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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第38話「止まらない声」

 扉を開けたとき、最初に見えたのは、思っていたより残っている机の数だった。


 もっと引いていると思っていた。午前で終わる日だし、昼を挟んだあとなら、なおさら。


 けれど教室の中には、まだ人がいた。前、窓側、廊下側まで、座ったままの人がいる。女子の方が多くて、いくつかの声が分かれたまま続いていた。ひとつに寄らず、好き勝手な方向を向いたまま。


 教室の空気が、出る前より温くなっていた。出入りした人の分だけ、入口の近くに外の熱が残っている。窓の向こうの白さも、前より高くなっていた。


 木下さんは席を動いていなかった。机の上にはノートが開かれていて、弁当箱はもうしまわれている。その形だけ見えて、僕も自分の席へ戻った。


 昼に立つ前のまま、筆箱とノートが少しずれた形で残っていた。椅子を引くと、床が短く鳴る。


 前の方で紙をめくる音がして、遅れて笑いが混ざった。昼休みの続きとも、学食の時間とも、少し違った。


 右を見ると、木下さんがいったん顔を上げた。


「思ったより残ってるね」


 声は大きくなかった。近いところへだけ落ちるくらいで、ちょうどよかった。


「うん。もっと少ないかと思ってた」


 そう返すと、木下さんは教室の中を少し見てから、手元へ戻った。


「まだ始まってない感じもあるけど」


 ノートの端に置いた指先が、少し動く。


「もう待ってる感じもする」


 誰かが何か言えば、そのままそっちへ寄っていく前の、少しだけ止まっている時間だった。


 前の方で、佐藤さんの声がした。


「先生まだー?」

「もう来るでしょ」

「いやでも、これで来なかったらちょっと帰りたい」


 笑いが上がって、すぐに散る。黒板の前にまとまっている人もいれば、自分の席の向きを少し変えただけの人もいる。誰かが動けば、そこへ向きそうな空気だった。


 後ろの椅子が鳴る。


「…やっぱこっち来るんだ」


 振り返らなくても分かる音だった。


「ここしかないだろ」

「まぁそうだけど」


 後ろで井上が短く笑う。


 前の扉が開いて、先生が教卓の前で一度立ち止まった。残っている人数を見て、口元をゆるめる。


「意外と残ってるな。じゃあ、一旦おさらいするぞー」


 チョークが黒板に当たる。喫茶店、接客、裏方、会計、……と並べられていく。


「コンセプトは『休憩できる憩いの場』。役割の大枠も前に出したな。今日は、何を出すか・何が要るか・教室をどう使うかを具体的にしたい」


 先生がチョークを置く。一拍だけ静かになって、夏の光が廊下側の床の端まで来ていた。


 前の方で、誰かがノートを引き寄せる。紙の端が机に擦れる。


「前回って、メニューの話どこまで出たっけ」

「コーヒーと紅茶は出てたよね」

「あと、甘いのちょっと置きたいくらい?」

「クッキーとかパウンドとか」


 黒板に残った白い字を見ている人と、手元のノートを見ている人とで、視線がまだ揃いきっていない。


「でも、コーヒーと紅茶だけだと、ちょっと寂しくない?」

「それはある」

「小さい子も来るなら、ジュースは要るでしょ」

「うん、それは要る」

「オレンジとか、りんごとか?」

「せめてそのくらいは欲しいよね」


 声の出方が少しだけ早くなる。


「カフェラテとカプチーノは入れたい!」

「ミルクティーもよくない?」

「レモンティーあったら、ちょっとそれっぽい」

「なんか、ちゃんと喫茶店」


 小さく笑いが混ざる。前の方の固まりが、少し前へ出た。


「……カフェモカってできるかな?」

「チョコどうするかじゃない?」

「でも、できたらちょっとテンション上がるよね」

「上がるね」


 先生が黒板の端に書き足していく。ジュース(オレンジ、りんご)、ラテ、カプチーノ、ミルクティー、レモンティー、カフェモカ(検討)。


「クッキーとパウンドだけでもいいけど…」

「マカロンあったら、だいぶ強くない?」

「それは強い!」

「それ一個あるだけで一気にちゃんとする」

「絶対そっち選ぶ人いるって」

「セット作れそうじゃない?」

「飲み物とお菓子で?」


 机に肘をつく音、シャーペンが転がって止まる音、ノートをめくる音まで軽かった。


 先生がまた黒板に書く。クッキー、パウンド、マカロン。セット。


「値段もざっくりは欲しいよね」

「高すぎると入りにくいし」

「でも安すぎても、なんか違う」

「飲み物は割高でもよくない?」

「お菓子は手ごろの方が取りやすそう」

「ケーキ系あるなら、そこだけちょい上でもよさそう」

「セットはお得だと嬉しい」


 そこで少し間があった。黒板に、飲み物割高、焼き菓子手ごろ、セットお得、と丸で囲まれていく。窓からの光が、さっきより机の奥まで入っていた。


 前の固まりから少し離れたところで、別の声が立った。


「機械って一台で回る?」

「いや~きついでしょ」

「ラテ続いたら詰まりそう」

「いくら全自動でも、一台だけだと待ちそうだよね」

