第2話「遊園地」
バスの窓は、指の腹で触ると少しだけ冷たかった。曇り空の光がガラスに貼りついて、外の景色が薄く滲む。発車前の車内は、まだ温まりきっていない。制服の布が肌に当たって、ほんの少しだけ硬い。
入学式の日、教室で簡単な自己紹介をした。名前、出身中学、趣味。順番に立って言う。拍手が起きて、次の人が立って、また拍手が起きる。聞いたはずなのに、今日の朝になると、名前が薄くなる。
顔は残る。声も残る。雰囲気も残る。それでも名前だけがどこかへ落ちる。僕はそれを、いちいち気にしてしまう。覚えられないのは自分のせいだし、失礼だし、たぶん相手は気づく。胸の内側が先に熱くなる。そういう想像だけが先に走る。
車内は賑やか、というより、音の粒が散っていた。小さな声が起きて、返事が遅れて、別の話に切り替わる。笑い声もあるけれど、長く続かない。誰もが様子を見ているのが、声の出し方だけでわかった。
「水野くん」
呼ばれて、僕は振り返った。通路側の席に、同じクラスの男子が座っている。自己紹介で確かに聞いた名字が喉まで出て、そこで止まる。顔は、なんとなく覚えている。目の形と、口の動き方の癖。
「ここ、空いてるよ」
押しつけがましくない声だった。僕は助かったみたいに頷いて、そこに座った。
「ありがとう……えっと」
言いかけて、名前が出ない。僕は視線を窓のほうへ逃がす。窓の外で先生が人数を数えている。声は届かないのに、口の動きだけが見える。
隣の男子が、少し笑った。
「井上。井上直哉。」
「……ごめん。井上くん」
「全然いいよ。僕もみんなの名前、怪しいし」
井上くんはそう言って、足元の鞄を少し寄せた。座席の布が擦れて、乾いた音がした。
バスが動き出すと、車体が小さく震える。走り始めの揺れは不格好で、シートの背もたれが背中に当たって、また離れる。後ろのほうで誰かが「揺れる」と言って笑いが起きる。その笑いも、すぐ別の声に溶ける。
僕は窓の外を見た。見慣れた店の看板が流れていく。新しい学校に入ったはずなのに、外の景色だけがいつものままだ。
「水野くんは遊園地行ったことある?」
井上くんが聞いた。僕は少し考えてから答える。
「小学校の遠足で、一回」
「僕もそれくらい。ジェットコースター、乗れる?」
「……たぶん」
「たぶんって」
井上くんは笑った。喉のほうで鳴る笑い。僕は笑い返すタイミングがわからなくて、窓の方へ視線を戻した。
「乗ったことないから、想像がつかない」
「それ、まあまあ怖いよね」
そこで一回、会話が止まった。止まっても不自然じゃない止まり方だった。周りの席でも似たような止まり方が起きていて、誰かの声が途切れると、別の誰かの声が始まる。流れているようで、つながっていない。
「水野くんってさ、名前覚えるの苦手?」
井上くんが急に聞いた。僕は喉が詰まった。
「……苦手」
「実は僕も。昨日の自己紹介、今日になったら半分くらい消えてる」
「自分はもっと消えてる…」
「まじで」
言ってから、僕は少しだけ恥ずかしくなった。告白みたいに聞こえたかもしれない。でも井上くんは、変に励ましたりしなかった。
「まあ、少しずつでいいと思うよ」
その言葉は優しいというより、ただ現実的だった。僕は頷いた。頷いたあとも、気にする癖は残ったままだった。
―――到着前、先生が前で何か注意事項を言っていた。声は聞き取れるけれど、全部は頭に残らない。しおりの紙を指で押さえると、角が硬くて指先に当たる。前の方で誰かが紙を落として、拾う音がした。拾った人が「ありがとう」と言い、少し遅れて笑いが起きる。朝より、車内がほんの少し柔らかくなっていた。
バスが駐車場に入って止まる。ブレーキの音。ドアが開くと、外の空気が一気に流れ込んだ。匂いが変わる。揚げ物の匂いと、甘い飲み物の匂いが混ざっている。
降りると、制服の群れが横に広がる。先生が「クラスごとに集合」と声を張って、全員が一度だけ立ち止まる。そこでまた散る。誰かが友達を探して呼び、呼ばれて手を上げる。探り探りの動きが、まだあちこちに残っていた。
僕は井上くんの近くにいた。近くにいる、というだけで、他にどう動けばいいのかが少しだけわかる気がした。井上くんも周りを見回していて、行きのバスのときより視線が落ち着かない。
「……水野くん、これからどうする?」
井上くんが聞いた。
「え?えっと……」
僕は言葉を探した。しおりの紙を握ったまま、親指で角をなぞる。
「とりあえず、どこか並ぶ?」
「うん。誰かと合流するとか、ある?」
「ない」
言い切ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。井上くんも一瞬黙って、すぐ頷いた。
「じゃあ、二人で回る?」
“二人で”と言われると、急に責任みたいなものが増える気がした。僕は「うん」とも「そうだね」とも言えず、ただ曖昧に頷いた。
入口の方へ歩き出したところで、同じクラスの男子二人が、同じくらいの速度で近づいてきた。顔は見覚えがある。自己紹介で聞いたはずの名前が、やっぱり出てこない。僕は井上くんの横で、目線だけを合わせる。
二人のうち背が少し高い方が、先に口を開いた。
「井上くん…だよね?」
「うん、井上……です」
言い直しの間が、妙に現実だった。相手の二人も同じように、言葉を探している顔をしている。
「俺、宮本。宮本大地」
