第4話「ポテトの音」
授業中の教室は、まだ「クラス」って呼ぶには少し硬かった。
黒板に当たるチョークの音が、一本の線みたいに前から後ろへ伸びてくる。窓の外は明るいのに、教室の中だけ薄い膜が張っているみたいで、誰かが咳をすればそれだけで空気が動く。
僕はノートの端を指で押さえながら、先生の言葉を追っていた。シャーペンの芯が紙を擦る音が、周りからも少しずつ聞こえる。机の脚がたまに鳴る。椅子が小さく軋む。そういう細い音が、授業の言葉より先に耳に入ってくる。
斜め前の佐藤さんは、背筋を伸ばしたまま黒板を見ていて、たまに小さく頷く。動きは大きくないのに、そこだけ少し明るい。
少し後ろに井上がいて、肘をついたままノートを眺めていた。猫背のまま、手だけは動いている。宮本はその隣で、同じように板書を追っていて、シャーペンの動きがやたら一定だった。書く速さが変わらないから、見ていると眠くなる。
先生が板書を止めて、振り返った。
「じゃ、ここ。……えーと、岡田」
呼びかけに、教室のどこかから小さな「はい」が返る。返事だけは元気で、でも本人はまだ寝癖が残ってそうな顔をしていた。
先生が続きを言おうとした、その瞬間だった。
ティロリ♪ ティロリ♪ ティロリ♪ ティロリ♪……
教室の空気には似つかわしくない音が鳴った。
軽い。明るい。どこかのファストフード店で、トレイが並んだカウンターの向こうから聞こえてきそうな、あの合図。授業の途中に落ちるには、やけに生活感が強い。
一拍、みんな固まった。
「……え?」
誰かが小さく言って、椅子がひとつ擦れる。ノートをめくる手が止まる。視線が一斉に動く。先生の眉が、ほんの少しだけ上がる。
岡田が「あ……!」という顔をして、慌ててポケットを探り始めた。机の中も開ける。教科書がずれる音。筆箱が机に当たって、コツッと鳴る。動きが一気に雑になる。焦りが、そのまま手に出ている。
僕は困惑しながらも、口の端だけが勝手に緩んでしまっていた。笑っていいのか判断がつかないのに、音の間抜けさだけが先に来る。
先生は一度、口を開きかけて、そこで止めた。言葉より先に、息が漏れたみたいな笑いが小さく出る。出たのを自分で気づいたのか、先生はすぐに咳払いに変えた。
「……岡田。今の、なに」
声は怒ってない。平らだけど、完全には平らにしきれていない。
岡田は「すみません」と言いながら、ようやく何かを押した。音が止まる。
止まった瞬間、教室が変に静かになる。静かになったせいで、さっきの「ティロリ」が余計に残る。笑いを飲み込むための喉の音が、あちこちで鳴る。
井上が、口元を拳で押さえたまま肩だけ小さく揺らしているのが見えた。宮本は顔を伏せて、シャーペンの先でノートの同じ場所を二回なぞった。たぶん笑うのを堪えてる。
岡田は「焦った~……」みたいな顔をして、いったん手を止めた。肩が少し落ちる。止めたと思った瞬間に、余計に周りの空気が気になる、みたいな間。
そのとき、もう一回鳴った。
ティロリ♪ ティロリ♪ ティロリ♪ ティロリ♪……
さっきと同じ音が、今度は教室の真ん中で鳴っているみたいに響いた。
一瞬の間のあと、教室が爆発した。
声を出して笑う人が出て、そこから一気に広がる。机に突っ伏す音、椅子が軋む音、息を吸って吐く音が、全部笑いに引っ張られていく。堪えようとして無理な笑い方が混ざって、余計にうるさくなる。
佐藤さんはもう、最初から声を出して笑っていた。椅子の背にもたれて、顔を少し上に向けて、肩を揺らしながら笑う。止めようとして止まらない、あの笑い方で、「やばいって」と言いながら、また笑う。
先生も、もう一回だけ咳払いを試した。試したけど、笑い声の波に飲まれて、結局、口元が崩れたまま板書の方へ体を向け直す。肩がほんの少し揺れている。笑っているのを隠そうとして失敗している。
岡田はもう、笑われてることより、状況のほうに負けていた。「やっちゃったなぁ……」という顔で、机の中をもう一度探り、今度こそ取り出して、画面を見て何かを押す。慌ててるのに、操作だけは妙に真面目で、そこがまたおかしい。
音が止まっても、笑いはすぐには止まらなかった。
井上がようやく息を整えて、机に額をつけたまま小さく笑っている。宮本も顔を上げられないまま、肩を上下させている。僕も結局、声は出さないようにしていたけど、腹のあたりが勝手に揺れて、ノートの文字が一瞬読めなくなる。シャーペンの先が紙から浮く。
先生は板書を再開した。
「……じゃ、続き。さっきの式な」
教室は少しずつ戻っていく。けれど、戻り方が違った。張り詰めていた糸が一本だけ切れて、切れたままでも別に困らない、みたいな緩みが残る。
窓の外から風が入って、カーテンが僅かに揺れる。ページをめくる音がして、椅子がまた軋む。さっきまでより、その全部が少し柔らかく聞こえた。
僕はそのまま、次の行を書いた。字は相変わらず綺麗じゃない。でも、今はそれでいいと思えた。
授業が終わるまで、教室はずっと少しだけ軽かった。




