第40話「にじんでいく」
目が覚めると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
もう夏の光だった。本格的な夏休みに入って最初の朝だったけれど、起きた瞬間に実感はなかった。ただ部屋が明るいというだけだった。
着替えてリビングへ出ると、テーブルの上に朝ごはんが置いてあった。ご飯と、味噌汁と、卵焼き。どれもラップがかかっていて、椀の縁に水滴がついていた。その横に、折りたたんだメモ用紙と千円札が一枚。
メモを開くと、癖のある字で短く書いてあった。
「昼ごはん代。鍵かけてね。」
椅子を引いて座り、ラップを外して箸を取る。味噌汁を一口飲むと、温かった。冷蔵庫の音だけがしていた。
箸を持ったまま、昨日の夜が短く戻った。
寝室に向かう途中で、母に声をかけられた。
『明日どうするの?』
少し間を置いてから答えた。
『何も決めてない。学校行って勉強しようかな。アレおったら最悪やし』
母は少しだけ笑って、すぐ言った。
『それがいい。じゃあ昼はどうする?なんか作ろうか?それか、お金置いとく?』
『う~ん、どっちでもいいや。何なら無くてもいいし』
卵焼きを一口食べる。少し甘くて、いつもと同じ味だった。千円札の端が、メモ用紙の下から少しはみ出している。
気配はない。それだけで、良い一日になる気がした。
食べ終わって、皿を流しに持っていく。水で流して、そのまま置く。鞄に教科書と問題集を入れて、財布を確認する。千円札を財布に入れると、メモ用紙だけがテーブルに残った。
鍵をかけて、外へ出る。
扉を開けた瞬間、湿った熱が肌に貼りついてくる。アスファルトから照り返しが来て、日陰へ入っても重さは変わらなかった。自転車のブレーキ音が一度鳴って、それからまた静かになる。朝とも昼とも言えない半端な時間だからか、通りを歩く人はまばらだった。
校舎に入ると、廊下は薄暗かった。靴を履き替えて、階段を上がる。足音だけが響く。いつもの登校時間と同じ道順なのに、音の戻り方が違った。
職員室の前まで来て、引き戸を少し開けた。
「中村先生いますか?」
「おう、水野か。どうした?」
「教室、使っていいですか?」
「あぁいいぞ。戸締りだけはしっかりな」
思っていたより、早く済んだ。
教室の前まで来て、引き戸を開ける。
湿った熱が顔に来た。空気が動いていない。誰かの椅子が少しだけ斜めになったままで、黒板の端には授業の跡がまだうっすら残っていた。消したあとの白い粉が、溝に沿って細く残っている。窓から差す光だけが先に床へ落ちていて、それ以外は動いていなかった。
鞄を肩にかけたまま、壁のリモコンに手を伸ばした。当たり前だが、誰も来ていないんだから、ついているわけがない。少しだけ間抜けな気分で、先にボタンを押した。低い音がして、少し遅れてぬるい風が出始めた。
自分の席に鞄を置いて、椅子を引く。問題集を開くと、ページが少し湿気を含んでいた。指先が、動かすたびに紙に吸いつく感じがある。
教室は静寂そのものだった。
廊下からも何も聞こえない。冷房の音と、シャーペンが紙に触れる音だけが続く。その先が、問題の余白に止まる。少し考えて、動く。光だけが、机の上で静止していた。
しばらくして、冷房が効いてきた。
首の後ろから空気が変わってくる。さっきまで重かった湿気が薄れて、シャーペンを持つ手の汗が引いていく。問題集のページが指に貼りつく感じも、少しずつなくなっていった。
廊下側の引き戸が開く音がして、顔を上げた。木下さんが入ってきた。
一瞬、手が止まった。
「……おはよう」
「おはよう。……最初ちょっと迷ったでしょ、この時間」
少しだけ笑いが混じっていた。
「迷った」
それだけ返して、また問題集へ目を落とした。
木下さんは自分の席へ歩いていって、鞄を置いた。いつもの席。すぐ隣。椅子を引く音がして、鞄を机の横に掛ける音がして、それからファスナーを引く音がした。
ノートを取り出す手が、迷いなく動いた。
少し驚いた。ただ同時に、どこかで驚いていない自分もいた。その感覚に名前をつけようとは思わなかった。問題の続きがそこにあって、シャーペンを動かしていた。
木下さんがノートを開く音がした。少し遅れて、シャーペンが紙に触れる音が重なる。二つの音は高さが微妙に違って、ずれたまま続いた。
「……ねぇ、水野くん」
「ん?」
「ここの『る』、受身か自発かで迷ってる」
古文の教科書を少しこちらへ向けて、指先でページを押さえている。
のぞき込む。
「……主語が人じゃなくて、自然とそうなる感じの動詞だから自発じゃない?」
