第39話「熱のほうへ」
終礼が終わると、先生が教卓の上のものをまとめるより先に、教室の空気の方が崩れ始めた。
椅子を引く音がいくつか重なって、少し遅れて声が増える。窓の外の白さは、昼を回っているのにまだほとんど落ちていなかった。前の方で鞄の口が開く音がして、そのあとで机の中から教科書を引き抜く硬い音がする。冷房の音は続いているのに、廊下の熱が薄く混じっていた。
鞄を引き寄せて、机の上のものを順番に入れていく。ノート、教科書、筆記用具。底に荷物が落ちる鈍い音。右隣では木下さんがノートの角を揃えて重ねていた。机の上には筆記用具と最後の一冊だけが残っていた。
前の方で、佐藤さんの声が先に立つ。
「やっと終わった~」
その言い方が、朝から決めていたみたいに軽かった。後ろで井上が少し遅れて返す。
「まだ昼だけどね」
「それがいいんじゃん!」
小さく笑いが混じる。宮本と岡田はもう立っていて、鞄を肩にかけながら何か言い合っていた。今週ずっとあった午前授業が今日で終わる。頭では分かっているのに、実感らしいものはどこにもなかった。
木下さんが手元を見たまま言う。
「このあと、残るの?」
「まだ決めてない」
「そっか」
鞄に手を入れたまま、僕も聞く。
「木下さんは?」
「……ちょっと迷ってる」
ノートの角を揃え直す指先が、一度だけ止まる。
「今日、なんか落ち着かなさそうだし」
「……たしかに」
それだけで、会話は終わった。前の方ではまだ佐藤さんの声がしていて、椅子を引く音と重なっている。終礼が終わったばかりの教室は、誰かが何か言えば、そのまま別の流れができそうな軽さのままだった。
後ろで鞄を持ち上げる音がする。
「水野、この後どうすんの?」
振り返ると、岡田がもう立っていた。宮本もその横で鞄を肩にかけている。
「まだ何も」
「じゃあ飯行こうぜ。今日このまま帰るの、なんか早すぎるし」
宮本が少し笑う。
「お前それ、確定事項だったろ」
「そんなことねぇって」
後ろで井上がゆっくり立つ気配がした。
「まぁ、今日はいいんじゃない?」
「ほら、井上も言ってるし」
「いや、別に推してはないけど」
「同じようなもんだろ」
岡田が先に扉の方へ向かう。鞄を持って立ち上がって、そのあとについた。
佐藤さんが顔を上げた。
「あ、行くの?」
「うん。ちょっと飯」
「いいね」
木下さんが、手を止めてこっちを見た。
「いってらっしゃい」
佐藤さんが先に返す。
「うちら、もうちょい残るー」
「そっか」
それだけ言って、教室を出た。
廊下に出た瞬間、熱が来る。空気の重さが急に変わった。首の後ろに、汗が戻ってくる。廊下の窓の光が床に長く落ちていて、その中を歩くと上履きの先だけ白く沈んだ。
「うわ、もう外やばそう」
前で岡田が言う。
「分かってたことだろ」
「いや、教室いたら忘れるじゃん」
「それはある」
階段を下りて、下駄箱で靴を履き替える。外履きに足を入れると、空気が少し変わった。校舎を出ると、熱はさらに強くなる。空が広い。アスファルトの照り返しが足元から来て、日陰を選んで歩いても、空気そのものが熱かった。
岡田が先を歩いて、宮本がその横につく。井上は少し後ろで、僕と同じくらいの速さだった。四人で歩くと自然に列がほどける。車の音、自転車のブレーキの音、どこかの店から漏れてくる音楽。
「マックでいいよな?」
「お前が言い出したんだろ」
「一応確認」
岡田が振り返りもせずに笑う。宮本もつられて、井上が一拍遅れて息だけで混ざった。
交差点を渡ると、熱が一段強くなる。信号待ちの間、誰も特に喋らなかった。赤が長くて、白い光だけが道路の上に落ちていた。
店に入ると、外の熱が少しずつ薄れた。
窓の外はまだ白くて、道路を挟んだ歩道まで光が落ちている。冷房が強くて、背中に残っていた汗だけが妙に冷たい。トレーを置く音が重なって、紙袋が擦れて、それからようやく全員が落ち着いた。
