第31話「寄っていく」
昼を過ぎた教室は、まだ少しだけ昼休みの続きみたいだった。
笑い声が上がって、すぐに細くなる。机に手が当たる音と、椅子の脚が床を擦る音が、ひとつ遅れて続いた。窓の外は白く明るいのに、その明るさは教室の奥まで一気には届かず、黒板の下と、出したままのノートやプリントの端だけを先に拾っていた。
僕は開いたままのノートに目を落として、シャーペンを指の間で転がした。何か書くつもりだったわけじゃないのに、ページだけそのまま残っている。近くではまだ小さい声が続いていて、教室全体が前を向ききる手前で少し止まっていた。
前の引き戸が開く。
先生が教卓の前まで来る。何人かの声はすぐには切れなかったけれど、教卓に手がつく音のあとで、少しずつ細くなった。
「この前、学園祭の案だけ出して終わっただろ。今日はその続きな。そろそろ何やるかくらいは決めたい」
そこで何人かが顔を上げた。まだ真面目一色ではないけれど、さっきまで手元を見ていた人たちの視線も、少しずつ黒板の方へ揃っていく。
「今日で決め切る感じですか?」
佐藤さんの声だった。
「そこまで行けたら行きたいな。案だけ増えても、たぶんまた平行線になるし」
「えー、じゃあ楽そうなやつ残してくださいよ」
「それはみんな思ってる」
教室のあちこちで小さく笑いが起きる。その笑いが引いたあとで、黒板の前だけが少し見やすくなった。
先生がチョークを持つ。白い字が並び直されていく。喫茶店。お化け屋敷。展示。ゲーム。前と同じ案のはずなのに、白い字だけが少し近く見えた。
「じゃ、ここから絞るならどれかってとこだな。何か考えがあるやついるか?」
すぐには声が出なかった。黒板を見ている人は多いのに、最初の一言だけ少し遠い。
「なんだかんだ喫茶店は普通に強くない?」
「でも無難すぎん?」
「まあ、入りやすさはあるよな」
「それはある」
そのあと、黒板の前だけ少し静かになる。さっきまで笑っていた声が引いて、字を見たままの人が増えた。
「お化け屋敷は楽しそうではあるけど」
「準備がだいぶしんどそう……」
「ただ暗くすればいいって話でもないしな」
その辺でまた笑いが混ざる。ただ、さっきよりはふざけた感じが薄くて、ちゃんと考えながら言っている声の重なり方だった。
前の方で、宮本が黒板を見たまま口を開く。
「喫茶店とゲームは、まだ先が見えやすいよな」
「展示は中身決まんないと弱そう」
「お化け屋敷も、なんかあったとき立て直すの大変そう」
「それはある」
「当日こけても修正効かなそうだし」
一人が言ったあと、すぐ別のところから声が足される。誰かが決めていくというより、見え方が少しずつ揃っていく感じだった。
先生が頷く。
「じゃあ、展示は一旦端に寄せるか。悪いって意味じゃなくて、今の段階だとな」
黒板の端に小さく印がつく。その動きだけで、残るものと、まだ早いものの差が少しだけ出た。
僕は黒板を見たまま、机の端に指を置く。まだ何も決まっていないのに、さっきよりは見やすい。黒板の上で、さっきまで同じだったものが、少しずつ分かれはじめていた。
木下さんが小さく言う。
「喫茶店か、ゲームかって感じだね」
「うん」
「どっちも、他の二つよりは考えやすそう」
たしかに、とは思う。お化け屋敷や展示より、そっちの方がまだ想像しやすい。
「葵は?」
「……え?」
前から佐藤さんの声が届く。急に名前を呼ばれて、一拍だけ遅れた。教室の何人かがこっちを見た気がして、少しだけ座り直す。
「どれがいいと思う?」
黒板を見直す。喫茶店。ゲーム。端に寄った展示。お化け屋敷もまだ残っているけれど、さっきより軽く見えた。
「……喫茶店かな」
「おー、珍しくはっきり」
岡田が後ろから笑う。
「結局、ゲームも中身次第なとこあるし。喫茶店の方がまだ考えやすい」
「それは分かる」
「急に現実的」
笑いが少し広がる。さっきまで止まりがちだったのに、ひとつ土台が見えたあとで、話の進み方だけ少し速くなる。
宮本が続ける。
「まあ、喫茶店の方が当日の流れは見えやすいと思う」
「何するかも、まだ浮かびやすいし」
「ゲームは、数とか内容でだいぶ変わりそう」
「喫茶店なら、来る側も入りやすそうだよな」
声が前の方だけで固まらずに、少しずつ教室の中へ散っていく。その散り方のまま、残す案の形だけがだんだん寄っていった。
「でも、言うて喫茶店も準備だるそうじゃない?」
「それ言ったら全部だるいよ」
「ただ、お化け屋敷よりはまだ想像つくかも」
「それな!」
「お化け屋敷は作るもの多そうだし……」
「喫茶店だったら椅子と机はそのまま使えるしね〜」
笑いと本音が半分ずつみたいな声が続く。冷めているわけじゃない。ただ、楽しそうだけで押し切るんじゃなくて、その先の面倒さまで見えている感じが、高校生らしかった。
先生が黒板を見たまま言う。
「喫茶店は既定路線として、ゲームはどうする?」
「一緒にはしづらくない?」
「喫茶店の中にちょっと入れるくらいなら、ありかもだけど」
「そこまで行くなら、もう喫茶店だけでよくない?」
「たしかに」
「先に土台決めた方が早そう!」
最後の声は少し明るくて、それでまた教室の空気が前へ寄る。
そこで一度、黒板の前が静かになった。字を見ている人が増える。さっきまでばらけていた案の中で、ひとつだけ少し重くなるのが分かった。
先生が振り返る。
「じゃあ、喫茶店系でいくか。細かな部分はまた詰めるとして」
その言い方のあとで、反対の声は出なかった。
賛成、という大きな声が揃ったわけでもない。ただ、黒板に残った字のうち、ひとつだけが急に前へ出てくる。さっきまで散っていた視線が、少しずつそこへ寄っていく。
先生が「喫茶店」の横に小さく丸を付ける。
その動きを見たあとで、あちこちの空気が少しずつほどけた。椅子にもたれる音。机に肘をつく音。前の方で上がった短い笑い声が、少し遅れて別の席まで広がる。黒板を見たまま、もう次の話をし始める声もある。
教室のあちこちで、喫茶店、という言葉だけがさっきより少し軽く口に出る。まだ決まったばかりで、うまく馴染んでもいないのに、その名前のまわりだけ先に人が集まりはじめているみたいだった。
黒板の上の「喫茶店」だけが、さっきより少し濃く見えた。
【自分用メモ】
完成度低め




