第36話「昼の放課後」
引き戸を開けた瞬間、先に教室の冷えた空気が触れた。
すぐ後ろに残った廊下の熱が、開けた隙間から少し遅れて入ってくる。肩にかけた鞄の紐を持ち直して中へ入ると、背中に張りついていた汗だけが変に意識に残った。遅れた、というほどではない。でも、何でもない顔で入っていける時間でもなかった。
教室の中は冷えているのに、窓の外の光だけはもう完全に夏だった。席はまだ埋まりきっていない。声もある。けれど、午前授業の日の朝らしく、重なる声も机の上もまだ落ち着きがなかった。机の上に出ているノートは少なくて、筆箱も出てはいるものの、端へ寄せただけの机が多かった。
前の方で、少し早い声がひとつ跳ねた。すぐあとに、明るい返しが短く続く。内容は聞き取れなかったけれど、そのやり取りだけが教室の中へ浅く広がっていた。
僕は鞄を机の横にかけた。
右で、木下さんが手を止めた。開いていたノートから目を上げて、こっちを見る。少しだけ口元がやわらいだ。
「危なかったね」
「…まだ平気」
「今日はちょっと怪しかったけど」
「ちょっと、でしょ」
「うん、ちょっと」
それだけ言って、また手元に視線が戻る。机の上のシャーペンを揃え直す指先が、いつも通りきれいで、そのぶんだけ少し遅かった。
「葵、おはよー」
佐藤さんの声がして、僕はそっちに顔を向ける。
「おはよ」
「今日ほんとやばくない? 暑すぎるよー」
「朝でこれだと、昼どうなるんだろ」
「うちはもう来た時点でえらい」
佐藤さんが笑いながら椅子を引く。後ろで椅子の脚が床を擦った。
「水野、マジでギリじゃん」
「いつも通りでしょ」
「開き直んなよ」
岡田が笑って、その隣で井上が少し遅れて座り直す。
「でも間に合ってるしね」
「井上、それは甘い」
「朝から厳しいなぁ」
井上の声はまだ少し眠そうで、教室の冷えた空気の中だと余計に遅く聞こえた。前の方では、またさっきの少し喧しい声がして、短い返しが重なる。
一時間目が始まるころには、教室はちゃんと朝の形に戻っていた。ただ、机の上の軽さだけが残っていた。
授業はそのまま四つ続いた。英語の先生の声も、板書の速さも、誰かがページをめくる音も、いつもとそう変わらない。ただ、ページをめくる手も、ノートに戻る目も、いつもより少しだけ浅かった。二時間目の終わり際に窓の外の光が強くなって、三時間目には冷房の風が腕に当たる場所だけ嫌に冷たかった。四時間目にもなると、どこかで欠伸を噛み殺す息遣いがして、それが小さく広がった。
最後の授業が終わっても、すぐには崩れなかった。
少しして前の扉が開く。
「連絡だけするぞー」
先生の声で、教室のざわつきが一度だけ前に寄る。きれいに静かになるわけじゃない。でも、教卓の方を見る顔は揃っていた。
明日の持ち物と、提出物の確認。それから部活の連絡。短く順番に進んで、先生は最後に出席簿を閉じた。
「以上。じゃ、気をつけてな」
椅子を引く音が一度まとまって、そのあとですぐばらける。けれど立つ人はまだ少ない。鞄の持ち手に手をかけたまま、そのまま座っている人が何人もいた。窓の外は明るいままで、冷えた教室の中だけが少し止まっているみたいだった。
佐藤さんが小さく息をつく。
「終わったー、って感じでもないね」
「まだ昼だしね」
「それはそうなんだけどさー」
木下さんは出ていたノートを重ねて、角を揃えていた。手は止まるのに、またすぐ端に触れた。僕も筆箱に消しゴムを戻しただけで、そのまま手が止まった。
後ろで岡田が机を軽く叩く。
「午後まるっと空くって、やっぱ変な感じだな」
「空くって言っても、学校にはいるしね」
「それなんだよなー」
井上が少し遅れて口元だけで笑う。岡田もつられて笑いかけたところで、少し離れた位置から、朝と同じ声が入った。
「だから半端なんだって。終わった感ないし」
教室の何人かがそっちを見る。僕も顔を上げた。声の方が先に目立つのに、周りはもうその調子に慣れていた。
「河田、お前それ今日ずっと言ってない?」
「言ってる。だってほんとだろ」
笑いが短く広がる。河田は言い終わったあとも、そのままの温度で前を向いていた。前へ出るのに、浮いて見えない。
「でもまあ、残るやつは残るんじゃない?今日すぐ帰る感じでもないし、部活のやつもいるだろうしさ」
河田の後ろから別の声が続いて、井上が少し遅れて笑う。
「藤森くん、それちょっと雑じゃない?」
「雑だけど、そんなもんじゃない?大雅も朝からあの調子だし」
また笑いがこぼれる。さっきより少し大きい。河田がすぐ何か返して、藤森も短く乗る。二人だけで前へ出すぎないまま、声だけがうまく残る。
宮本が椅子を鳴らしながら体を向ける。
「何もなきゃ帰るけど、部活のやつはどうせまだだろ」
「ほら、宮本もこう言ってるじゃん」
「お前がまとめるなよ」
岡田がすぐに返して、あちこちで短い笑いが広がった。大きくはないのに、机の間に器用に広がっていく。木下さんは手元のまま少しだけ笑って、それから弁当箱を出す前に、またノートの位置を揃え直した。
「葵、今日どうするの?」
「まだ決めてない」
「だよね。今決める感じもしないし」
佐藤さんがそう言って、木下さんの方を見る。
「佳乃ちゃんは?」
「まだ何も」
「まだって、お弁当?」
「それもあるけど…」
少しだけ笑ってから、木下さんはもう一度手元のノートを揃えた。
「このまま、すぐ動く感じでもないし」
そのまま、また机のあいだが少し動いた。
誰かが立って椅子が鳴る。ひとつ動くと、別のところでも鞄の持ち手が上がった。けれど教室はまだ半分くらい座ったままで、弁当を出す人もいれば、そのまま何も出さない人もいた。帰る人と残る人の線が引かれないまま、机のあいだだけが少しずつ動き始めている。部活組も、今すぐ出るわけじゃない。教室はすぐにはほどけきらなかった。
僕は、筆箱を閉じずにそのまま机の端へ寄せた。冷えた空気の中に、誰かが開けた扉から廊下の熱が一瞬だけ混ざる。鞄の金具が鳴って、前の方でまた河田が何か言う。それに藤森が短く返す。内容までは拾えなかったけれど、短いやり取りの声が、前の方から伸びてきていた。
「午前授業期間も、学食ってやってたっけ?」
「どうだろ。開いてそうではあるけど……」
そんな声も、まだ立ち上がりきらない椅子の音に混ざっていた。
まだ散りきっていない机の間に、本来なら昼休みになっているはずの時間が、少しずつ広がっていた。