岡田が一番先にポテトへ手を伸ばす。
「お前、それ好きだな」
宮本が包み紙を開きながら言う。
「そりゃ好きだろ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何?」
「また変な音鳴らすなよってこと」
岡田が少しだけ笑う。
「まだそれ言う?」
「言うだろ」
井上が少し遅れて混ざる。
「もう条件反射なんじゃない?」
「失礼だな」
アイスティーの蓋を少し押さえて、ストローを差した。氷が中で軽く鳴る。冷たさが喉を通って、さっきまで歩いていた道の熱がようやく中から下がっていく。
岡田はそんなことを言われても気にせず、またポテトを取った。
「でも、午前だけで終わるの、やっぱ変な感じだったな」
「今週ずっとそうだったじゃん」
宮本がてりやきを持ち上げる。
「そうだけど。帰るには早いし、残るには半端だし」
「……それで結局、教室に残る」
井上がそう言って、ポテトを一本取る。
「それはある」
岡田が少し笑った。
「お前ら、ほんとよく残ってるよな」
「岡田もいるだろ」
「俺は後からだろ。部活終わってから」
「合流が自然すぎるんだよ」
僕が言うと、岡田は少しだけ得意そうな顔をした。
「それは才能」
「何のだよ」
井上がそこで笑う。ストローをくわえたまま、肩だけ少し揺れた。
隣の席では小さい子がナゲットの箱を開けるのに苦戦していて、その向こうで母親が笑っていた。ガラスの向こうの光は変わらないのに、店の中だけ時間が少し遅い。
宮本が飲み物を置く。
「夏休み入ったら、あの感じも一回切れるな」
「切れるってほどでもなくない?」
僕が言うと、井上が少しだけこっちを見た。
「勉強しに来るやつは普通に来るだろうし」
「あー、それはいるだろうな」
「図書館とか、教室とか」
「教室って使えんの?」
岡田が聞く。
「日によるんじゃね?」
宮本が曖昧なまま受ける。
たぶん、そうだった。
岡田が僕と井上の方を見る。
「てか、お前ら結局どうすんの。部活」
「急だな」
「いや、何か入らんのかなって」
「まだ分かんないけど」
「『まだ』って言うあたり、ゼロではないじゃん」
「お前が勝手に拾ってるだけだろ」
宮本がそこで少し笑う。
「でも、水野は入ってもそんな変ではない」
「何を基準に」
「雰囲気」
「雑すぎる」
「いや、でも分かる」
アイスティーをもう一口飲んだ。否定するほどでもないし、認めるような話でもない。井上はその間何も言わず、ポテトを一本取っただけだった。
紙袋の端が少し折れて、指先に油がつく。ナプキンを一枚取って、それからまたバーガーに手を戻す。窓の向こうでは、信号待ちの車が少しずつ前へずれていた。
宮本が包み紙を丸めながら言う。
「学園祭のやつ、休み明けたら一気に来そうだよな」
「気づいたらそんな時期になってそう」
会話が少し切れる。紙コップの底で氷が軽く鳴った。
「体育祭って、そのあとだっけ?」
「逆じゃなかった?」
「どっちだっけ?」
誰も答えなかった。
「まあ、暑い時期じゃないなら助かるけど」
岡田のその一言で笑いが起きる。
「そこ基準なんだ」
「基準になるだろ。涼しくなってからの方がいいじゃん」
話題はそこでまた切れて、今度は今週の授業の話になった。午前だけだと数学が長く感じるとか、現代文は逆に短いとか、どうでもいいのに少しだけ分かる話が続く。
トレーの上を見ると、ポテトはもう残っていなかった。氷もだいぶ小さくなっていて、紙コップの底でときどき軽く鳴る。
「でも、放課後の時間無くなると、ちょっと変かもな」
宮本が何気なく言う。
「無くなるってほどでもないだろ」
岡田が返す。
「いや、でも毎日あったのが急に無くなると、変じゃね?」
「…それはあるかも」
「帰る理由ないと、なんとなく残ってたし」
井上がそう言って、ストローに手をかけた。
