表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/48

第40話「にじんでいく」

 目が覚めると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。


 もう夏の光だった。本格的な夏休みに入って最初の朝だったけれど、起きた瞬間に実感はなかった。ただ部屋が明るいというだけだった。


 着替えてリビングへ出ると、テーブルの上に朝ごはんが置いてあった。ご飯と、味噌汁と、卵焼き。どれもラップがかかっていて、椀の縁に水滴がついていた。その横に、折りたたんだメモ用紙と千円札が一枚。


 メモを開くと、癖のある字で短く書いてあった。


「昼ごはん代。鍵かけてね。」


 椅子を引いて座り、ラップを外して箸を取る。味噌汁を一口飲むと、(ぬる)かった。冷蔵庫の音だけがしていた。


 箸を持ったまま、昨日の夜が短く戻った。


 寝室に向かう途中で、母に声をかけられた。


『明日どうするの?』


 少し間を置いてから答えた。


『何も決めてない。学校行って勉強しようかな。アレおったら最悪やし』


 母は少しだけ笑って、すぐ言った。


『それがいい。じゃあ昼はどうする?なんか作ろうか?それか、お金置いとく?』

『う~ん、どっちでもいいや。何なら無くてもいいし』


 卵焼きを一口食べる。少し甘くて、いつもと同じ味だった。千円札の端が、メモ用紙の下から少しはみ出している。


 気配はない。それだけで、良い一日になる気がした。


 食べ終わって、皿を流しに持っていく。水で流して、そのまま置く。鞄に教科書と問題集を入れて、財布を確認する。千円札を財布に入れると、メモ用紙だけがテーブルに残った。


 鍵をかけて、外へ出る。


 扉を開けた瞬間、湿った熱が肌に貼りついてくる。アスファルトから照り返しが来て、日陰へ入っても重さは変わらなかった。自転車のブレーキ音が一度鳴って、それからまた静かになる。朝とも昼とも言えない半端な時間だからか、通りを歩く人はまばらだった。


 校舎に入ると、廊下は薄暗かった。靴を履き替えて、階段を上がる。足音だけが響く。いつもの登校時間と同じ道順なのに、音の戻り方が違った。


 職員室の前まで来て、引き戸を少し開けた。


「中村先生いますか?」

「おう、水野か。どうした?」

「教室、使っていいですか?」

「あぁいいぞ。戸締りだけはしっかりな」


 思っていたより、早く済んだ。


 教室の前まで来て、引き戸を開ける。


 湿った熱が顔に来た。空気が動いていない。誰かの椅子が少しだけ斜めになったままで、黒板の端には授業の跡がまだうっすら残っていた。消したあとの白い粉が、溝に沿って細く残っている。窓から差す光だけが先に床へ落ちていて、それ以外は動いていなかった。


 鞄を肩にかけたまま、壁のリモコンに手を伸ばした。当たり前だが、誰も来ていないんだから、ついているわけがない。少しだけ間抜けな気分で、先にボタンを押した。低い音がして、少し遅れてぬるい風が出始めた。


 自分の席に鞄を置いて、椅子を引く。問題集を開くと、ページが少し湿気を含んでいた。指先が、動かすたびに紙に吸いつく感じがある。


 教室は静寂そのものだった。


 廊下からも何も聞こえない。冷房の音と、シャーペンが紙に触れる音だけが続く。その先が、問題の余白に止まる。少し考えて、動く。光だけが、机の上で静止していた。


 しばらくして、冷房が効いてきた。


 首の後ろから空気が変わってくる。さっきまで重かった湿気が薄れて、シャーペンを持つ手の汗が引いていく。問題集のページが指に貼りつく感じも、少しずつなくなっていった。


