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紫苑のあとで  作者: 月影
第2章

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第41話「夏の残り香」

 朝、昇降口を上がると、廊下の空気が外の熱を少しだけ薄くした。


 それでも、背中に残った暑さまでは消えていなかった。廊下の窓ガラスが白く光っていて、シャツの背中がまだ少し湿っていた。階段を上がる間も、踊り場の窓から入ってくる光は逃げ場のない白さで、踊り場を抜けた先の廊下でようやく、冷房の気配が届いた。


 教室の引き戸を開けると、騒めきが一瞬だけこちらを向いた。


 もうほとんどの席が埋まっていた。椅子を引く音がして、遠い方でファスナーを引く音が短く鳴る。誰かが鞄を机に置く前に金具が当たって、その音が先に届いた。前の方でいくつかの声が重なって、笑いが一度だけ起きて散る。冷房は入っているのに、さっき外で吸い込んだ熱がまだ少し残っていた。


 鞄を机の横に掛けると、右から気配がした。


 木下さんが顔を上げていた。口元がやわらいで、視線が合う。


「おはよう」

「おはよう」


 椅子を引きかけたところで、少し可笑しくなった。


「……あんまり久しぶりって感じしないね」


 木下さんは一度だけ目を伏せて、またこっちを見た。


「来てたしね」

「まあ、うん」

「水野くん、ほぼいたし」

「木下さんもでしょ」


 木下さんは小さく笑った。


「いたね」


 後ろから井上の声がした。


「もう切り替わってんの?」


 振り向くと、頬杖をついたままこっちを見ている。シャーペンが机の上に転がったままだった。


「何が?」

「夏休み、もうちょい引きずってもよくない?」

「それ、逆にしんどいだろ」

「それはそうだけど」


 口元だけで笑って、また手元へ戻った。その横で岡田が上着を机に押しつけたまま、くぐもった声を出す。


「暑……なんで九月でもこれなんだよ」

「……入ったばっかだから?」

「最悪」


 顔を上げないまま、腕だけ位置をずらした。


 前の方の声が一度まとまって、また散る。佐藤さんが、途中でこっちを向いた。


「葵、おはよ」

「おはよ」

「やっぱ、あんまり初日って感じしないね」

「佐藤さんはたまにだったじゃん」

「うちはたまにだけど、来たら大体いた気がする」


 木下さんは何も足さず、机の端へ筆箱を寄せた。ファスナーの金具が机に当たって、小さく鳴る。


 少し遠いところから、河田の声がした。


「なんか、もう始まってんな。……岡田、生きてる?」

「……生きてる」

「ほんとかよ」

「朝から河田は余計しんどいだろ」

「俺のせいなん?」

「半分は」

「ひど」


 後ろで短い笑いが混ざった。冷房が少し強く回った音がして、カーテンの端が短く揺れた。


 前の方で宮本が椅子を鳴らして向き直る。低い声が前から後ろへ届いた。


「朝から元気だな」

「元気で悪いか」

「悪くはないけど、岡田は死にかけてる」

「勝手に殺すな」


 また小さく笑いが混ざって、後ろの声が少し重なった。


 前の引き戸が開いた。担任が上着の袖を鳴らしながら入って、出席簿を教卓に置く。紙が机に当たる乾いた音がして、騒めきが一歩引いた。


「おはよう。長かったようで短かった夏休みも終わりです。今日からまた通常運転で。……とはいえ、もう学園祭も近いからな。その辺も含めて、ぼちぼち頭切り替えていけよー」


 無理に締める感じがなかった。教室の先をそのまま示すような言い方だった。


 学園祭、という言葉のあと、教室のあちこちで反応がばらけた。


「もうそんなか」

「早くない?」

「でも、まだ二週間くらいあるだろ」


 前の方からそんな声がして、別の席でシャーペンをノックする音が短く重なる。誰かが笑って、それが散る。ひとつの話に揃いきらないまま、教室全体が同じ方をちらと向いた。


「喫茶店のやつ、今日から本格的に動く感じなのかな」


 佐藤さんが言うと、木下さんが少し手を止めた。


「たぶん」

「だよね~。二週間って言われると急に実感湧く」


 後ろから、少し起きた岡田の声がした。


「夏休み挟むと、余計そう見えるんだよな」


 井上が短く笑った。教室のあちこちで声がばらけたまま重なって、学園祭の話だけが薄く残った。


 担任が出席を取り始める。名前を呼ぶ声と短い返事のあいだで、さっきまでの騒めきが少しずつほどけていった。


 自分の名前が呼ばれる前に、ふいに窓の外に視線を向ける。外はまだ夏のままだった。

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