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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第36.5話「閑話:入ってくる」

※閑話。第2話「遊園地」と第3話「放課後の教室」のあいだにあった出来事。

 朝の教室は、まだ少しだけ白かった。


 四月の光はもう十分明るいのに、窓の外の色まで教室の中へ入ってきていない感じがする。廊下側のガラスに、人の影だけが先に映って、誰かが通るたびに細く揺れた。椅子を引く音がいくつか重なって、すぐにばらける。筆箱のファスナーが短く鳴って、またどこかでノートの端が机に擦れた。


 僕は鞄から現代文のノートを出して、昨日の続きみたいにページを開いた。見返すほどの内容でもなかったけれど、手を止めているよりは、何かしている方が落ち着いた。


 前の方で岡田くんが笑っている声がして、その少しあとで宮本くんの低い声が混ざった。何を話しているのかまでは聞き取れなかったけれど、教室の空気が、入学したばかりの頃より少しだけ速く動いているのは分かった。


 その途中で、横から井上くんがプリントを一枚差し出してきた。


「水野くん、これ出した?」


 見れば、朝の小テストの解き直しだった。昨日、回ってきたまま鞄に入れていたやつだ。


「……あ、まだ」

「やっぱり」


 井上くんは口元だけで少し笑って、自分の机へ戻りかけてから足を止めた。


「今日までっぽいよ、たぶん」

「たぶんなの?」

「うん、たぶん」


 そこで岡田くんが後ろから覗き込んできた。


「水野くん、そういうの絶対溜めるよね」

「まだ一枚だから」

「一枚目から始まるんだって、そういうの」

「妙に実感ある言い方するじゃん」


 言うと、岡田くんが吹き出した。少し遅れて宮本くんも笑う。


「まあでも、水野くんなら授業中に思い出しても何とかしそう」

「何とかする前提なんだ」

「しないよりは、する側っぽいし」


 そこまで話して、チャイムが鳴った。近くにいたから少し続いただけの会話だったけれど、そこで切れても、気まずくはなかった。


 一時間目が始まると、また教室は静かになった。先生の声と、ページをめくる音と、どこかで誰かが消しゴムを落として拾う気配。それだけになってからも、さっきのやり取りが机のあたりに少し残っている感じがした。


 昼休みも、似たようなものだった。


 誰かと一緒に食べる約束があるわけではない。僕は自分の席で弁当箱を開けて、箸を取った。教室の中には、うっすら春のやわらかさが残っていて、それがまだ机のまわりにとどまっていた。


 教室のあちこちで鞄の音がして、前の方ではもう何人かが立っている。学食へ行く人もいれば、そのまま教室に残る人もいる。まだ、どっち側に自分がいるのかはよく分からなかった。


「水野くん、それ足りる?」


 食べている途中で岡田くんが前を通りがかって聞いてきた。


「足りるよ」

「ほんとに?」

「たぶん」

「その“たぶん”、信用ならんのよな」


 その後ろで宮本くんが笑って、井上くんが少し遅れて口を開いた。


「まあ、足りなくても午後あるだけだしね」


 それで終わった。特に広がらない。広がらないまま、それでも話したことだけは残った。


 終礼が終わると、椅子を引く音が一度だけまとまって、そのあとすぐ薄くなった。


 帰る人の鞄の音が先に増えて、教室の空気は軽くなる。部活に行く人は慌ただしいし、すぐ帰る人は既に気持ちが教室の外にある。僕は英語のノートを開いて、今日の範囲の単語を見直していた。見直す必要があるほど進んでいたわけでもないけれど、家に帰ってからやるとも思えなかった。


 窓の外はまだ明るい。春の光は思ったより長く残るのに、窓の近くの空気にはもう冷たさがあった。放課後と言うには早い時間なのに、終礼のあとだと思うと、もう一日が終わった側に入っている気もした。その半端さが、妙に落ち着いた。


 教室にはもう僕しか残っていなかった。静かというほどではないけれど、人の気配が抜けたぶん、黒板に残った白い線や、窓の向こうでまだ明るいグラウンドまで、さっきより素直に目に入った。


 ノートに目を落としていると、前側の引き戸が開いて、よく通る声が入ってきた。


「え、水野くん、まだいるじゃん」


 よく通る声が入ってきて、さっきまでの静けさが少しだけ崩れた。顔を上げると、ジャージ姿の二人が立っていた。顔は見たことがあるのに、名前だけがうまく出てこなかった。


 その間を向こうも察したみたいで、手前の方が軽く顎を引いた。


「おれ河田。こっちは藤森」

「あ、どうも」


 河田くんの方がそのまま近くまで来て、藤森くんは横で力を抜いたまま立っていた。


「もう帰る流れじゃなかった?」

「いや、別に……まだ」

「勉強?」


 河田くんの声がそのまま机の上へ落ちてきて、僕は開いたノートを見た。


「まあ、うん。ちょっとだけ」

「えら」


 間髪を入れずに言われて、僕は顔を上げた。そういう反応が来るとは思っていなかった。


「いや、別に。帰ってもやることないし…」

「それで残って勉強すんの、普通にえらくない?」

「河田が言うと余計そう聞こえるな」


 藤森くんが少し笑って、机の端に手をついた。


「でもほんと、真面目だなとは思う」

「真面目っていうか、なんとなく残ってるだけ」

「それでノート開いてるなら十分じゃない?」


 言い方は軽いのに、変に茶化している感じはしなかった。河田くんは、遠慮なく僕のノートを覗き込んでいる。


「英語じゃん。うわ、見るだけで眠い」

「まだ何もやってないけど…」

「なおさら眠い」

「理屈おかしいでしょ」


 そう言うと、河田くんはけらけら笑った。藤森くんもその横で小さく笑って、僕のノートの余白を見たまま、急に違うところを拾った。


「水野くん、字きれいだね」

「そう?」

「うん、河田よりはだいぶ」

「おい、なんで今おれ下げた?」

「だって汚いし」

「汚くないって。ちゃんと読めるから!」

「自分で言うやつ、だいたい怪しいんだよな」


 二人のやり取りが、そのまま目の前で広がって、教室の空気が少し近くなった。僕はまだ座ったままだったけれど、さっきまで一人でノートを見ていたときほど、切り離されている感じはなかった。


 河田くんがふと時計を見て、少し焦ったみたいに言った。


「やば。そろそろ戻るわ、先輩に言われる」

「最初から戻る気あった?」

「一応あったよ?」

「今、一応って言った時点で怪しいけど」


 藤森くんがそう言って、引き戸の方へ向き直る。その途中で、もう一度だけ僕の方を見た。


「水野くん、また残ってたら声かけるわ」

「…うん」


 答えると、河田くんがすぐ横から入ってきた。


「じゃあ、次はちゃんと勉強してるとこ見せて」

「今もしてたけど」

「してた“けど”の感じなんだよなー」


 二人はそのまま廊下へ出ていった。引き戸が閉まって、また教室に余白ができる。


 ノートに視線を戻す。さっきまで見ていた単語は、ほとんど頭に入っていなかった。


 廊下の向こうで、河田くんの声が一回だけ大きく響いて、そのあと何かに重なって遠くなった。僕はペンを持ち直して、開いたままの余白に目を落とした。


 まだ、教室にうまく馴染めているとは思えなかった。誰といても自然、みたいなところまでは全然行っていない。


 でも、さっきまでよりは少しだけ、この教室の時間が自分のところでも流れていた。


 窓の外はまだ明るかった。教室の中には、帰ったあとの机と、開いたままのノートと、少し遅れて静かになる時間だけが残っていた。

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