「……ずっと受身だと思ってた」
シャーペンを置いた。
「こういうの、なんか毎回引っかかるよね」
「うん。主語見ても、たまに自信なくなる」
木下さんは少し眉を寄せたまま、また手を動かし始めた。
「……ありがとう」
僕も自分の問題集へ戻る。
また二つの音が、ずれたまま続いた。
冷房の音がそのまま続いていた。二つの音の高さの違いが、少しずつ馴染んでいった。
昼が近くなると、腹が鳴った。
財布を確認して、立ち上がる。
「…お昼?」
木下さんが顔を上げた。
「うん」
廊下へ出ると、また熱が来た。冷房で冷えた体に、廊下の空気が一段重く当たる。階段を下りて、校舎の外へ出ると、さっきより日が高くなっていた。アスファルトの照り返しが足元から来て、影が短くなっている。近くのコンビニまで歩いて、適当なものを買って戻った。
教室に戻ると、木下さんも弁当を出していた。机の上のノートと教科書を端に寄せて、弁当箱を開けるところだった。
自分の席に座って、買ってきたものを机に置く。しばらく、それぞれ食べた。
遠くから、部活の声が薄く聞こえてくる。木下さんは弁当箱の蓋を脇に寄せて、箸を持つ。僕もコンビニの袋を開ける。
食べ終わって、弁当箱を片づける木下さんの手元が視界に入る。ノートの端がまた揃えられて、教科書が元の位置に戻っていく。
「午後もやるの?」
聞いてから、今さらな質問だと思った。
「うん、せっかく来たし」
木下さんはそれだけ返して、もうシャーペンを持っていた。
僕も問題集を開き直す。
日が傾くにつれて、窓から入る光の角度が変わっていく。机の上に落ちていた光の形が少しずつ伸びて、ノートの端まで届くようになった。冷房の音は変わらず続いていて、シャーペンの音だけが途切れたり戻ったりした。
たまに、どちらかが問題集のページをめくる音がした。
それ以外は、ほとんど何もなかった。
消しゴムで紙を擦る音が一度して、それからまた静かになった。
行き詰まって背もたれに体を預けたとき、視界の端で木下さんも手を止めていた。
「今日、あんまり頭動いてないかも」
「わかる。午後になってからずっとそう」
「……午前の方がマシだった」
「集中力って続かないね」
木下さんがシャーペンを持った。僕も問題集へ戻る。
夕方近くになって、廊下側の引き戸が開いた。
「おー、いた」
岡田の声だった。開いた隙間から、廊下の熱が一緒に入り込んでくる。部活帰りの空気ごと、入ってきた。Tシャツの首元が汗で濡れていて、鞄を片手に持ったままだった。宮本がその後ろから入ってきて、自分の席の方へ歩く。
「水野いたのか。木下さんも」
「うん」
それだけ言って、また手元に戻った。
「二人とも、朝からずっといたの?」
「昼前からだけどね」
「それでも長くない? 俺ら部活あったから来たけど、自主的にって感じじゃないし」
「でも来たじゃん」
「仕方なくだって」
宮本が鞄を机の横に掛けながら、少し笑う。
「涼しいな、ここ」
岡田が天井を見上げて言った。
「体育館、冷房あっても全然追いつかなくて。湿気もえぐかった」
「道着って夏きつそうだよな」
「きっつい。正直、今日一番しんどかったのは湿気だった」
宮本が少し笑った。
「それはわかる」
岡田が自分の席に鞄を下ろして、浅く座った。宮本もページをめくりながら、問題集に目を落とす。さっきまで隣と二つだけだった音に、後ろからページをめくる音と鞄の擦れる音が混じる。静かさの質が少しだけ変わって、それでもうるさくはならなかった。
帰ろうと思ったのは、窓の外の光が傾いて、教室の影が伸び始めた頃だった。
問題集を閉じて、教科書を鞄に入れる。木下さんはまだ何か書いていたけれど、鞄を持って立つと、顔を上げた。
「帰るの?」
「うん。お疲れ」
「お疲れさま」
それだけで、また手元へ目を落とした。
岡田と宮本はまだ残っていた。立ち上がると、岡田が振り返る。
「あ、もう帰んの?早くない?」
「いや、昼前からいたし」
「そういや、そんなこと言ってたな……ご苦労さん」
「またな」
「おう、またな」
宮本が軽く手を上げた。
廊下へ出ると、学校の中はもう静かだった。さっきまで自分たちの声がしていた教室が、もう廊下の向こうになる。階段を下りて、靴を履き替えて、外へ出る。
夕方の熱は、昼より少しだけ落ち着いていた。それでも、歩き出すとすぐに汗が戻ってくる。影が長くなっていた。通りに出ると、帰り道の人が少し増えていた。シャツの襟元に、また汗がにじんでいた。
第1章完。次回から第2章です。