「じゃあ、ラテ系だけでも分けたらいいんじゃない?」

「エスプレッソマシンとか持ってる人いないかな?スチーム付きの」

「てか、学校にないの?」

「案外ありそう」


 笑いが広がる。窓の光が、机の端で少し白くなっていた。男子の声もそのへんから混ざり始めた。


「でもさ、ラテ系は手でやる方が絶対ちゃんとして見えるよね」

「わかる!」

「……ラテアートとか?」

「うわ~いいね」

「そこまで行けるかな?」

「ラテアートまでは無理でも、粉振るだけで全然違いそう」

「シナモンとかココアとか?」


 佐藤さんの声もその中に混ざっていた。


「それ、凄いいい!」

「写真撮る人とかもいそう」

「ラテアートまで行けたら、だいぶアガるな~」

「わかる、ちょっと見たいもん」


 後ろで井上が短く吹く。


「女子ってすぐ写真の話する」

「まぁ、ちゃんとして見えるのは大事だろ」

「それはそう」


 前を見たまま返す。全自動でそのまま出すより、たしかにその方が店に近い。味より先に、出されたときの形が先に立つ気がした。


 右隣で、木下さんがノートに何か書き足した。


「……全部じゃなくていいよね」


 前を向いたまま、手元へ落とすような声だった。


「最後だけ手が入ってれば、って感じ?」


 木下さんは少し考えてから、返した。


「その方が……なんか、違う気がして」


 木下さんはノートへ目を戻した。前の方の声は続いている。


「接客は、あんまり元気すぎない方がいいよね」

「うん、もっと静かな方がよさそう」

「『どうですかー!』ではない」

「『いかがですか?』くらい?」

「『よかったら休憩していきませんか?』とか?」

「そこまでいくと、ちょっと丁寧すぎない?」

「でも、そっちの方がコンセプトには合ってると思う」


 先生はそこまでを拾って、接客=落ち着いた接客、と書き足した。


「入口と出口は分けた方がいいよね」

「じゃあ出口側に会計置いたら、導線きれいじゃない?」

「たしかに、その方がわかりやすい」

「普通に店っぽい!」


 また笑いが広がって、黒板の方へ目が向く。


「入口に大きいメニュー置きたいよね」

「うん、ぱっと見えるやつ」

「席ついたあとも見るでしょ」

「卓上のも欲しいね」

「じゃあ二種類?」


「テーブルクロス、白とか生成りっぽいやつがよくない?」

「落ち着いた色の方が合う」

「窓側は休める席にしたいかも」

「だったら、そっちにスタンド置きたい!」

「観葉植物とかあったら雰囲気よくない?」

「小さいやつなら可愛い」


 先生がチョークを持ち直す。メニュー(大、卓上)。クロス(白系)。窓側休憩席。スタンド。観葉植物。


 書かれた字が増えるたび、目が黒板から離れていく。引き戸、窓際、机の並び。黒板を見ていたのに、気づいたら今いる教室を見ていた。


 最初に書かれた「喫茶店」という字が、今は少し遠くなっていた。


「じゃあ今日はこのへんにしとくか」


 先生がそう言って黒板を見上げる。


「消す前に撮っとくぞ」


 スマホを取り出して、黒板を写真に収める。


「先生それ送ってくださいよー」

「あとでクラスのに流す」

「じゃあ撮らんでよかったー」

「いや、でも撮っとこかな」

「どっちなん」


 帰る人の足音が廊下へ抜けていく。椅子を戻す音がいくつか続いて、そのたびに教室が少しずつ空いていく。


 気づけば、残っているのは見慣れた四人だった。黒板はそのままで、教室だけが広くなったような気がした。


「なんか、ほんとにやるんだね」


 前の席に手をかけたまま、佐藤さんが黒板を見ていた。さっきまでの明るさが少しだけ残った声だった。


 後ろで椅子が少し動く音がした。


「今更でしょ」


 佐藤さんはまだ黒板を見ていた。


「いや、そうなんだけどさ。こんな本格的になるとは思ってなかった」


 井上が短く息を吐いた。


「でも、だいぶお店っぽくはなったよね」

「うん」

「普通に入りたいもん」


 前を見たまま、黒板の字を追う。入口のメニュー、窓側の席、出口の会計。頭の中で順番に置いてみると、さっきより自然だった。


「葵、接客のイメージはあんま湧かないなー」


 黒板から目を離して、振り返る。


「いきなりだな」

「いや、でも分かる」

「井上まで乗るなよ」


 井上がくつくつ笑った。


「じゃあ、会計とかは?」

「え?」

「お金の管理ちゃんとしてくれそうだし」


「………」


「葵?」


 少し遅れて、息をつく。


「…いや、計算苦手なんだよな」


 笑いが少し大きくなる。井上が肩を揺らして、佐藤さんがぱっと笑った。


「え、そういう話?」

「急に黙んなよ、怖いわ」

「いや、別に……」


 言葉が切れる。右を見ると、木下さんの目元が和らいでいた。


 笑いが収まると、教室に静けさが戻った。さっきまで人がいた席が、空いたままだった。窓の外では、グラウンドの方から掛け声が断続的に届いていた。廊下もさっきより静かで、たまに誰かの足音が遠くなっていった。


 窓の外の声だけが、まだ続いていた。

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