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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第35話「重なっていたもの」

 朝の教室は、もう七月の終わりみたいな音がしていた。


 鞄を机の横に掛ける音も、筆箱のファスナーを引く音も、四月の頃より少しだけ雑だ。窓の外はよく晴れていて、廊下側のガラスに光が薄く跳ねている。前の方では、もうプリントを机に出している人がいて、その白さが先に目についた。


 僕は椅子を引いて座り、机の端に英語のノートを置いた。紙の角が少し反っている。指で押さえても、すぐ元に戻った。


 右隣で、木下さんが筆箱を開いたまま、シャーペンを二本だけ机の奥へ揃えていた。ノートの端がぴったり重なっていて、そこだけ少し整いすぎて見える。前の方では、佐藤さんが椅子を浅く引いたまま、何か話しながら笑っていた。後ろでは、井上がまだ鞄を机に引っかけたままで、椅子に半分だけ座っている気配がある。


 チャイムの少し前に、先生が入ってきた。


 教卓に出席簿を置く音がして、それまで前の方に集まっていた声が少しずつ席へ戻る。完全に静かになる前に、先生が教室を見渡した。


「じゃあ、朝の連絡だけ先にするな。来週から一応、夏休みには入るけど――」


 そこで一度、前の方の席がわずかに動いた。椅子の脚が短く鳴る。


「最初の一週間は午前授業な。登校はいつも通り、四時間で終わり」


 教室のあちこちで、声が一斉にこぼれた。


「はぁ?」

「え、何それ」

「夏休みって何?」

「意味分かんな」


 笑いに近い声も混ざっていたけれど、どれもちゃんと不満そうで、そのせいで余計にまとまりが悪かった。教科書を閉じかけていた手が止まったり、机に伏せていた顔が上がったりして、教室全体が一度だけ前へ傾いたみたいになる。


 後ろで井上が小さく息を吐いた。


「……ほんまに最悪」


 振り向くまでもなく、少し遅れて出た声だった。


 僕も前を見たまま、口だけ動かした。


「午前だけって、逆に嫌じゃない?」

「わかる。来るなら来る、休みなら休みでいいのに」


 佐藤さんの声は前からまっすぐ届いた。木下さんはすぐには何も言わなくて、ノートの端に置いていた指をいったん離してから、少しだけ顔を上げた。


「中途半端だよね」


 小さいのに、そこだけはっきり聞こえた。


 前の方で岡田が椅子を鳴らした。


「先生、それ夏休みって言わなくてよくないっすか」


 教室のあちこちで笑いがこぼれる。先生もすぐには切らず、少しだけ口元をゆるめた。


「お前たちにはまだ早いけど、午後休ってやつだな」

「一日休みがいいー」

「それは我儘だろ」

「午前ある時点でもう休みじゃないですって」


 また笑いが広がった。文句は言いながらも、半ばもう諦めているみたいな笑い方だった。


 僕は頬杖をつきかけてやめた。校庭の端まで光が回っていて、白く乾いた感じが窓の向こうにある。夏休み、という言葉だけが先に置かれて、そのあとに続いたのはいつも通りの登校時間だった。


 来週の朝もここに来る。けれど、昼には帰るらしい。


 教室のざわつきが戻っていっても、違和感とも言えない感じだけが残っていた。


「じゃあ、文句はそのへんで聞いとくから。連絡続けるぞ」


 先生がそう言って出席簿を開くと、教室のざわつきはまだ少し残ったまま席へ戻っていった。完全に元通りではない。誰かが「いやでも意味分からんて」ともう一回だけ言って、前の方でまた小さく笑いが起きた。


 一時間目が始まってからも、朝のざわつきは机の上に少し残っていた。


 教科書をめくる音の間に、まださっきの不満がどこかに混ざっている気がする。黒板の字をノートへ写していても、「最初の一週間」という言い方だけが妙に中途半端で、そこだけ消えずに引っかかっていた。夏休み前の金曜日みたいな軽さではあるのに、そこまで素直には浮けなかった。


 二時間目、三時間目と過ぎても、その感じはページをめくるあいだにまだ残っていた。


 休み時間になるたび、朝の話がどこかで蒸し返される。


「マージでだるい」

「四時間っつっても、朝からなのが終わってる」

「部活ある人は別に変わんなくない?」

「いや授業は嫌だろ」


 そういう声が、教室の前でも後ろでも短く切れて、そのたびにまた笑いが混ざった。学園祭の話も時々出ていたけれど、それはこの前までみたいに教室の真ん中へ集まる感じではなくて、朝の連絡のあとに浮いたままの空気へ、端から少しずつ入ってくるだけだった。