「井上が言うとちょっと説得力あるな」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味」
岡田がそこで少しだけ黙った。トレーの上を見て、それから言った。
「まぁ、夏休み中も来るやつは来るだろ」
「お前、そこはずっとぶれてないな」
宮本が笑う。
「大事だからな」
「何が」
「なんか、あそこ空っぽだと変じゃん」
岡田はそこで続かなかった。宮本が少し笑って、井上が口元をゆるめる。僕も何となく分かる気がした。
しばらく誰も喋らなかった。隣の席で紙コップの蓋が鳴って、少し離れたところで椅子が引かれる。窓の外はまだ明るくて、白い光がガラスの向こうでそのまま止まっている。トレーの上には包み紙だけが残っていた。机の上が急に軽い。
岡田が先に立つ。
「じゃ、出るか」
宮本もそれに続いて、紙コップをまとめてトレーの端へ寄せた。井上が少し遅れて立ち上がる。残っていたアイスティーを飲みきって、氷だけになったカップをトレーへ戻した。
店を出ると、熱が戻ってきた。
外へ出た瞬間、空気ごと体に纏わりついてきた。さっきより日が少し傾いていて、それでも白さはまだ強かった。店の前の歩道には短い影が落ちていて、その端を四人で歩き出す。
岡田が先に大きく息を吐く。
「やっぱ外やばいわ」
「そりゃな」
岡田は首の後ろを手でこすった。井上が少し遅れて店の自動ドアを振り返って、それから僕の隣に並ぶ。中にいた時より会話は少なくて、でも気まずい感じはまるでなかった。コンビニの前を通ると、冷気が一瞬だけ扉の隙間から漏れてきた。腹の重さのまま歩いている。
交差点で信号を待つ。車道の向こうから熱が返ってきて、足元がじわっと暑い。誰も日なたへは出ずに、信号機の影の細いところへ寄って立った。
岡田が言う。
「でも、終わってそのまま帰るよりはよかったな」
「何が?」
「いや、普通に。今日」
それだけ言って、前を向いた。青に変わって、また歩き出す。信号を渡りきるところで、自転車が一台、すぐ横を抜けていった。
井上が少し遅れて口を開く。
「なんか、昼長かった」
「急にどうした?」
「変な意味じゃなくて。まだ明るいし」
「それはそう」
足元の影が少し伸びていた。帰るには早い。学校の中へ戻るわけでもない。その半端さが、今日はちょうどよかった。
駅の近くまで来ると、人が少し増えた。制服のまま歩いている人も何人かいて、コンビニの前には自転車が二台止まっている。四人の並びは途中で自然にほどけて、岡田が少し前、宮本がその横、井上と僕が少し後ろになる。
「お前ら、帰ったら何すんの?」
岡田が振り返らないまま言う。
「何も」
「雑」
「岡田は?」
「ちょっと寝る」
「部活あるとか言ってなかった?」
「あるけど、その前に少し」
「少しで済むやつ?」
宮本がそう言って笑う。
「今日は起きるって」
「その『今日は』、毎回聞いてる気がする」
そこで少し笑いが混ざる。井上は何も言わなかったけれど、口元だけ少し動いていた。
駅の手前で道が分かれる。岡田がそこで足を止めずに手だけ上げる。
「じゃあな」
宮本もそのまま続く。
「またな」
「またね」
二人の背中を少しだけ見る。すぐに人の流れへ混ざって、見分けがつきにくくなる。井上とはもう少しだけ同じ方向だった。
さっきまで四人だった並びが、急に二人分になる。静かになったという感じでもなかった。隣を歩く速度がそのままだったからかもしれない。
井上が前を見たまま言う。
「暑~」
「店のあとだと余計な」
「それ」
また少し黙る。
歩道の端には昼の熱がまだそのまま残っていた。建物の影へ入ると少しだけ楽で、そこを抜けるとまた白い光が前にある。
駅前でもう一度道が分かれる。井上が少しだけ足をゆるめた。
「じゃ」
「うん、また」
短くそれだけ交わして、一人で歩き出す。
空を見上げるほどでもなくて、ただ前を向いたまま歩く。道の先まで、夏の光がまだ続いていた。