 廊下側の引き戸が開く音がして、顔を上げた。木下さんが入ってきた。


 一瞬、手が止まった。


「……おはよう」

「おはよう。……最初ちょっと迷ったでしょ、この時間」


 少しだけ笑いが混じっていた。


「迷った」


 それだけ返して、また問題集へ目を落とした。


 木下さんは自分の席へ歩いていって、鞄を置いた。いつもの席。すぐ隣。椅子を引く音がして、鞄を机の横に掛ける音がして、それからファスナーを引く音がした。


 ノートを取り出す手が、迷いなく動いた。


 少し驚いた。ただ同時に、どこかで驚いていない自分もいた。その感覚に名前をつけようとは思わなかった。問題の続きがそこにあって、シャーペンを動かしていた。


 木下さんがノートを開く音がした。少し遅れて、シャーペンが紙に触れる音が重なる。二つの音は高さが微妙に違って、ずれたまま続いた。


「……ねぇ、水野くん」

「ん?」

「ここの『る』、受身か自発かで迷ってる」


 古文の教科書を少しこちらへ向けて、指先でページを押さえている。


 のぞき込む。


「……主語が人じゃなくて、自然とそうなる感じの動詞だから自発じゃない?」

「……ずっと受身だと思ってた」


 シャーペンを置いた。


「こういうの、なんか毎回引っかかるよね」

「うん。主語見ても、たまに自信なくなる」


 木下さんは少し眉を寄せたまま、また手を動かし始めた。


「……ありがとう」


 僕も自分の問題集へ戻る。


 また二つの音が、ずれたまま続いた。


 冷房の音がそのまま続いていた。二つの音の高さの違いが、少しずつ馴染んでいった。


 昼が近くなると、腹が鳴った。


 財布を確認して、立ち上がる。


「…お昼?」


 木下さんが顔を上げた。


「うん」


 廊下へ出ると、また熱が来た。冷房で冷えた体に、廊下の空気が一段重く当たる。階段を下りて、校舎の外へ出ると、さっきより日が高くなっていた。アスファルトの照り返しが足元から来て、影が短くなっている。近くのコンビニまで歩いて、適当なものを買って戻った。


 教室に戻ると、木下さんも弁当を出していた。机の上のノートと教科書を端に寄せて、弁当箱を開けるところだった。


 自分の席に座って、買ってきたものを机に置く。しばらく、それぞれ食べた。


 遠くから、部活の声が薄く聞こえてくる。木下さんは弁当箱の蓋を脇に寄せて、箸を持つ。僕もコンビニの袋を開ける。


 食べ終わって、弁当箱を片づける木下さんの手元が視界に入る。ノートの端がまた揃えられて、教科書が元の位置に戻っていく。


「午後もやるの?」


 聞いてから、今さらな質問だと思った。


「うん、せっかく来たし」


 木下さんはそれだけ返して、もうシャーペンを持っていた。


 僕も問題集を開き直す。


 日が傾くにつれて、窓から入る光の角度が変わっていく。机の上に落ちていた光の形が少しずつ伸びて、ノートの端まで届くようになった。冷房の音は変わらず続いていて、シャーペンの音だけが途切れたり戻ったりした。


 たまに、どちらかが問題集のページをめくる音がした。


 それ以外は、ほとんど何もなかった。


 消しゴムで紙を擦る音が一度して、それからまた静かになった。


 行き詰まって背もたれに体を預けたとき、視界の端で木下さんも手を止めていた。


「今日、あんまり頭動いてないかも」

「わかる。午後になってからずっとそう」

「……午前の方がマシだった」

「集中力って続かないね」


 木下さんがシャーペンを持った。僕も問題集へ戻る。


 夕方近くになって、廊下側の引き戸が開いた。


「おー、いた」


 岡田の声だった。開いた隙間から、廊下の熱が一緒に入り込んでくる。部活帰りの空気ごと、入ってきた。Tシャツの首元が汗で濡れていて、鞄を片手に持ったままだった。宮本がその後ろから入ってきて、自分の席の方へ歩く。


「水野いたのか。木下さんも」

「うん」


 それだけ言って、また手元に戻った。


「二人とも、朝からずっといたの?」

「昼前からだけどね」

「それでも長くない? 俺ら部活あったから来たけど、自主的にって感じじゃないし」

「でも来たじゃん」

「仕方なくだって」


 宮本が鞄を机の横に掛けながら、少し笑う。


「涼しいな、ここ」


 岡田が天井を見上げて言った。


「体育館、冷房あっても全然追いつかなくて。湿気もえぐかった」

「道着って夏きつそうだよな」

「きっつい。正直、今日一番しんどかったのは湿気だった」


 宮本が少し笑った。


「それはわかる」


 岡田が自分の席に鞄を下ろして、浅く座った。宮本もページをめくりながら、問題集に目を落とす。さっきまで隣と二つだけだった音に、後ろからページをめくる音と鞄の擦れる音が混じる。静かさの質が少しだけ変わって、それでもうるさくはならなかった。


 帰ろうと思ったのは、窓の外の光が傾いて、教室の影が伸び始めた頃だった。


 問題集を閉じて、教科書を鞄に入れる。木下さんはまだ何か書いていたけれど、鞄を持って立つと、顔を上げた。


「帰るの?」

「うん。お疲れ」

「お疲れさま」


 それだけで、また手元へ目を落とした。


 岡田と宮本はまだ残っていた。立ち上がると、岡田が振り返る。


「あ、もう帰んの?早くない?」

「いや、昼前からいたし」

「そういや、そんなこと言ってたな……ご苦労さん」

「またな」

「おう、またな」


 宮本が軽く手を上げた。


 廊下へ出ると、学校の中はもう静かだった。さっきまで自分たちの声がしていた教室が、もう廊下の向こうになる。階段を下りて、靴を履き替えて、外へ出る。


 夕方の熱は、昼より少しだけ落ち着いていた。それでも、歩き出すとすぐに汗が戻ってくる。影が長くなっていた。通りに出ると、帰り道の人が少し増えていた。シャツの襟元に、また汗がにじんでいた。

第1章完。次回から第2章です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