 昼休みのチャイムが鳴ると、椅子を引く音が一度だけまとまった。


 そのあとで、いつも通りばらける。


 財布を持って立つ人、弁当を出す人、もう廊下へ出ていく人。教室の中の流れが昼の形に変わっていく。僕も机の中から財布だけ取って立ち上がった。後ろで井上が鞄の中を探る音がする。


「水野、行く?」

「行く」


 廊下へ出ると、同じ方向へ流れる男子の背中がいくつも見える。前の方にいた岡田がもう階段のところで誰かと話していて、宮本はその少し後ろをゆっくり歩いていた。


 学食はいつもより少しだけ騒がしかった。


 夏休み前だからなのか、ただ昼休みだからなのか、券売機の前の列も返却口の音も、どこか浮いている。トレーの角がぶつかる音、椅子を引く音、食器の当たる乾いた音。冷房は効いているのに、人の声の熱だけは抜けきっていない。


 席を探して、空いていたところへ流れるみたいに座る。宮本と岡田は同じ卓の斜め向かいにいて、少し遅れて井上がトレーを持ったまま来た。周りにもクラスの男子が何人かいて、声は一つにまとまらずにあちこちへ散っている。


「いや、最初の一週間だけってのが一番腹立つわ」


 岡田がスプーンを持ったまま笑う。怒っているというより、文句を言うのがちょうど楽しい温度だった。


「潔くないよな」

「潔さで学校やってないだろ」


 宮本がそう返して、自分の皿を少し奥へ寄せた。井上が味噌汁の椀を持ち上げたまま、遅れて入る。


「朝からあるの、普通に終わってる」

「それな。しかも、午前だけだからなおさら」

「じゃあもう潔く休みにしてくれ」


 横の卓からもそんな声が聞こえてきて、また笑いがこぼれた。学食の中では、同じ話がいくつかの卓で少しずつ形を変えながら回っているみたいだった。


 僕はうどんの汁を少しだけ飲んで、まだ熱いことに遅れて気づいた。


「午前で終わると、逆に昼から何すんだろ」


 口に出してから、少しだけ早かったかもしれないと思った。けれど岡田がすぐに乗った。


「じゃああれじゃん。準備とかすりゃいんじゃね?」

「……学園祭の?」

「そう。どうせ学校来るなら、そのまま残ればよくね?」


 言い方は雑だったけれど、変に整っていない分だけ自然だった。僕もすぐには返さず、箸の先でうどんを持ち上げたまま少し止まった。昼から空く時間、という見え方に、朝より少しだけ形が出る。


 宮本が水を飲んでから、短く言う。


「まあ、やることある日はそうなるかもな」

「ある日は、な」

「毎日残るとかは無理だわ」

「お前は部活なくても無理だろ」


 また笑いが広がる。今度は僕もそのまま笑った。


 学園祭の話が出ても、空気はこの前みたいに黒板の方へは寄っていかなかった。ただ、昼から空くならその時間に何かが入るかもしれない、というくらいの薄さで、机の上のトレーや紙コップのあいだに混ざるだけだった。


 横の卓で宮本が誰かに呼ばれて、少しだけそちらを見る。返却口の方では、食器を重ねる音が続いていた。学食の床の上を、人が絶えず動いていく。夏休み前の最後の昼みたいでもあったし、普段通りにも見えた。


 僕は残っていたうどんを食べ終わって、箸を置いた。


「でも、午前で終わるなら眠くはならなさそう」

「授業短いから?」

「いや、そこじゃなくて。終わり見えてる方が、まだ」

「それはちょっと分かる」

「水野、そういう変なとこあるよな」

「何がだよ」

「妙に適応しようとする感じ」


 岡田が笑いながらそう言って、僕は否定しかけたけれど、うまく言葉にならなかった。適応しようとしているのかは分からない。ただ、完全に嫌だと切るには、昼からの時間が少し広く見えすぎていた。


 学食を出ると、廊下は教室の方へ戻る人と、まだ売店の方へ流れる人で少し詰まっていた。窓から入る光が強くて、白い床の照り返しが目に残る。


 午後の授業は、朝より静かだった。


 夏休み前らしい緩みはあるのに、午前授業の話を一回聞いてしまったせいか、今の時間が少しだけ余計に見える。来週であれば、今頃は家にいるだろう。そんなことを思ってしまうと、教科書のページをめくる手まで少し中途半端になる。


 木下さんは、隣でいつも通りノートを取っていた。字の間隔が崩れない。授業中はほとんどそれだけで、昼の話を引きずっている感じは見えないのに、休み時間に一度だけ、窓の外を見ながら小さく言った。


