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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第42話「声の場所」

 チャイムが鳴っても、教室の中はまだ少し朝の続きみたいで、机の上に出ているものも揃いきっていなかった。


 窓の外は明るい。九月に入ったはずなのに、光だけはまだ夏休みの方に残っていて、机の端に置いた手の甲までじわっと熱が移ってくる。


 現代文の教科書を鞄から抜きかけたところで、前の扉が開いた。


 中村先生が教卓にファイルを置いて、教室を軽く見渡した。


「じゃあ、席替えするぞー」


 教室が、一拍遅れて動いた。


「え、今?」

「もう?」

「授業は?」


 前の方から順に、小さい声が浮いていく。僕は教科書を抜きかけた手を止めた。先生は黒板の端に一枚、座席表を貼った。磁石が黒板に当たる音がした。


「時間あんまりないから、くじはこっちで引いといた。前見て確認な」


 小さく不満の声が漏れた。


「えー、くじ引きたかったんだけど」

「俺も」

「どこだろ」

「前じゃありませんように」


 中央の方で、河田が少し身を乗り出した。


「うわ、微妙だったらどうしよ」

大雅たいが、だいたい何でも微妙って言うじゃん」

「いや、席は大事だろ」


 藤森の声が近くで返って、そこだけ小さく笑いが広がった。河田はまだ何か言いたそうな顔のまま、視線だけは座席表へ戻っていた。


 先生がチョークを持ったまま、軽く手を振る。


「机はそのままでいい。荷物だけ持って動いて」


 視線が座席表に集まっていく。席の番号と名前が並んでいて、遠目では自分の名前がすぐには見つからなかった。番号は窓側から振られていて、六席ごとに列が移っていく。僕は目を細めて、列を追った。


 水野葵。十八番。


 中列の一番後ろだった。


 元の席から、少し下がる。黒板からは遠くなるけれど、見えないほどではない。後ろに誰もいないせいか、思ったより背中が軽い。教室の音が少し前から集まってくるように見えた。


「葵、どこだった?」

「一番後ろ」

「え、いいな~」


 木下さんが手元の教科書を揃えたままこちらを見た。


「水野くん、後ろなんだ」

「うん。木下さんは?」

「廊下側。沙希ちゃんの前だった」

「近いね」

「うん。すぐ後ろ」


 佐藤さんが後ろから少し身を乗り出す。


「佳乃ちゃん、荷物多い?」

「大丈夫。そんなにない」

「手伝う?」

「平気」


 僕はノートを二冊重ねて、その上に現代文の教科書を置いた。問題集は戻すか迷ったが、結局教科書と一緒に抱えた。筆箱を最後に取ると、机の上が急に薄くなる。


 木下さんと佐藤さんは、廊下側の通路へ向かった。僕も、荷物を抱えて立ち上がる。


 椅子を引く音が、教室のあちこちで少しずつずれて鳴った。机はそのままだから、動くのは人と荷物だけだった。肩に掛けた鞄が机の角に少し当たり、問題集の角が腕の内側に当たる。通路を通るとき、前から来た人と軽く避け合った。


「ごめん、通る」

「おー」

「そこ誰?」

「俺」

「いや、名前で言って」


 そんな声が近くでほどけて、すぐ遠ざかる。


 席に着く。荷物がなくなると、誰かの席だったものが、ただの机に戻る。僕は教科書とノートを置いて、筆箱を右端に寄せた。鞄を足元に置くと、机の高さも、黒板までの距離も、前の席とは少し違った。


「水野、そこか」


 左斜め前から、宮本の声がした。二十三番、思っていたより近かった。


「宮本、近いな」

「だな。後ろ、意外と見えるぞ」

「ほんとかよ」

「たぶん」

「たぶんかよ」


 宮本が少しだけ口元をゆるめて、椅子を引き直していた。


 窓際から、井上の声が届く。


「水野、一番後ろじゃん」

「井上も後ろじゃん」

「俺は後ろが似合うから」

「何それ」


 少し前の方で、岡田がこっちを向いた。


「水野、そこ寝やすそうだな」

「寝ないけど」

「今だけだろ、それ」

「授業受ける気はある」

「気だけ?」

「気だけじゃない」


 井上の肩が少し揺れた。岡田は前を向き直りながら、まだ何か言いたそうに口の端を上げていた。声はそこまで大きくない。それでも、声の来る場所が変わっていた。前の席では聞こえなかった角度から、宮本の声が届く。


 中央の方では、河田はまだ席に納得しきれていない顔をしていた。藤森が椅子に座りながら短く何かを返して、河田の声が少しだけ低くなる。そこだけ、騒めきの角が丸くなったみたいだった。


 廊下側では、佐藤さんが椅子に座りながら木下さんに何かを見せていた。木下さんが小さくうなずく。声は届かない。廊下側だけ、少し小さく動いていた。


 ただ、座る人が変わっただけで、教室の音の位置も少しずつずれている。前の席で聞こえていた声の場所は、どこにもなかった。


「はい、そろそろ座れよー」


 中村先生の声で、立っていた人が少しずつ席に戻る。椅子の音がいくつか重なって、教室が落ち着いた。僕は教科書を机に出した。ノートもその横に置く。表紙を開く前に、手のひらが机の表面に触れた。


 前の席より、少しだけ乾いている気がした。たぶん、気のせいだった。


 先生は教卓に戻って、出席簿の横のファイルを開いた。いつもの授業と同じように、教科書を開くと思って、何人かは既に開いている。


「教科書はそのままでいい」


 開く音がいくつか重なって、すぐ止まった。先生は黒板には向かわず、教卓の上にあった紙を一枚持った。


「今日はこの時間、学園祭の話を進めるぞ」


 教室の空気が、もう一度だけ動いた。


「授業じゃないんですか?」

「今日はこっち」

「マジか」

「マジ」


 小さく笑いが起きる。先生は黒板の端へ行って、チョークを取った。白い粉が指先についたまま、黒板の隅に短く文字が増えていく。


 学園祭。


 新しい席から見るその字は、前より少し遠かった。

 現代文の教科書は開いたまま、まだ一行も読まれていなかった。

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