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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第37話「戻る足」

 朝、校舎へ入る前から、外はもう白くなりすぎていた。


 正門の辺りのアスファルトは、見ているだけで熱を返してくる。向こうの地面が少し揺れて見えるのは、たぶん陽炎だった。グラウンドの端の白線も、朝なのに輪郭が少し曖昧で、空だけがやけに高い。


 昇降口を上がって、廊下へ入る。そこでようやく、肌に触れていた熱が一度切れる。でも涼しいというより、冷房の気配が薄く流れているだけで、窓の外の明るさはそのまま張りついていた。教室の前まで来ても、背中にはまだ外の熱が残っている。


 扉を開けると、教室の空気は少しだけ冷えていた。


 首の後ろに触れる温度が、廊下とは違う。鞄を机に置くと、指先だけが遅れて落ち着く。ただ、窓の向こうの白さだけは入っても変わらなかった。外はもう昼みたいなのに、教室の中だけ、光が一段薄いところで止まっている。


 前の方で椅子が鳴って、少し遅れて別の席でファスナーの音が短く鳴る。僕は筆箱を机の端へ寄せて、まだ閉じたままのノートに手を置いた。


 右隣では、木下さんが鞄からノートを出している。表紙の角を揃える手つきだけが先に見えて、顔を上げる前に、教卓の前で紙の擦れる音がした。先生が入ってきて、出席簿を置いたらしかった。


 まだばらけていた声が、それで一度だけ浅く止まる。


「今日は、午後の時間に学園祭の話を進める。部活とか用事あるやつはそっち優先でいい」


 前の方で、小さく「えー」が上がった。笑いまで広がりきらないまま、すぐに別の席のページをめくる音へ戻る。


「一応、出られるやつだけ出てくれたらいい。今日で全部決めるわけじゃないからな」


 先生はそこまで言って、もう出席簿を開いていた。


 僕は前を向いたまま、少しだけ右を見る。木下さんはまだ手を止めていなかった。ノートの上にシャーペンを置いて、先生の方へ目だけ向けている。その横顔が、すぐまた前へ戻る。


 出席が始まる前の短い間に、右から小さい声がした。


「水野くん、出る?」


 木下さんはノートに置いたままの指先を少しだけ動かして、こっちを見る。急に話しかける感じではなくて、さっき先生が言ったことの続きを、そのまま近いところへ落としたみたいな聞き方だった。


「たぶん」


 そう返すと、木下さんは一拍だけ置いた。


「私も、たぶん少しだけ」

「そっか」

「水野くん、『たぶん』好きだね」


 木下さんはそう言って、微かに笑った。先生が最初の名前を読む声が、そのすぐあとに重なった。


 一時間目が始まると、教室はまたいつもの形に近づく。ページをめくる音、黒板を向く時間、窓の外の強い明るさ。午前だけで終わる日でも、授業が始まってしまえば、途中までは普段とそこまで変わらない。変わるのは、四時間目が近づいてきてからだった。


 教科書を閉じる手つきがどこも少しだけ早い。けれど、帰り支度へそのまま流れ込むほどでもない。机の上のものが、授業の終わり方と昼の始まり方のあいだで一度止まる。


 最後の授業が終わっても、すぐには立つ人が少なかった。


 午前で終わる日の軽さはあるのに、帰るだけの日とも違っていた。今日はそのあとが残っている。そのせいで、机の上のものがどこも一度だけ中途半端な場所に止まる。


 先生が前へ立つと、さっきまでばらけていた音が少しだけ浅くなる。


「朝にも言ったけど、午後は来れるやつだけでいいからな。……じゃあ解散」


 前の方で小さく返事があって、すぐに椅子を引く音へ混ざった。


 終礼が終わると、今度こそ椅子を引く音がいくつかまとまる。けれど、そのまとまりもすぐには一つにならない。教室を出る人、席で鞄を探る人、弁当箱を出す人。午前が終わったあとの時間が、そこでようやく昼の形へほどけていく。


 財布だけ持って立つ男子が前の方に集まり始める。その一方で、女子は教室に残ったまま弁当箱を出している人が多かった。木下さんの机の上にも、細い箸箱が先に出ていた。佐藤さんの声はその少し前から聞こえていたけれど、どこで笑ったのかまでは分からない。近いようで、そこだけ少し遠い。


 僕も鞄の中から財布を探して、立ち上がる前にもう一度だけ右を見る。


「午後、どのくらいやるんだろ」


 木下さんは箸箱を机の上に置いたまま、少しだけ首を傾けた。


「そんなに長くはやらないんじゃない?」

「だといいけど」

「でも、少しは進みそう」


 言い終わったあとも、最後の音だけが少し耳に残った。


「行こーぜ」


 岡田の声に振り向くと、もう宮本が立っていた。河田と藤森も近くにいて、誰が先に教室を出るかで少しだけ渋滞している。


「水野、遅れんなよー」

「別に走らんでも間に合うだろ」

「そういうとこなんだよなー」


 藤森が笑って、河田が先に扉を開ける。井上はその少しあとで立って、一拍遅れて流れに入った。


 廊下へ出ると、教室の冷えがそこで切れた。階段の踊り場まで降りるあいだに、シャツの背中へ熱が戻る。午前で終わる日の流れは、午後の授業がないぶん、足だけ少し軽い。けれど、帰る方へほどけていく感じとも違っていた。まだ学校の中にいる時間が、そのまま前へ押されているみたいだった。