「午前だけって、慣れるまでは変な感じかも」


 僕はそれにすぐ返せなかった。変な感じ、という言い方がちょうどよかったからだと思う。嫌とか面倒とかより、そっちの方が近い。


「……たしかに。昼、余りそうだし」


 木下さんは僕の方を見て、口元にだけ小さく笑みを置いた。


「余る、って言い方するんだ」

「いや、なんか。空くっていうか」

「うん、分かる」


 それだけだった。けれど、昼休みの学食でぼんやりしていたものが、その一言で一瞬だけ輪郭を浮かべた気がした。


 放課後になると、教室はまたいつもの方へ戻っていった。


 終礼のあと、帰る人の鞄の音が先に増えて、そのあとで紙を出す音や椅子を引き寄せる音が混ざり始める。昼より少し深い静けさがあって、でも完全に静かなわけでもない。窓の外はまだ明るくて、教室の奥まで光が残っていた。


 僕は机の上にノートを出したまま、すぐには立たなかった。


 右では木下さんが英語の問題集を机の端へ寄せて、その隣にルーズリーフを置いている。前の方から、佐藤さんが椅子を半分こちらへ向ける音がした。後ろでは井上が筆箱のファスナーを閉めずに、開けたまま机へ置いている気配がある。


「葵、来週さ、ほんとに朝から来るんだね」


 佐藤さんが振り向きながらそう言って、机に肘をついた。


「夏休みなのにー」

「意味わからんよね」


 井上が後ろから少し遅れて入る。


「また言ってる…」

「……だって納得してないし」

「一週間ずっと言ってそう」


 笑いながら言う声だった。前の方の窓が少し開いていて、風が入るたび、黒板の上の掲示物の端がかすかに浮く。今日一日で何回も出た話なのに、放課後の教室に来るとまた少し違う形になる。昼の学食みたいに雑には広がらない。机のあいだをゆっくり通るくらいの速さで残っている。


 木下さんはルーズリーフの端を押さえたまま、少しだけ顔を上げた。


「でも、帰るのは早いんだよね」

「そこだけはそう」

「それで帳消しになるかは別だけど」


 佐藤さんがすぐ返して、木下さんは声に出さないまま、口元だけが先にほどけた。自分から広げる感じではなく、ちょうどそこに置くだけの返し方だった。


 前の扉が開いて、部活帰りの空気が少し入る。宮本が先に顔を出して、その後ろから岡田が入ってきた。


「まだやってんの、その話」

「やってるよ」

「お前らしつこ」


 岡田は鞄を自分の机へ放って、それからこっちを見る。


「てか、来週ほんとに昼から暇じゃん」

「お前、それ昼休みにも言ってただろ」

「大事な話だからな」


 宮本が笑いながら椅子を引いた。低い音がして、放課後の教室に馴染む。


「でも、昼から残る日増えるかもな」

「準備?」

「それもあるし。なんか、そのまま帰るのも変だろ」


 僕はその言い方を聞いて、少しだけ机の上を見た。変だろ、というのも、たしかにそうだった。学園祭の話が続いていたから、というだけでもなかった。いつもの放課後に、来週の時間だけが少し遅れて重なる。


 岡田が背もたれに身体を預けていた。


「じゃあ水野、来週も家帰んの遅くなるな」

「何で俺なんだよ」

「残りそうだし」

「お前もだろ」

「俺は気分で帰る」

「一番信用できないやつ」


 そこはすぐに笑いになった。佐藤さんも前の席で笑って、木下さんは視線を机に落としたまま、頬を少しゆるめていた。井上は背もたれに寄りかかって、面倒そうな顔のまま口だけで笑っていた。


 誰かが問題集のページをめくる。別の席で椅子の脚が少し鳴る。教室に残っている人の数は、この前までと大きくは変わらないのに、来週の時間の話が出たせいで、机のあいだの空き方だけが少し違って見えた。


 窓の外はまだ明るいけれど、空気だけが微かに熱を帯びていた。少し曖昧で、切れ目の薄い夕方だった。今日ここに残っている時間と、来週の昼から空くはずの時間が、まだ始まってもいないのにどこかで重なっている。


 僕は頬杖をついて、開いたままのノートを見た。何かを書くつもりで出したのに、まだ一行も増えていない。前の方では佐藤さんが何か言って、それに岡田がすぐ乗って、宮本が少し遅れて笑っていた。木下さんはその声を聞きながら、ルーズリーフの端をもう一度揃え直している。


 教室の中の音は、どれももう慣れたものばかりだった。


 それなのに、今日はいつもより少しだけ長く残る。

 夏休み、という言葉より先に、まだ明るいままの時間が、机の上へ静かに伸びていた。

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