第3話「放課後の教室」
チャイムが鳴り終わると、教室の音はゆっくりほどけた。椅子を引く音がいくつも重なって、床を擦る。鞄のファスナーが乾いた音を立てて、誰かの「じゃあね」が廊下へ流れていく。昼間のざわめきが、少しずつ薄くなる。
僕は立ち上がらなかった。
部活に入っているわけでもないのに、こういう日が増えていた。帰ってしまえば、家の机で同じことをするだけだ。宿題もプリントも、結局どこかでやらないといけない。だったら、ここで片付けてしまった方がいい。机と椅子があって、周りにも人がいて、教室の空気が自然と「やる」方へと背中を押してくれる。
人数が減った教室は、昼間より少し広い。広いのに、静かすぎない。紙をめくる音がして、シャーペンの芯が机に当たる音が混ざる。遠くで笑い声が一度だけ跳ねて、すぐに落ちる。窓の外は曇っていて、光が動かない。その動かない光だけが、机の上に平たく残る。
井上も残っていた。
遊園地の一件以来、井上とは一緒に過ごすことが多かった。いつからか放課後にも残るようになっていた。彼は自分の席じゃなく、僕の斜め後ろの机に鞄を置いて、椅子に座った。その動きは緩慢で、教室の空気まで少しだけ緩む。
「水野、今日も残る?」
「うん。ちょっと」
「俺も」
それだけ言って、井上はノートを開いた。ページをめくる音が、放課後の教室では少し大きい。僕もプリントを机の上に広げて、角を指で押さえた。紙が反っていて、押さえると戻る。
教室の後ろの方には、入学式で目を引いた子もいた。
女子の輪の中というより、その端にいる。プリントを揃えて、書く。止めて考える。書き直す。周りの会話の波があっても、手元の動きが崩れない。止まっても、姿勢が変わらない。
「葵ー」
今度は別の方向から声がした。よく通るのに、変に浮かない声だった。
振り返ると、同じクラスの女子が手を軽く上げている。上げ方が短い。呼んだあとも、その場に居座らない。机の横に軽く体を預けて、プリントを片手でまとめ直した。
「まだ残るの?」
「うん、ちょっとだけ。佐藤さんも?」
僕がそう返すと、その子は「うん!」と笑った。笑い方は軽いのに、声はちゃんと届く。教室のざわめきの中でも埋もれない笑いだった。
「残るっていうか、帰るの面倒で」
佐藤さんはそう言って、プリントの端をもう一度揃えた。揃える動きが妙に丁寧で、でも気取ってはいない。机の横に立つ距離も、近いのに踏み込みすぎない。
斜め後ろで、ノートを開く音がした。
「佐藤さん、今日も残ってるの?」
井上の声は少し高めで、返し方も少しだけ遅い。尖ったところがなくて、聞いていると勝手に力が抜ける。
「うん。井上も?」
「うん、まぁね」
短いやり取りで終わって、佐藤さんは視線だけ教室の後ろの方へ流した。すぐ戻る。
「木下さんも、いつも残ってるよね」
「言われてみると、たしかに」
一拍置いて、井上が短く返す。
「木下さんはいつも静かだよね」
僕も手元のプリントに目を向けたまま返す。
佐藤さんが、少しだけ眉を寄せた。
「それって、うちはうるさいってこと?」
「え、いや……違う、そういうつもりじゃ……!」
言いながら、自分の声が少し大きくなったのに気づいて、急いで小さくした。言い方を直そうとすると、余計に言い訳みたいになる。
佐藤さんはその様子を見て、すぐにケラッと笑った。明るいのに響きすぎなくて、教室の空気だけ少し軽くなる。
「冗談だって。焦りすぎだよ葵」
「…焦ってない」
「焦ってたよ」
井上が、ノートから目を上げずに小さく笑う。声は出るけど大きくはなくて、その笑い方だけ少し気が抜けている。
僕はプリントの端を押さえ直した。押さえ直す必要はないのに、手がそう動いた。
佐藤さんは「じゃ、うち向こう戻るね」と言って、手を軽く振った。振り方も短い。戻る途中で女子の輪に混ざって、輪が少しだけ大きくなる。
教室の中に、紙の音とシャーペンの音が戻った。戻り方が自然で、押しつけがない。
井上が小さく言った。
「宿題、多くない?」
「多い」
「だよね~」
会話はそこで止まる。止まっても落ちない。放課後の教室は、その程度の言葉を浮かせたままにできる。
窓の外は曇っていて、光が動かない。動かない中で、椅子が一脚だけギッと鳴り、プリントが一枚だけめくられる。僕はシャーペンを握り直して、ようやく一行だけ書いた。
僕はこの時間が、居心地悪くなかった。好きだと断言できるほどじゃない。ただ、ここに残っていれば、余計なことを決めなくて済む。帰るか、帰らないか。何を話すか、話さないか。そういうものを、いったん机の外へ置ける。
放課後の教室は、その置き場所になってくれた。