 学食の手前まで来ると、空気が先に変わった。


 開いた入口の向こうから、食器の当たる音が断続的に届く。トレーを引く音、返却口の近くで何かがまとまって鳴る音、少し遅れて重なる笑い声。昼休みほどの混み方ではないのに、午前で終わる日にしては人が多かった。


「やってんじゃん」

「そりゃやってるだろ」


 岡田が先に中を覗き込んで、河田がそのまま券売機の方へ流れる。僕らもそれに続いた。


 券売機の前は、見た目より進みが遅かった。前の人が迷っているわけじゃないのに、列が少しずつ詰まる。財布を出す手、食券を取る音、横へずれる足。床の線に沿って並んでいるだけなのに、途中からはほとんど一つの流れみたいになっていた。


「何にする?」

「もう決めてる」

「はや」


 宮本はそう言いながら、ほとんど迷わずボタンを押していた。岡田は横でまだ迷っていて、河田は後ろから覗き込みながら余計なことを言っている。藤森はそのやり取りを見て少し笑っているだけで、自分の番が来たら普通に買った。


 僕は前の人が動いたあとで、ようやく空いた表示を見る。何回も見ているはずなのに、こういうときだけ少し遅れる。後ろがつかえているわけでもないのに、急いだ方がいい気がして、余計に決めにくくなる。


 食券を買って、受け渡しの列へ回る。トレーの端を持ったまま少しずつ前へ進むと、湯気と油の匂いが混ざって近くなる。カウンターの向こうで皿が置かれるたび、白い音が短く立つ。


「水野、ぼーっとしてると抜かされるぞ」

「抜かさないだろ」

「いや、たまにある」


 岡田が笑いながら言って、先に自分の分を受け取った。宮本はもう少し先にいて、空いている席の方を見ている。井上は僕より少し遅れて受け取って、そのまま同じ列の流れに乗ってきた。


 料理を受け取って席を探す頃には、さっきまでの教室よりずっと音が多かった。椅子を引く音も、食器が触れる音も、誰かの声にすぐ別の声が重なることも、ここでは全部が止まりきらない。固まって座ると、なおさらだった。


「お、あそこ空いてる」

「早く座ろうぜ」


 河田が先にトレーを置いて、岡田がその隣へ滑り込む。僕は宮本の向かいに座って、少し遅れて井上が横へ来た。藤森は端の席にトレーを置いてから、一度立ち上がって水を取りに行く。


 味噌汁の湯気が、顔の近くで一度だけ曇る。


 食べ始めると、ようやく身体が昼だと認めた。午前で終わる日は、そこで急に時間が余る。でも今日は、学園祭の話が残っているせいか、完全にほどけるところまでは行かない。早く終わった日の軽さと、まだ帰らない日の半端さが、同じ机の上に並んでいた。


「で、出んの?」

「まあ、出るとは思う」

「行けたら行く、みたいに言うなよ」

「まだ分からん」


 井上が横から入って、岡田が笑う。


「水野、こういうときずっと煮え切らんよな」

「最後までこのままかもしれん」

「それはそれでだるいって」


 河田が先に吹いて、藤森が水の入ったコップを置きながら少し遅れて笑った。宮本は笑いながらも、食べる手だけ止めない。


「まあ、でも出るやつ結構いそうじゃね?」

「女子の方が多そう」

「だろうな」


 学園祭の話も少しは出た。でも、誰が出るとか、何をするとか、その程度で、話はもう別の方へ流れていた。


 途中で、岡田が宮本の皿を見て「それにしたんだ」と言って、そこからしばらく昼のメニューの話になった。河田はそれに乗りながら、また別のものを勧めてきて、藤森は「毎回それ言ってない?」と笑っていた。井上は会話の端にだけ入って、ずっと黙っていることはない。


 食べ終わる頃には、人の流れも少し引いていた。


 返却口の方で食器が重なる音が、さっきよりはっきり聞こえる。トレーを持って立つと、椅子の脚が床を短く擦った。


「戻る?」

「一旦戻ろうぜ」

「まだ時間あるしな」


 宮本がそう言って、岡田がもう歩き出していた。僕もトレーを返して、そのまま後ろへつく。学食を出ると、まだ昼のはずなのに、足取りだけが少し軽かった。


 それでも、教室へ戻る足はちゃんと学校の中へ向いていた。

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