「岡田健太」
名乗られて、僕は反射で頷いた。
「水野です。……水野葵」
名字と名前まで言ってしまってから、少しだけ息が詰まる。言い過ぎた気がした。でも、撤回できない。
岡田くんが、しおりを指で叩くみたいにしながら言った。
「さっきさ、バスの中で……なんか二人で回る感じだったよね」
「うん、まあ……」
井上くんが曖昧に返す。宮本くんが、笑うほどじゃない表情で続けた。
「俺らも、二人で回ろうって話してたんだけど」
「……良かったら、一緒に回らない?」
“良かったら”の部分が少しだけ小さかった。断られてもいい、っていう逃げ道がちゃんとある声だった。だからこっちも、断る理由がすぐには見つからない。
井上くんが僕のほうを一瞬見た。確認というより、ただ視線が触れただけに近い。
「水野くん、どうする?」
「……うん。いいと思う」
言ったあとで、僕は自分の返事が早すぎたかも、と少しだけ思った。でも、四人で回る方が楽かもしれない、という気持ちも確かにあった。
岡田くんが「じゃあ決まり」と言って、少しだけ肩の力を抜いた。宮本くんも小さく頷く。井上くんは、しおりを見てから言った。
「最初、どこ行く?」
「ジェットコースターはさすがに後でいいよね」
「観覧車とか、無難じゃない?」
“無難”という言葉に、僕は少し救われた。無難でいい。無難がありがたい。全員がそう思っているかどうかはわからないけれど、少なくとも今は、無難がいちばん安全だった。
四人で歩き出す。歩き出したのに、まだ歩幅が揃わない。誰が先に行くかも決まらない。会話も、きれいにつながらない。つながらないまま、それでも一緒に進む。そういう始まりだった。
観覧車の列は思ったより長かった。前の人の背中が近くて、制服の布の皺がはっきり見える。風が吹くと、髪が少しだけ揺れる。アナウンスが流れて、言葉の端が空に消える。
「水野くん、観覧車好き?」
岡田くんが聞いた。好き、というほどじゃない。でもジェットコースターよりは、まだ想像がつく。
「嫌いじゃない」
「無難だな」
「無難が一番」
宮本くんが言って、岡田くんが笑う。井上くんは列の前を見たまま、少しだけ口元を上げている。でも、その笑いが「仲良しの笑い」ってほど強いわけでもない。誰かの言葉が引っかかる前に、手早く拾って、落とさないようにしている笑いだった。
ゴンドラに乗る順番が来て、僕らは四人で同じ箱に入った。扉が閉まると、音が外と切り離される。空気が一瞬だけ薄くなる。床が小さく揺れて、観覧車が動き始める。
下が遠ざかっていく。人が小さくなる。遊園地の音も小さくなる。曇り空が近い。雲が低いから、余計に近い。
「意外と高いな」
岡田くんが言った。
「そりゃあね」
宮本くんが返す。
「静かにしないと、余計怖くなる」
井上くんが言って、そこで一回、会話が止まる。止まっても不自然じゃない止まり方だった。僕だけじゃなく、井上くんも、宮本くんも、岡田くんも。誰かが次の言葉を探している感じが、同じ箱の中にあった。
僕は窓の外を見た。遠くの景色が、上から見るだけで別物に見える。
「水野くん、名前覚えるの苦手なんだっけ」
井上くんが確認みたいに言った。
「うん」
それ以上、話は広がらなかった。広げないほうが安全、みたいな間があった。
降りる少し前、岡田くんがふいに言った。
「……水野」
呼び捨てが出たあとで、本人が一瞬だけ黙る。
「あ、ごめん。水野くん」
取り繕うみたいに言って、岡田くんは窓の外へ視線を逃がした。
宮本くんが小さく息を漏らした。笑ったというほどでもない。
「いいじゃん。水野……くん」
結局、宮本くんも「くん」を戻してしまう。井上くんが遅れて言った。
「今日だけ、そういう日ってことで」
決めるというより、場を落ち着かせるための言葉だった。
ゴンドラの扉が開くと、外の音が戻ってきた。耳が少しだけ痛い。僕らは順番に降りて、列を抜ける。そこでまた、別のグループの声に混ざる。呼び方も、笑い方も、まだ揺れている。
それから先は、四人がずっと固まっていたわけじゃなかった。列に並ぶたびに前後の人が変わり、写真を撮る場所で別のグループが混ざり、売店の前で「一緒に買う?」と声がかかって、また人が増えたり減ったりする。誰かの笑いに別の誰かがつられて笑い、朝より少し長く続く。でも、まだ「いつもの調子」にはならない。ところどころで、返事が遅れる。視線が迷う。呼びかけが宙に浮く。
帰りのバスは、行きより静かだった。疲れの音が混ざる。寝ている人もいる。小声で話す声が、前の席から後ろの席へ、途切れ途切れに流れる。誰かが前の席に声をかけて、返事が返って、また静かになる。その繰り返しが、朝とは違う。
僕は窓の外を見て、井上くんのほうをちらっと見た。井上くんは目を閉じている。起こすほどじゃない。僕はそのまま前を向いて、小さく息を吐いた。
呼び方は、まだ定まっていない。たぶん明日になったら、また「くん」に戻るかもしれない。戻ったとしても、おかしくない。
それでも、今日一日で、全員の声の当たり方だけが少し変わった気がした。近づいたというより、“警戒心が薄れた”程度の些細なもの。
僕は心の中で一度だけ、呼んでみる。
井上……くん。
宮本くん。岡田くん。
覚えるのは苦手なままだ。気にしてしまう癖も残る。それでも、今日の終わりの静けさは、朝の静けさとは確かに違っていた。




