクの下に数本の短い線を引く。


「はいはい、できるかどうかは今はいい。ドリンク希望、他にいるか」


 普段はあまり手を挙げない人まで、今日は迷わずに声を出していた。名前が呼ばれて、黒板に書かれていく。チョークの音が、思ったよりはっきり教室に残った。


 水野。

 井上。

 その上下にも、いくつかの名前が並んでいた。


 自分の名前が黒板に入ると、胸の奥がほんの少しだけ詰まった。大げさなものではない。けれど、ただ見ていた字の中に、自分の名前が混じるのは変な感じだった。


「水野いるなら、まあ」


 井上の声が、遅れて届く。


「それ理由になる?」

「なる」

「ならんだろ」


 岡田が短く笑う。井上はそれ以上返さなかった。たぶん、少し肩をすくめたのだと思う。見えたわけではない。ただ、声の終わり方がそうだった。


 黒板では次の係へ話が移っていた。


「メニュー・内装。ここは大きいメニューとか卓上メニュー、教室の雰囲気づくりも入るな。字とか配置とか、見た目を考えるところ」

「黒板も使う?」

「どんな感じにするんだろ」

「字とか綺麗な人がいいよね」


 佐藤さんの声が明るく上がった。


「佳乃ちゃん、そういうの向いてそう」

「……向いてるかは分からないけど」


 少しして、先生が黒板に名前を書いた。


 メニュー・内装の下に、木下さんの名前が入る。


「佐藤は接客?」

「うち、声出すのは得意だし」

「俺は無理、接客」

「なんで」

「噛む」

「わかる、絶対噛む」


 そのあとにも何人かの名前が続いて、接客・注文の下の短い線が少しずつ埋まっていった。


「河田も、接客がいいんじゃない?」

「まあ、声出すだけの方が楽ではある」

大雅(たいが)は接客向きではあるよな」


 藤森の声がその近くで続く。河田の勢いを止めるというより、少しだけ和らげる言い方だった。


「声だけは通るし」

「だけって何だよ」

「いや、褒めてる」

「もうちょい褒め方あるだろ」


 その辺りでまた笑いが起きた。騒がしいのに、嫌な騒がしさではなかった。係名の下に名前が入っていくたび、声はばらけているのに、教室全体の向きだけは少しずつ揃っていく。


 会計・導線のところで、何人かが露骨に渋った。


「会計、責任重くない?」

「詰まったら終わるやつ」

「そこはちゃんとせんと後が苦しいぞ」


 先生が笑いを含ませた声で言う。責める感じではなかった。ただ、現実はそこにある、という言い方だった。


「宮本、似合う」


 岡田の声が飛ぶ。


「褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんかよ」


 短い応酬に、また笑いが重なった。宮本はそれ以上引っ張らなかった。


 宮本の名前が、会計・導線のところに書かれた。本人は大きく反応しなかったけれど、ちらっと見えた横顔は、どこか諦めたような表情を浮かべていた。


 仕入れ・備品の下にも、名前が増えていく。


「カップ、何個いるんだろ」

「クロスも枚数確認しないといけないよね」

「学校にあるやつ、先に確認した方がよくない?」


 カップ、ソーサー、クロス、スタンド。


 前に聞いたときはただの雰囲気の言葉だったものが、黒板の上では、確認しに行くものとして並んでいた。


 僕はノートの端に、いつの間にか「ドリンク」と書いていた。


 書いた覚えはある。けれど、いつ書いたのかははっきりしない。字は小さく、あまりきれいではなかった。その横に、コーヒー、紅茶、ラテ、とだけ並べてある。


「水野、接客じゃなくて良かったな」


 岡田がまだ何か言っている。


「うるさい」

「でも良かっただろ」

「それはそう」


 井上が遅れて笑った。肩が小さく揺れる。声は大きくないのに、届く。


 先生が最後に黒板を眺めて、チョークを置いた。


「一先ず、これで行こう。細かいところは係ごとに詰める。次から、放課後も少し使うことになると思うから、そのつもりで」


 教室の空気が、一度だけ大きく動いた。椅子の音、ノートを閉じる音、息を吐く声。授業時間の中にあったはずの話が、放課後の方へ少しはみ出した音だった。


 教科書は、まだ開いたままだった。


 けれど、ノートの端には、黒板から落ちてきたみたいに、係の名前が小さく残っていた。


 ドリンク。

 その下に、自分の名前がある。


 さっきまで黒板にあっただけの字が、机の上にも残っていた。

少しずつギア上げます。

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