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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第34話「傾いていく」

 終礼が終わると、椅子を引く音がひとまとまりで鳴って、そのあとでまた教室のあちこちへ散った。


 鞄を持って立つ人もいるのに、近くの席にはまだノートも筆箱も出たままだった。プリントを重ねる音がして、少し遅れて、筆箱のファスナーが短く鳴る。窓の外はまだ白く明るくて、廊下へ出る背中も急いではいない。


 僕は現代文のノートを閉じずに、右下の角だけ指で押さえていた。右隣では、木下さんがシャーペンを置き直したあと、開いたままのノートに目を落としている。前の方で、佐藤さんが椅子を少し引き寄せて、後ろを向いた。井上は後ろの席で、机の端に肘を乗せたまま、まだ帰る形になっていない。


「葵、さっきのやつさ」


 佐藤さんの声で顔を上げると、黒板はもう半分くらい消されていた。端の方に白い跡が薄く残っていて、そのあたりだけ、まだ授業の続きみたいだった。


「カップとかソーサーとか、ああいう話まで出ると思わんかった」

「俺も」


 そう返してから、ノートを閉じるでもなく、また角を指でなぞった。


「もっと、ざっくり終わるのかと思ってた」

「ね。喫茶店やる、で終わる感じかと」


 佐藤さんが笑って、すぐ横を見る。


「佳乃ちゃん、ああいうの平気そうだった」


 木下さんは動かしかけた手を止めて、佐藤さんへ目を向けた。


「平気っていうか……嫌ではないけど」

「ほら、そういうとこ」

「どういうとこ?」


 そう言って、木下さんの表情がふっとゆるんだ。それもすぐに、いつもの落ち着いた方へ戻っていった。


 後ろで、井上が小さく笑った。


「水野は、ああいうの考えるより、説明してる方が似合う」

「何それ?」

「そのまま」

「雑すぎるだろ」

「でも分かる」


 佐藤さんがすぐに重ねて、僕は前の席の背もたれを見たまま、少しだけ息をついた。


「佐藤さんもそっち?」

「いや、葵そういうの上手いじゃん」


 その言い方に、僕は返しかけてやめた。上手いと言われるほどのことでもないし、否定するとそれはそれで面倒だった。黒板の白い跡が、まだきれいには消えずに残っている。


 前の方ではもう帰る人の背中が動いているのに、近くの席の机の上だけはまだ片づききらない。廊下の声と紙の音が、きれいに分かれず混ざっていた。


 しばらくして、廊下側から足音が近づいた。引き戸が開いて、風が一度だけ入る。


「おつかれー」


 岡田の声が先に入ってきて、そのあとに鞄を机へ置く少し重い音がした。続いて宮本が入ってきて、自分の席の方へそのまま歩く。


「まだその話してたんだ」


 宮本の声は低いのに、入ってくると後ろの空気が少し近くなる。


「ちょっとだけね」


 佐藤さんがそう返すと、岡田が後ろの席に浅く腰を下ろした。


「喫茶店、思ったよりちゃんとやる気なんだな」

「今さら?」


 僕が言うと、岡田が笑った。


「いや、もっと軽いんかと思ってた。紙コップで飲み物置いて終わり、みたいな」

「それだと、喫茶店っていうよりただの休憩所じゃない?」


 佐藤さんがすぐに返す。


「まあでも、分かるけどね」


 宮本が鞄を机の横へ寄せながら言った。


「ケーキスタンドとか出たとき、ちょっとびっくりした」

「そこまで行くんだ、とは思った」


 木下さんがそう言って、閉じかけていたノートをもう一度だけ軽く押さえた。


「見た目まで、ちゃんとこだわるんだなって」

「それは俺も思った」


 僕が言うと、岡田がすぐにこっちを見る。


「水野は、ちょっと“面倒そう”って思っただろ」

「思ったけど」

「早いな」

「だって、こだわり始めたら大変じゃん」

「そういうとこほんとブレないよね」


 井上が後ろから入って、そこでようやく笑いが少し広がる。


「もう、適当にやれる感じでもないよね」

「そこなんだよなー」


 岡田が机に肘をついたまま言う。


「雑にやるには、備品がちゃんとしすぎてる」

「その言い方だと、学校が悪いみたいだけど」

「悪くはないだろ。ただ面倒なだけで」

「それ、言いなおした意味ある?」


 僕がそう返すと、宮本が少し笑った。


「でも、やるならそのへん使う方が早そうだよな」


 宮本の声が落ちたあとも、黒板の白い跡はそのままだった。


 岡田がふっと木下さんの方を見る。


「木下さんは、ああいうの適当にはしなさそう」


 木下さんはすぐには返さなかった。閉じたノートの上に置いた手を少しだけずらしてから、顔を上げる。


「…どういうこと?」

「いや、ちゃんとしてそうだから」

「岡田くんの“ちゃんとしてそう”は、だいぶ幅広いよね」


 後ろで笑いが重なる。佐藤さんが肩を揺らして、こっちを振り返る。


「葵はー……」

「もういいって」

「まだ何も言ってないし」

「言う流れだったでしょ」

「まぁ、水野って最初そういうの言うじゃん」

「雑に掘り返すな」


 佐藤さんが笑う。


「最初に誰かがふわっと言ったあと、葵が言い直すと、だいたいそれっぽくなるし」

「それ、褒めてんのか分かんないな」

「褒めてるって」


 木下さんが少し遅れて口を開いた。


「……分かりやすい、とは思う」


 そのあと、すぐには誰も次を足さなかった。


 僕はすぐには返せなくて、ノートの端を揃え直した。紙が机に擦れる短い音がした。


「……それ、返しにくいんだけど」

「別に、思ったから言っただけ」


 そう言った木下さんの目元には、微かに皺が寄っていた。


 廊下の足音は、もう前より遠かった。

 空いた席のぶんだけ教室は少し広く見えるのに、机の上のものはまだどこも残っている。


 陽の光が少しずつ教室の影を斜めにしていって、喫茶店の話をしているのか、もうしていないのかも曖昧な空気だけが教室に残っていた。


 僕はノートの角を揃えて、筆箱を閉めずに右へ寄せた。

 まだ帰る感じがしなかった。

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